無題

 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

一葉は、その男の、幼年時代であろう。首は15度ほど傾いている。

二葉は、その男の、中学か、高校時代であろう。もはや制服は忘れた。

三様は、これまた、幾らの年齢とも取れる写真である。黒が舞い降りているようだ。


恥の多い生涯を送ってきました。.........


「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」




 自己の周りのものごとは、すべて自分の責任である。


 世の中には、真理(旺文社国語辞典:①正しい道理。 ②いかなる場合にも通用する妥当な知識や認識。)というものはない。人それぞれは、間違いなく自分の価値観を軸に生活していることだろう。世の中に真理はないというのは僕の考えだ。あると言っている人に教えてほしいのは、それはなにか、ただひとつである。世の中はなにかの軸において生きているのか。法律なんて時代で変わる。それぞれの人が持っている漠然とした意識とかだろうか、そのようなものは、やはり真理ではない。また、僕が考えている以上、客観的になることはできない。「すべては私の考えだ。」みたいなのは、逃げ道ではなくただの事実なのだ。だから、世界に確固たる事実があるとすることもできるし、ないというふうにもできる。やはり、自分の考えでしかないのだ。哲学者さんたちは、その自分の考えを突き詰めていって発表したりしているのだから、とてもすごいことなのだ。世の中に真理があるかどうかは、真理を求めるか否かには関係しない。


 羽生善治さんは盤上での真理、棋理を求めていると聞いたことがある。おそらく、すべての棋士の先生がそうなのであろう。有名な「どうぶつ将棋」は完全に内容が解明され、どのように指しても、後手が必ず勝つということが証明された。将棋にもやがてそのような日がくるのであろうか。81マスに無限の世界が広がっているとは、なんとも、驚くべきことだ。


 突然だが、これは無題の最終話となる。理由は単純で、書くことがなくなったからだ。日記はおいておいて、随想も書くことはなくなる。はじめたころは毎日投稿していたものだが、いろいろ忙しくなったり、書くのに疲れたりと最近はほとんど更新できていなかった。まあ申し訳ないというよりは、自らの執筆欲が薄くなっただけなのだから、どうしようもないことだ。また、これからは、随想も気が向いたら書くかもしれないが、小説を時間があれば書いていきたい。無題は文章を書くいい練習になったと思う。そもそも、なにも構成など考えず、自分の好きなことを書き連ねていたらいいだけなのだから、幾分と楽な話なのではないかと思う。なかには、なかなか最適な言葉が見つからなかったこともあった。それに、自分の考えていることをただただ言葉に落とし込んでゆくというのもなかなか簡単な作業ではない。身を削っているという気さえしてくるのだ。ただ、ただの事実の箇条書きではおもしろくない。そもそも『無題』はなぜ生まれたのか考えてみる。題名の話でない。僕が執筆を始めた話だが、書き始めたのは中学二年生のときのことだ。そのときの楽しかったという経験が、あとから思い出されたのだろう。そういえば、おまけとしてこの文章の最後の方には僕の処女作含め、中学時代の三篇くらいを収録しようと思う。上から執筆順に並べる。まだどこにも公開していない。今、書いているのは、漠然と書くことは好きだったが、それを高校になってもまた始めようと思っただけのことだろう。ただ事実を書き連ねるようなことはおもしろくないし、する意味もないので、随想的な感じをしようと思ったわけだ。僕が目指していたのは「日常の中の哲学」。これだ。哲学なんて難しいものじゃなく、ありふれたものだということをとある哲学者様のおかげでそれに気づいた。『無題』という題名をつけた理由は、「読者それぞれが名前をつけて、自分の物語にしてほしい。」みたいな小洒落た話ではない。適切な名前が思いつかなかったということはある。「無題と日付」という題名の付け方が僕の作品の中では非常に多かった。なんだか味気ない気もするが、書くことにまだ慣れず、自分が「これだ」というような題名に出会うまでは、この付け方に非常に助けられていた。一昔前のメールで、何も件名を付けずに送ると、<<無題>>のように表示されると思う。そこから、数割は着想を得ているかもしれない。そうそう、ひとつ思い出した。「題名のない音楽会」、これがきっかけの部分も少なからずある。なんとなく「未完」「無題」こういうのには僕の琴線が反応する。夏目漱石の「未完」とかもいつかは読んでみたいと思っている。嵐のアルバムに「untitled」というのがあるが、かっこいい題名だ。題名がついていないと自らが主張している。僕の作品のようだ。今作は思い残すことがないようにすべてを詰め込むので、相当長くなると思われる。


 では、最後の『無題』の世界をお楽しみください。



 

 第一章 色なき世界  〜急げ傷跡 羅針盤となれ〜



 今となっては少々鮮明ではない。ただ、あまりにも鮮明すぎるときには書けないかもしれない。頭の中が真っ白になるとか、世界から色彩が失われて、白黒の世界になるとかそういう表現を見たことがある。そして、体験したことが一度だけある。


 少々昔の話だ。一年半くらい前、僕は母を亡くしたのだが、その体験は今まで僕が生きていたうちの出来事として、最も衝撃を与えた。今ここで書いているが、「衝撃」とかいう安っぽい言葉にしか使えない自らの語彙のなさに驚いているくらいだ。どうだろう。


