北極星

 ある日の夕方のこと、僕は引っ越しの準備をしていたんだ。持っていくものと、実家においていくものを決めなければならない。平たく言えば、取捨選択をしなければならない。その日の少し前にも、僕は自室の大掃除をしていた。もう、ここに戻ってくるのは年に数回なのだから、綺麗にして旅立ちたかった。立つ鳥跡を濁さず、というわけだ。小中高の教科書や、もう読まないだろうなと思った漫画や小説を次々と段ボールに詰めて、結果的に部屋の本棚はだいぶ空き、殺風景な段ボールだけが積み上がった。実家に荷物を置くことはもうあまりないのだろうから、綺麗に本棚を空けても仕方ないのだ。しかし、僕はそこに読まないであろう本を置くことよりも、何も置かないまま空けておく方に価値を見出した。まあ、どうでもいい話だ。


 そこで、置いてきた本、もしくは段ボールに詰めてきた本というものが存在する。果たしてこれはもう一度僕の目に触れることがあるであろうか。ない、もしくはその価値がないと判断したからそうしたのであって、おそらくもう読むことはない。何か、悲しいのだ。人間の時間というのは有限で、いつも好きな本を読む訳にはいかない。少しばかり面白い本であっても、何度も読み返すこともない。なにか切り捨てたような感じがする。そんなことを言えば人生はそうなのだ。自分が何かをした、という行動の中には「選んだ」ということが内包されており、何かをしたということは、何かをしなかったということの裏返しなのだ。日本に上り坂と下り坂、どちらが多いですかと聞くようなものだ。


 家を出るとき、僕は何を感じたのだろう。父は、今日が門出の日だ、と言った。ただ僕たちは寝台で移動したから出発が夜になったから真っ暗の中門出だと言ってもことさらしっくりこなかったのは覚えている。この家に、18年間の感謝をしっかりと伝えることはできただろうか。高校3年間も、住んでいないようなものだったから、今しばらく一人で暮らしてみても、特に何も悲しくはないのだろう。



 ただ、なんとなく、年を取りたくないと思う。今のまま止まっていたいのだ。中学のときもそう思ったし、今もそう思っている。みんなが止まって、僕だけが動くという某道具のようなものである必要もなく、時計がない世界でみなが今日を繰り返す。言葉にするのが難しいが、要するに、先に進むのがなんとなく嫌なのだ。昔の人は目に見えること、わかることを「さき」と言った。だからこそ「先の大戦」というような言い方が存在する、と聞いたときはささやかな感動を覚えた。未来は「あと」らしい。僕たちは「あと」にむかって進んでいるというような言い方が成立するのか。さあ、わからない。ただ、あとのことはわからないということだけがわかっている。



 旅立ちの日の1か月くらい前の日。1/31と3/1が節目の日であった。前者は登校の義務が解除される日であり、後者は卒業式だ。いろんな友達と話した。「また会おう」という言葉はだいたいは実現しないということを、中学校で身に染みて感じたのだ。だからこそ、これで別れても、一生会うことはなくても悔いないように、ということを思って行った。結局、いつもどおりのような日だったけど。それでいいんだ。それがいいんだ。ただ、その「またね」を心のどこかに置いておくことで気持ちは楽になるんだ。また、会いたい人には会える、ということを僕はよく知っている。結局、やろうと思えばどうにでもなるんだ。ただわざわざ思わなくても一緒に居たいと少しでも思える人が集っていた「学校」という場所が愛おしいんだ。


 声に出したら引き止めそうさ 心で呟く

 ”僕は僕の夢へと 君は君の夢を”


 先日、この歌詞の意味をやっと実感したんだ。



 なんか、卒業で涙を流すことはあいにくなかったけれど、世間で言われているように、印象的な出来事だったから書き残しておきたくなった。



 

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