秒針

 ふと、腕に目をやると、せっせとひとりでに秒針が動いている。たとえば、ひとりで勉強をしているとき、散歩をしているとき。ただ、秒針が回っているというだけで、時計という無機物になんともいえない愛着が浮かんでくるのだ。腕時計をつけ始めたころはなんか鬱陶しくて仕方なかったが、今となってはつけていないほうが違和感を抱くというのも不思議なものだ。


 静かな部屋の中で、腕時計に耳をやると、かちかちと、ささやかながら、秒針が動いている音が聞こえる。やはり、そのたびに、得も言われぬ安心感を得るのだ。



 時間は平等で、誰にも等しく与えられているものだ。ただ、それをどのように活用できるかということについては格差があるのには、間違いないだろう。時間は留まることを知らず、純然たる「現在」というものは存在しない。すぐに過去へと成り代わってしまうのだ。私たちは、「現在」について考えることはできない。少し考えてみると、私たちは「あのときどうしたらよかったのだろう」と「これからどうしたらよいのだろう」これらだけを考えているということがわかるはずだ。後悔ばかりの人生だ、という人は前者に時間を割きすぎている。過去の事実から教訓を抽出したらもう忘れ去ったらいいのだが、そうはいかない。どうしてか、辛かったことや、忘れたいことほど刻まれていってしまう。それは、本当は忘れたくないのではないのだろうか。忘れたいこと。心が満たされていないこと。それについては、覚えていてあとからしっかりと満たしてあげないといけないのだから。


 「これからどうしようか」

 人の意思というのはいったいどうなっているのだろうか。「環境に左右されるもの」「自分で切り拓いていくもの」どちらだろうか。どちらが幸せだともいえない。親に強要されて、進学校に入れられて、いい生活が送れているのなら親に感謝するのかもしれないし、上手くいってないのならば恨みもするだろう。結局は自分勝手なのだ。「その人」のありようで、良し悪しが決められるとすれば、その”当時”には絶対的な価値尺度が存在しないことになる。刑法とかではあるまいし。結局は、うまくいくように努力して、そうなれば、「あのときはよかった」となるのだから。成功するということは、未来、過去、両方の自分にとって非常によいことなのだろう。自分は線で、途切れるものではないのだから、過去の自分を非難することは決して心地いいものではあるまい?

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