黄鶴楼

 黄鶴楼送孟浩然之広陵

           李白



 『故人西辞黄鶴楼』


 ふと気がつくと、もう1月の真ん中を少し過ぎた。新年になってから、もう半月が経とうとしている。または、共通テストからはや4日。長いようで短かった高校生活が終わろうとしている。学校に行くのは今月いっぱいなので、あとちょうど二週間といったところだ。中学校を卒業する間近のころも、このような感じだったろうか。あのころは受験の脅威というのがまわりで揺らめいているわけでもなくて、非常にほんわかした雰囲気で、卒業式だけ厳かな雰囲気で、そして、笑いながら、泣きながら別れていった。最後にあったのがその日だ、という人もとても多い。それで、今はどのような感情なのだろうか。ただ、高校生活が終わるという漠然とした寂しさ。”華の”とはよく言われるが、とくに何もなかったなあと思い、三年前の自分より、どこか成長できたのだろうかと疑問に思う。振り返ると、うまくいったことも多少はあるし、絶対にしなければいいことも、たくさんしてしまった。そうなのだ。そういうものなのだ。



 『煙花三月下揚州』



 またひとり、ひとりと教室から人が減っていく。寮生は遠方の実家に帰ったりだとか、自宅生は家とか塾にこもって勉強したりだとか。学校のこの時期の特別授業があんまり芳しくなかったりするもんだから、そっちのほうが効率がいいのならそれがいいのだ。当たり前のように毎日話していた友達が、もう学校には来ていないというのは不思議な感じがする。ただ、もう二度と会えないのだという悲しみの情が込み上げているわけではなくて、どこかでまた会えるということは確信しているのだが、その人がいなくなっても、特に学校生活に変化が出ていない自分に驚きもしている。ただ、不思議なのだ。いなかったら、いないだけ。人はまたそれを、冷酷だという。自分でもそうだと思う。むかしむかし、教室に空いている席なんてなくて、ずっと騒がしかったころを思い出すのだ。



 『孤帆遠景碧空尽』



 もう、彼、彼女はどこにいるのかわからない。ただ、どこかで精一杯にやっているのだと、それで心のどこかが暖かくなったりするのだ。中学校を卒業するときに、またすぐどこかで会えるものだと思っていた。僕の中学の卒業生は120人くらいいたのだが、卒業後に会ったのは、20人にも満たないだろう。自分から連絡しようと思う人もそうそうにいないし、あちらから連絡が来ることも少ない。高校の場合もそうなんだろうなと思う。惜しいことをしたなと思うこともいろいろあるけれど、こうなった以上、もう仕方がないのだ。エスカレーターとかですれ違って、「久しぶり!」ができたら、もうそれでいいのだ。寮というのは非常に特殊な空間で、校長先生はよく「同じ釜の飯を食った仲」と言うが、その通りで、なんとも言えない不思議なところがある。風呂場とかも、みんな気にせず普通に裸で入るし。どうだ。その絆というものを、これからいかんなく発揮してもらおうではないか。



 『唯見長江天際流』



 ただ、みなさんに幸がありますようにと、庶幾う。

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