 父からの電話で知らされたのだが、それが、本人が意図していることではなくてもいささか軽いように聞こえた。僕も、ああそうなん、と一回は聞き流してしまった気がする。ボーっとしているところに、重要なお知らせが一気に入ってきても困るのだ。まあ、学校で呼び出しをくらったらしく、それに寮でも今すぐ受付に来てくださいみたいなことを言われた気もするので、どちらかといえば覚悟はしていたことだ。その後のことはよく覚えている。すぐにタクシーを呼んで病院まで向かったのだ。色々と準備もある、まずは自室に戻った。何を考えるまでもなく涙がこぼれ、プリント類を濡らしてしまった。このときは中間考査の直前だった。リュックに大量の教科書類を詰め込んだ。こんなことをしている場合ではなかったのかもしれない。また、通夜、葬式の待機時間もずっと数学の問題を解いていた。別に僕は数学な好きなわけではなく、むしろ嫌いである。このあとのテストの順位はやけに高かった。


 現代人は、人の死に触れるという機会が少なすぎる。昔の人は死を穢れとしていた。全員に等しく訪れるものにもかかわらず、である。気持ちはわからないことはない。今まで、よっぽどの変わり者でない限り「なぜ生きているんだろう」というような問いを考える人はいないと思うが、要するに、生きているということは珍しいことではないのだ。「いろんなことに感謝しよう」と言っている人も、心臓が拍動するごとに感謝をしていたのではどうしようもないだろう。だから、その普通が、普通でなくなる瞬間、恐れないはずがないのである。現代人は、人が死ぬ瞬間というのは見る機会というのはあるのだろうか。感謝してもしきれないが、医療従事者の方々は詩を隣に働いているのだろう。現に、僕も死の瞬間というのは見たことがない。今まで、祖父母だったり、友達だったり、母だったり、亡くしてはきたが、死というものは、それらを経験した今でもよくわからないものなのだ。死は当然なのだ。生きている理由を考えない我々が、死の理由というのを考えるのもなかなかないと言っても不思議ではない。自然の摂理だと還元されてもそうですか、とそれで、それ以上はないのだ。この章では、生きる意味と、死について考えることにする。


 1 生きるということ

 僕が大好きな小説で、とあるヒロインが「生きるということ」について興味深いことを話している。そのまま引用させてもらうこととしよう。場末の小説家だからできることだ。句読点は少し変えさせてもらっている。


「生きるっていうのはね。きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ。誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと一緒にいて楽しい、誰かと一緒にいたら鬱陶しい、誰かと手を繋ぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う。それが、生きる。自分たった一人じゃ、自分がいるってわからない。誰かを好きなのに、誰かを嫌いな私、誰かと一緒にいて楽しいのに誰かと一緒にいて鬱陶しいと思う私、そういう人との関係が、他の人じゃない、私がいきてるってことだと思う。私の心があるのは、皆がいるから、私の身体があるのは、皆が触ってくれるから。そうして形成された私は、今、生きてる。まだ、ここに生きてる。だから、人が生きてることには意味があるんだよ。自分で選んで、君も私も、今ここで生きているみたいに。


 何度読んでも、どこを切り取っても、美しい小説だ、本当に。

上記をまとめると、「生きるということは誰かと心を通わせることらしい。」


 では引用は終わって、(原文を考察するような恐れ多いことはできない)僕が思う生きるということについて話していこうか。一言で書くのはなかなか難しい。いくつか条件を提示しよう。


一 生きているのは感じることのできない刹那

二 生きていると実感するのは五感の作用


 僕はまとめる能力はないらしいが、説明はしなくてはいけないだろうな。

わかりやすい二のほうからにしよう。


 二 生きていると実感するのは五感の作用

 これは当然の話ではないだろうか。なぜあなたは、今、自身が生きているとわかるのか。五感の働きによってしかないだろう。気温を感じる、周りを見ることができる、いい匂いがする、美味しい味がするなど、五感を通じてしか生きていることはわからない。僕からしたら、今、アフリカ人が生きているかすらわからない。突き詰めると、僕以外の他人は生きているかすらわからない。とても簡単な話だ。こういう前提に立つと、死後の世界など、考えようもないのだ。「今、五感で感じ取っていること」しかわからない。だからそもそも「人の立場に立とう」なんていうのは無理な話なのだ。諦めるほうが賢明だろう。まとめると、感覚器官のおかげで、あなたは「生きている」ということがわかるのだ。


 一 生きているのは感じることのできない刹那

 僕の中学校一年のときの生徒会目標は「誠瞬」だった。意味を毎回掛ける熟語にしているそうなのだが、これはなかなか好きだった。一瞬一瞬を大切にということだろう。人生とはそういうことだ。僕はこれまでの文章の中で、「今」という言葉を何回も使った気がする。では、この「今」というのはなんなのだろうか。今と、書いた瞬間にその「今」は過ぎていった。「同じ川に入ることはできない」という問題を聞いたことがある人はいると思う。川は常に流れているからね。そういうことだ、「今」というのも言葉にした瞬間にそれは過去を指しているのだ。だから、「感じることはできない」なのだ。では、人間にはどうしようもできないことなのか。仕方ない部分は間違いなくあると思う。どうしても、意識の話になってしまう。解決する方法は、一瞬一瞬を意識することしかないだろうが、そんなのはなんの提言にもなっていない。では、本当にどうしたらいいんだろうな。一生探し続けてください。


 2 死ぬということ

1の節で大枠は示したので、簡潔に終わろうと思う。死ぬということは自然の摂理であり、どうしようもないというものだ。死後の世界がどういう物があるかをわからないのをいいことに、多くの宗教はそこを桃源郷に仕立て上げた。僕からしたらわからないとしか言いようがない。五感では感じ取れないし、想像することしかできない。それは科学ではないだろう。神話の世界には入れない。哲学、宗教、心理学の違いを僕ははっきり説明できるかというと困るが、『幸せになる勇気』という本にそれについての記述があったので気になる人は読んでみるといい。いささか冷たい気もしてきたが、「死」というのは本当にどうしようもないことなのだ。そして、僕は死後の世界には幸せは見出さない。もちろん、そこに幸せがあることは願っている。



 

 第二章 友達  〜柔らかな皮膚しかない理由は〜



 友達とは、なんだろう。家には谷川俊太郎さんが文章を書いた『ともだち』という絵本がある。それには感動的なことを書いてあった気もするが、詳しくは覚えていないので仕方がない。またまた別の本では、「本当の友情というのはそれがなくても生きていけるような人と人の間でしか成り立たない。」というような文章を見た気がする。ああ、たしかにという感じだ。要するに、どちらかが依存しているような関係はよくないということなのだろう。


 僕は、人間関係を築くのは得意ではないと思うがどうだろうか。まあこういう問は僕のことを知っている人にしか伝わらないのでどうしようもない話だ。


 現代では、友達というのはいなくても生きていける。というか、そうでなければ「ぼっち」と呼ばれるような人たちは存在しないのだ。当然、貶しているわけではない。僕も、ひとりで行動するほうが気楽なことがある。多いかもしれない。大事なのは、自らの充実感だ。いいわけではない。他人と遊んだとして楽しくなく、充実感が得られないのであれば、別に、ひとりで勉強したり焼肉に行ったり、カラオケに行ったりしてたほうがいいのではないのだろうか。言い訳ではない。現代で、ひとりでも生きていけるようになったのは、いろいろな技術が発達したからに他ならないだろう。戦時中とか、戦後すぐは隣人とかの協力がなければ生きていくのはなかなか難しかったはずだ。もちろん、現代だって、地球上にひとりでは生きていくことはできない。好きな人と、地球上に二人だけというような夢を見ることはあるが、死が身に迫っているのを感じるだけだろう。


 人間は誰にだってしたいことがある。ただ、それだけでは生きていけない。「公共の福祉」とかいう概念もそういうことだろう。自らを抑制することは、我慢とかいうそういう次元ではなく、生きていく上では必ず必要なことなのだ。だから、その度合がピッタリとあった「親友」というような関係になれたと、自分で思えることはとてつもなく幸せなことなのだ。


 恋愛で一章分書こうと思っていたが、いかにもつまらないことにも思えてきたのでとばそう。次が終章となる。




 終章 努力・将来  〜木の芽みたいな頼りない爪でも〜

  


 わたボコリみたいな翼でも 木の芽みたいな頼りない爪でも

 明日 僕は龍の足元へ崖を登り 呼ぶよ 「さあ行こうぜ」


 僕は将来は何をしたいのだろう。

 僕は、なにか努力をしているだろうか。


 僕は別に、なにかしたいことがあるわけじゃない。かといって、何でもできるというわけではない。サッカー選手、プロ野球選手、棋士、こういう幼いときから目指すような職にはもはや就けない。ほとんどの人と同じような人生を送っていくような気がしているのだが、ある程度の幸せが得られるのならばそれで十分だ。


 初回の現代文の授業で「為せば成る」という言葉の意味について考えさせられた。「やればできる」くらいだろうなあというようにしか思っていなかったが、「やるからできる」ということらしい。某「やればできる」高校の校訓は少し軽く聞こえてしまうことがあるが、「やるからできる」という言葉は事実に他ならない。つまり、努力はしたほうがいいとかいうものではなくてしなければいけないものなのだ。長い長い人生で、勉強だけに費やした一年くらいあってもいいだろうということで、今からがんばることとしよう。


 性格というのはどうしようもないものだと僕は思うので、別にどんな性格をしていてもいいと思う。ただ、これが悲観的だと、なにか自らに利益をもたらすことがあるだろうか。冷静さとか慎重さとかはあって困らないというか、いくらでもあってほしいものだ。僕にはないものだ。はじめから「無理だ」とか、少しやっていて「無理だ」ってなってしまったらもうどうしようもない。僕は根性論は好きではないので、どこまでも理屈は貫きたいと思っている。思うのは、そもそも楽観的であるほうが、少なくとも、特に責任を取らないくても済む未成年の間は生きやすいのではないかということだ。


 努力というのは、すれば大抵のことはできるようになるのだ。この「すれば」の部分に何時間、何万時間が含まれているかはわからない。ただ、心が折れることのほうが早いことも多いだろう。少し恥ずかしい話だが、小6の僕はなにか資格がほしいなあということで気象予報士を志した。確か、最年少は小5で受かった人がいたきもする。僕も、おそらく、できる限りの時間をそれに費やしていれば、その資格を今となっては高2だが、取ることはできたはずだ。まあ、仮定の話に意味はない。そういうことをいえば、世の中の人の多くはそんなことばっかりだろう。そのなかでも、苦難を乗り越え、一心に努力をしてきたら報われる。ただ、それは神業だから神童と呼ばれる。遺伝子によって、少しは差は出るだろうが、生まれてきたときに自分がなれるものの大半が確定しているというのは、悲しすぎる話ではないか?



補足 中学時代の著作(3つ)



 題:「僕」の病みノート

 説明:僕が書いた初めての文章である。とある陽気な友人との対話を主として執筆した。どうやら、このころの僕は恋愛のことしか頭になかったらしい。

 


 まえがき

中学生の僕は自分の長所がわからず何かと深く考えてしまい病んでいた。好きな人がいるものの話しかける勇気、行動する勇気が出ず悩んでいた。いくら頭で考えても行動に移せなければ意味がない。自分の特徴といえば頭が良いということくらいしか見つからない。ただ、頭の良さは身に着けたものであってその人本来の魅力ではない。いつもは少し考えて終わるのだが今日はいよいよ納得がいかずある人に電話をかけた。そう、その人は明るく誰とでも同じように接しみんなから好かれている。頭のおかしい発言もするがそれすら真面目な自分と比較して羨ましいと思っていた。小学一年生のときから知り合いだが二人は対照的な性格、行動をしている。まぶしい、憧れの存在だった。彼には一つの不安もない能天気な人だと思っていた。この文章は対話をもとにしているけど僕が勝手に付け足した部分も多いかな。


 対話篇

 

 ・行動について

僕 君はさ、行動する前に何か考えているの?

君 特に考えてないよ。君の場合は考えすぎているのではないかな?

僕 確かにそうかもしれない。僕は自分の行動で周りの人がどんな反応をするのか、自分のことをどう思うのかそういうことを深く考えてから行動するから結局気にしすぎて何もできないということが多くあるんだよね。ただ最近思ったのが自分の言ったことの一字一句気にしている人はいないっていうこと。君に「頭が悪い」といっても君はそこまで気にしないでしょ?

君 そうだね。君は自分の言動が周りに大きな影響を与えると思っている。そういうのを自意識過剰っていうんだよ。もっと気楽に考えて発言したり行動したほうが楽に生きることができる。僕に場合はたくさんのことを言うからみんなほとんど聞き流している。発言一つ一つに気をつかっていないことが多い。

僕 それはいいことだね。確かに周りを気にしすぎている。もう少し素の自分を出した方がいいかな?

君 その通り。結局ありのままで受け入れてくれる人と一緒にいないと疲れるからその関係は長続きしないの。素の自分を出しているとそのうち素の君を受け入れてくれる人が現れて親友になれるよ。

僕 ただ恋愛の場合はそうもいかないでしょ?

君 確かにそうかもしれない。自分を抑えてその好きな人に合わせようとする。いい自分にしようとする。そうするということは素の自分を出すことよりもその人と一緒にいたいという気持ちが勝っているのではないかな。

僕 好きな人にも他の人と同じようにあけすけにものを言っていいの?

君 それは度合いによるね。適度ないじっていいライン。これは一緒にいる過程で見つけないといけない。度が過ぎるともちろんいけないな。ただ、仲良くなるためには適度なイジリは必要だと思うけどね。

僕 僕には君がとても羨ましく見える。自分も君のように考えずに行動出来たらどれだけいいことか…

君 一概にそうとは言えないね。僕はこの考えない言動で不意に人を傷つけたことがある。前の彼女がそうだったんだ。僕からしたら君の考えてから行動する方がよっぽど羨ましく見えるけどね。

僕 そうかな。まあ、人は自分の持っていないものに惹かれるっていうしね。

君 この僕の行動で、周りに人が集まってきて楽しく過ごせるのは高校くらいまでだと思うけどね。社会人になれば君みたいな能力が求められると思う。

  

 ・その人の魅力

 僕 考えたんだ。人の中身は大きく二つのものでできていると。一つはその人本来の魅力。二つ目は上から塗った魅力。僕は周りに比べると少しばかり勉強ができるかもしれない。ただその勉強ができるということは上から塗ったものに過ぎない。僕から勉強を引けば何が残るのだろうか。何も残らないのでは。そんなことを考えるとますます自分の本来の魅力がわからなくなって落ち込んでしまう。上から塗った魅力は塗ることもできるし剥がすこともできる。ただ、その人本来の魅力は変わらない。それは自分にあるのか?

 君 君の言っていることは違うと思うよ。勉強ができるという塗った魅力があるということは君の本来の魅力に中に「努力」があるはずなんだよ。君は決して薄っぺらい人間じゃない。時間がたてば君が塗った魅力だと思っている勉強ができるということも君本来の魅力に変わる。今は中学生だから頭いいということがさほど重要視されていないだけ。

 僕 うれしいことを言ってくれるね。そんなことを言われたのは初めてだよ。君は日ごろからおかしな行動をしている。ただ、こんなにも僕に的を射る発言をし、僕を感動させてくれた。

 君 そんなことを言ってくれたのは君が初めてだよ。


 ・なぜ行動できないのか

僕 好きな人がいるんだけど話しかけられないの。今日電話かけた理由もそれなんだけど。君はどうしてる?

君 僕は、話す前にいくつか候補を考えてから話しかけに行くんだ。今日はこの話をしようってね。例を出したらその日に起こったことをその場で考えて話すかな。さっきは特に考えずに話すって言ったけどね、さすがに好きな人が相手だったら考えて話すよ。相手を傷つけないようにね。

僕 なるほど。その人が集団でいても話しかけに行く?

君 僕でもたくさんの中にその人と話すのを目的に混ざりに行くのは自信がないかな。一人だったら普通に行けるけどね。その方が相手も意識してくれると思うし。

僕 そう! そこだよ。君は相手が一人だったら普通に話しかけることができるかもしれない。でも僕は、相手が一人でもその自信はないかな。君はすごいね。そこに恥ずかしいって感情はないの?

君 少しはあるよ。ただここで行かないと後悔すると思っているから行動できるんだろうね。

 僕 おそらく僕は勇気を出して変化するより多少もどかしくても悔やんでもいま変化しない方がいいと心が判断しているんだね。つまり今変化しなければという使命感が必要なのかな。

 君 その通り! できるときに行動しないと後悔するよ?

 僕 やっぱり僕はきみのような人になりたかった。今話していて気付いた。

ありがとう。

 君 突然どうしたの?そんなセリフ君らしくないよ。全然! どういたしまして。

 僕 僕はよく学校と家ではテンションが違うといわれるんだよね。学校ではふざけていると思われるかもしれない。今、君と話している僕は真面目だと思う(笑)

それは使い分けているんだよね。学校で常にこんなに考え込んでいる僕がいたらおかしいでしょ?みんな心配するし。(されないかもしれないけどね)こうやって使い分けているとかいうと、計算高いとか変に思われるかもしれない。ただ、そうではないんだ。僕は二年生になってから性格が変わったとよく言われる。君もそう思うでしょ。(いわゆる陽ぶった陰)みたいな。君は裏表は全くないと思う。君はいちいち気を使わないでしょ?僕も気を使いすぎかなー?

 君 確かに君は変わったと思う。ただ、それも君だよ。だから、君からしたら二つの人格があるとか思っているのかもしれない。君は一人だけだ。君みたいにっ器用なのはすごいことだと思う。君はその二つの性格が結構違うからね、中学生の間は選んで気楽に(君の場合はそうでもないかも)生きられるかもしれないけれど、いつかそのままの一人の君でいられる環境を探すことが大切だよ。

 ・不安

 僕 君は将来に不安とかあるの?

 君 もちろんあるよ。君にどう思われているかはわからないけどね。

 僕 君が悩んでいる姿は想像できない。(笑)

 君 そんな風に思われていたんだ。今になるともっと勉強していた方がよかったと思うことが少なからずあるよ。その点君は羨ましい。

 僕 そう考えるなら授業中に話さずに真面目にしていたらいいのに。でも君は「話したい」が勝っちゃうんだよね? ところで君は何を目的に話すの?

 君 それは相手と仲良くなりたい。相手のことを知りたい。その気持ちからかな。

 僕 どうしたら会話は続くの?

 君 それは相手に趣味に合わせて話す、とか、たくさん質問するとかかな。

 僕 なるほど。君の性格なら話が長いこと続きそうだ。

 君 僕も案外と悩んでいるんだよ。将来のことでね。

 僕 それは意外だ。君のような能天気な人には悩みなどないと思っていたよ。やっぱりみんな同じなんだね。

 君 そうなんだ。人はみんな悩んでいることがあるし、不安なこともある。ただそれを他人の前で出すか出さないかそれだけなんだよ。僕の学校でのキャラ上、悩んでいたらおかしいでしょ?

 僕 確かにそうかもしれない。

 君 僕は君のように勉強ができることが本当に羨ましい。僕の生き方は大人になってから苦労する。最近それを実感してきたんだよ。

 僕 確かに。なら君は今の自分に満足していないの? 

 君 もちろん満足していないよ。さっきも言ったように何も考えずに発言してしまうこと。それで人を傷つけたこともある。そして、勉強ができないこと。これは変えていかなければならないと思っているんだ。

 僕 僕から見たら憧れている君でも自分では足りないことがあると実感している。

 君 そうだよ。人は、自分に何か持ってないものを持っている人を見るとあたかもその人が完璧だというようにとらえてしまうことがある。そんな人はいないんだ、どの部分を他人に見せるかどうか。それが上手に調整できる人が完璧に見えてしまうんだろうね。君にとって自分はコミュ力が高く、何でもできるというように思っているかもしれないが、全くそんなことはない。さっきも言ったように、僕は勉強ができないし、ふとした発言で人を傷つけたこともある。君はそんな経験も少ないだろう。ちゃんと考えているからね。どっちがいいとかいうのではないんだよ。君は、君と僕を重ねて僕の単体の部分に注目しているんだ。あくまで君の勉強はベースだと考えてしまう。君は僕より優れているところがいくつもあるのにそれを見逃して僕との比較で浮き上がったところにだけ焦点を当てているんだ。

気づいていないだけ

 僕 ここでさっきの話に戻るんだけど、僕から勉強を取ったら何が残るのかな? 君みたいに面白いわけではないし。

 君 それは違うかな。君の特徴の一角として勉強が出すぎている。だから君は自分の特徴として勉強にしか目がいかないんだよね。はたから見たら君は十分面白いし優しいところもある。

 僕 うれしいことを言ってくれるね。自分では気づいていないだけなんだよ。僕の特徴を判断してくれるのは他人なんだ。

 君 そうだよ。

 僕 ところで君は先生が言ったこととかをすぐ聞き直したりしているけれどあれはわざとやっているの?

 君 まさか。本当に理解していないんだよ。また、わからないままというのが嫌だから聞き直しているんだよ。理解力に優れている君はすごい。

 僕 なら最初からちゃんと聞けばいいのに。(笑)

 君 それができないから困っているんだよ。大人になってから苦労するね。

 僕 君でも大人になってからのこととか考えるんだ。

君 それは僕を馬鹿にしすぎだよ。


  ・人とかかわる

 僕 自分はね、すでに親しい人とは結構話せるんだよ。小学校から一緒にいる人とかね。また初対面の人とも。ただ初対面から親しくなるまでが難しい。

君は人と仲良くなるのが上手でしょ?

 君 周りから見たらそう見えるのかもしれないし。自分もコミュ障ではないと思っている。ただそこまで得意だとも思っていないよ。やっぱり人と仲良くなるためには「話す」ことが重要だね。

 僕 僕は話すことがさほど得意ではないんだよね。いちいち目的を考えてしまうというか。これを言ったらどうなんだろうって考えてしまう。

 君 やはり君は考えすぎだ。話すのに目的なんかいらない。相手と仲良くなりたい。相手を詳しく知りたい。それだけだよ。話が続く方法としてはたくさん質問することとかかな。考える前に行動。話したいと思えばすぐ話しかけに行けばいいのに。

 僕 君にとっては簡単なことかもしれない。ただ僕にとっては本当に難しんだ。それが好きな人だったらなおさら。

 君 仲良くなりたいんでしょ?

 僕 もちろん。

君 じゃあ話しかけに行くしかないよね。親しくなる一番の方法は会話だよ。共通点を見つけてどんどん会話していこう!

君は親しくなるまでが難しいといったね。なら、みんな初対面のつもりで話しかけに行けばいいんだよ。毎日ね。たくさん質問できるし、相手も自分に興味を持っていると思ってくれてうれしくなる。

 僕 君はさっき僕に好きな人を教えてくれたけどね、その人とのかかわりを注目して見ていないと気づけなかった。君はみんなと同じように好きな人にも話しかけにいける。これは本当にすごいことだ。緊張しないの?

 君 それは僕がそういうタイプだとしか言いようがない。

 僕 僕、好きな人がいるんだけど気付いてた? 

 君 うん、君はわかりやすい。好きな人、気になっている人に取っている態度と、普通の友達に取っている態度が違う。それがいいかはわからない。僕の好きな人はいろんな男子と仲いいから僕に違う態度をとってくれないと不安になるかも。付き合ったときね。

 僕 なるほど。やはりどちらがいいとかいう問題ではなさそうだね。僕からしたら君の態度はすごく見えても君からしたらそうでもない。

 君 そうなんだよ。僕と君は違うけどどっちにもいいところと悪いところがあるんだよ!

君はそこまで考える必要はない。いいところが十分にあるんだから。

 僕 君と話していると気持ちが軽くなっていくようだ。

 君 それが僕のいいところだよ。

 僕 どんな人にもいいところがあり、直したいと思っているところがある。結局当たり前の結論に落ち着いたね。(笑)

 君 確かにそうかもしれない。この対話に明確な答えがあるならそうなるだろう。こんな会話をしているのは世界にたくさんいる。ただ、その結論を求めるまでの過程はみんな違うだろう。一人で行きつく人もいるし、このように対話で行きつく人もいる。

 僕 そう考えると(考えなくても)君が僕の長話を聞いてくれて、一緒に考えてくれることはとてもうれしいことで、大切なことだということがわかるよ。ありがとう。

 君 僕は何もたいそうなことはしていない。あとは君がどうするかだ。僕が助言できることは限られている。僕よりもっと詳しく、教えてくれる人もいるだろう。君が僕と話すのがうれしいと言ってくれて僕もとてもうれしいんだよ。



 物思い篇

 

 この文章を初めて読む人は、僕が病んでいるように思えるだろうか。実際そうかもしれないが、僕は人に言われるまで自分が病んでいる自覚はない。このように深く考えるのはよくあることだから。ただ、今回はちょっと深すぎたかな。一時間くらい彼を電話に付き合わせてしまった。彼のいいところとか、そういうのがたくさん発見できたからね、まあよかったのかもしれない。僕が楽観的に考えている。珍しい。ただ、本当に彼には感謝しなければ。ところで、この文章は全体的にある作品に近づけようと思ったんだけどわかったかな?正解は『君の膵臓を食べたい』でした。映画でも小説でも大好きな作品です。桜良の手記に似せたと思うけど、どうかな?こんな文章を書いていると気持ちが軽くなっていくようだ。これは人に見せることを目的としていないからちょっと恥ずかしい部分もあるけど、まあ気にしないでおこう。これを読んだ将来の自分が少しでも楽な気持ちになってくれればうれしいかな。僕はこんなに考えていたんだってね。この文章が僕と君なのはなんでなのかな。自分でもよくわからないが、だれか特定できないようにする僕なりの配慮だと思う。では本文に移ろう。

 冬に夜空を見て考える。自分は何なのだろう。大きいように見える地球はこの銀河の中の小さな星のひとつ。宇宙は今も膨張を続けている。そんなことを考えているとますます自分が何なのかわからなくなってしまう。自分がこの地球に存在している意味は何。自分がいなくなったらこの地球はどうなる。持論によるとこの地球は何も変わらないのかもしれない。それは永遠ではないだろうけど。ただ、この世界というものは自分が死ぬとともに消滅する。この世界というものは自分の目や鼻などの感覚器官を通さないと何も感じることができない。つまり僕自身が世界である。自分が世界に意味を与えて地球上の約七十三億人がそれぞれ世界を形作っているのだ。自分がいなくなってもこの世界は何も変わらないなどということはない。自分が世界だから。それこそ自分は自分ということである。この世界と自らを比較して落ち込む必要は何もない。

 この持論では自分が何なのかという問いの答えにはならない。その問いに完全な答えはないだろう。たかが中学生が出した結論では。年を取るごとに違う結論が出てくるのではないかな。だから今のところ中学三年生で自分とは何かについて考えておこうと思う。自分とは何なのだろう。まず自分はなぜいるのか考えようと思う。自分は世の中のために生きているんだよ。だから自分で世の中のために少しでも貢献できるように努力するんだ。さきほど、世界は自分で形作っていると書いた。その自分が形作った世界のために生きているんだ。つまり自らが世界なんだ。地球上には約七十三億の世界がある。だからみんなそれぞれの世界を持っているため、人と人がかかわるためには世界が交流する必要がある。この世界は一般的には価値観とか感受性とか呼ばれたりする。人とかかわることは一回でうまくいくわけなどないのである。人とかかわるのが苦手だからと言って落ち込む必要などない。むしろうまくいかないのが当然だと考えることもできる。

 自分はそこまで親しくない人と話すのが苦手なのはなんでだろう。それは自分に自信がないからではないか。それか話さないという目的を達成するために話すのが苦手ということを引っ張ってきているのではないか。(嫌われる勇気より目的論について)そう考えているうちは話せないだろうと思う。こんな自分は嫌だと自分で思えているか。今の自分でいい、変化を嫌っていないか。今のままの自分に満足していないのであれば変わる必要がある。ただそこには大きな勇気が必要なのだ。それが今の自分にあるか。自問自答をやめる日はない。それでいい。考えすぎだといわれるがそれは自分の性格なのだ。

 ここまでの文章を読んでいると、頑張って自分を擁護しているとしか思えない。今のままでいいのだと自分を無理な論理で納得させようとしている。自分は論理的思考が好きなのでそれでいいかもしれない。そんなわけないだろうと、言いたい。今の自分が嫌だから変わりたいと思っているのにその自分を納得させる必要はない。今の自分が嫌ならそれでいいのだと思いたい。変わればいいのだから、変わった自分を好きになれるかどうかはよくわからないが、今のままでいいはずがない。人はみんな挑戦している。なぜ自分は変われないのか。そんな自分に嫌気がさす。受け入れることができなければ変わればいい。そこだ、変わる必要性を強く実感すればこそ人は変化できるのだ。やはりここでも自己弁解をしているようにしか思えない。何を悩むことがあるのだろうか。わからなかったり、できなければ人に聞けばいいだけのこと。今まで書いてきたおそらく自らを奮いたたせるためにあるのだろう。とにかく頑張って!

 先ほど、自分は自信がないから~できないと書いた。ならば、自信がある場合はどうなるのか。自分は勉強には自信がある。数少ない自信があるものの一つだ。自信があるから挙手して発表したりできるのだろうか。目的論に立つとそうではない。この文章の参考にしなのは嫌われる勇気だ、読み返さなくていいように目的論について書いておこう。目的論に立つと、自分は発表するために勉強するのだ。そうだろうか?自分ではよくわからないが。そこに承認欲求はあるのか、わからない。目立ちたいという一心で僕は勉強しているのか(笑)まあ、不純な動機でも勉強に集中出来たらいいけど。つまり、簡単に言うと

僕は会話に自信がないから話に行かないのではなく、話に行くのが恥ずかしく、行きたくないから会話を上手にしようとしないのだと。このように考えると、自分の気持ち次第で何でもできるような気がするのだ。無論、気がするだけなのかもしれないが。僕の、会話が苦手だということは、会話をしないという目的を達成するための手段なのだ。目的さえ変えれば、何でもできる。会話をしたいという根本的な気持ちがあれば、何でもできるということだ。これは何も会話のことだけではない、勉強でもなんでもそうだ。

 前の段落をまとめると、何か行動をするのに自信は必要ないということだ。必要なのは、目的だ。表面的なものだけではいけない。心から~したいと思わないと何もできないのではないだろうか。その目的が本当に理にかなっているのか、自分が本当に望んでいるのかということはしっかりと考える必要があると思う。それで、することが自ずと変わっていくのだから。



 題:FolkTale

 

 まえがき

 この文章は、自分が思ったことをただ書いているだけである。また、書いていることは自分が思っているだけなので正しくないかもしれないし、誤解を生むかもしれない。思った順番に書いているので内容がつながらないこともある。だから、読みにくいかもしれないができるだけ僕の考えていることをわかってほしい。ただ、人に見せるように書いているわけではないので大丈夫だろう。題名の『Folktale』はミセスの楽曲だ。そして、その歌詞も引用させてもらった。自分の「変化」についての考え方を綴ったものだ。あと、自分の無力さは棚に投げ捨てました。「お前が何言っているのだ」というような指摘はたくさん受けるだろう。ただ、何を言われようとも構わないし、気にしない。この文章を書いていることで心安らかだから。

 変わりたいな、でも変わりたくないな。そっと、ずっと見ていてほしい。

 変わりたいは、いずれ子守唄になった。きっと、ずっと続けていくだろう。


 変わりたい、ただ、変われない。それは、本当に変わりたいと思っているのだろうか。大多数の人は口で言っているだけだ。本当に浅く、軽い人たちだ。自分は変わりたいなど心から思ってもいないのに、変わることができないと、人に相談する。人が「変わる」には自分がそうするしかない。だから、人からどんな影響を受けても変わりたくないと思っているのならば変われないだろう。積極的に助言してくれるのは本当に嬉しい。ただ、変わるのは自分自身だからその人が心の底から「変わる」と決意するまでは周りの人は見ているしかできない。ただ、その「変わる」という決意も本当に変わりたいと思っているのかは怪しいこともある。そんな人は、周りからしたら迷惑でしかない。

 「変わりたいは、いずれ子守唄になった。」

 変わりたい、変わりたいと言い続けているがまったく変わっていない。そして、その言葉は子守唄のように自分が安心する材料となってしまった。自分は変わりたいと言っているから大丈夫、というように。もちろん、大丈夫ではないのだが。そんな人も、迷惑でしかない。言っているだけで実行しないのは詐欺だ。

 何度も、「変わる」という言の葉を使ってきたが、それは何なのだろう。

 まず、人はみんな変わりたいと思っているだろう。人はどうしても自分の欠点のほうに目が行ってしまう。もちろん、いいところがない人などおらず、全員多少なりともいいところがあるのだが、人は、自分の欠点を少しでも、ほんの小さなことでも見つけてしまうと、それを消去・修復することに、躍起になってしまう。本当に、可哀そうだ。本当に、弱い生き物だ。それは、悪いことなのか。自分の欠点を直そうとすることが悪いことだとは思えない。自分の長所を見ようとしないことがいけないのだ。その、欠点を消去・修復する作業を「変わる」というのだ。

 人はなぜ、そんなにも変わりたいと思っているのだろうか。それは、先ほども書いたように、人は欠点にばかり目が行くからだ。そして、その欠点を消去・修復する作業が変わるということだ。変化は、必ず恐怖を伴う。ただ、義務の変化には恐怖は伴わない。なぜなら、義務の変化は、変化ではなく、成長・進歩だから。つまり、変化に恐怖が伴うのは当然である。ただ、思い出してみてほしい。義務教育である、小学校から中学校に入学する変化に恐怖は伴っただろうか。私は全く恐怖を感じなかった。ただ、高校への進学は、決して義務ではない。あくまで、自分が選んだ変化だ。小学校・中学校までは周りに流されているだけで何となく生きることができていた。しかし、高校は自らが望んだから行くのであって、行きたくなければいかなくてもいいところだ。中卒の人もいるだろう。だから、高校に進学することは、怖いのだ。今、怖さを感じている人は多いだろう。「怖さを感じるのは当然だ。みんなそう思っているから君が心配することはない。」みたいに言われることはあるが、そんな軽い言葉をここに書きたくはない。せっかく、自分の心情を書き込んでいるのだから。先ほどはそう書いたが、怖さを感じるのは当然なので仕方ないが、当たり前のことを書きたくない。次の段落では、もう少し具体的に考えてみよう。

 私たちは、高校に進学することの何が怖いのだろうか。

・新しい環境になり、友達ができるかどうか不安。

・勉強についていけるだろうか不安。

私が思ったのは主にこの二つだ。前者は友達関係ではなく、高校での人間関係のすべてを含むものとする。比較的簡単な後者の不安の解決方法から考えるとする。「勉強についていけるか不安」ということを払拭するためにするべきことは一つ。「勉強」だ。今していないから不安になるのだ。今十分な成績ではないから不安に感じるのだ。勉強するだけで高校への恐怖を半減できると考えたらすごいとは思わないか。では、次は前者の不安について考える。生きていくうえで、人間関係についての不安というものは消えることはない。それは小学校でも中学・高校でも大学に入っても、社会人になっても一緒だ。死ぬまで消えることはない。人によって、その悩みの深い時期は違うが。例えば、私の場合は小学校のときに、人間関係について深く悩んだ。ただ、中学生になってからはそんなことはほぼなくなった。今、こうやって書いているのはあくまでも楽しいからだ。これを読む人は、私がこの文章をどんな気もちで書いているのか読み取ってほしい。まさに、「行間」を読むだ。社会に出てから必要とされる能力である。話を戻すと、人間関係で悩む要因は周りにある。だって、その人自身を貫く何か一本の線はなかなか変わらないからだ。その一本の線は表面上の性格ではない。明るくなろうと思えば、どんな人でも明るくふるまうことができる。ただ、そんな人ほど「僕って本当は暗いのに、こんな明るくなって自分じゃない」とか「こんなにみんなの前で明るくふるまっているけれども、みんなから無理しているとか思われないだろうか、痛いって思われないかな。」とか考えてしまうものだ。一方、本当に明るい人は、周りからどう思われようが関係ない。それが、自分だから。それで、その一本の線を変えることは本当に難しいと思っている。その一本の線を変えるということはそれこそ、自分を「変える」ということだ、表面上の性格を少し明るくしただけでは自分が「変わった、変われた」などとは言えない。残念だ。よく、高校デビューとか大学デビューとかいって、金髪にする人がいるが、あれは自分が変わったわけではない。そんなこと、当の本人が一番わかっている。なのに、本当の自分を覆い隠して表面上、明るくなろうとする。それは、「周りからどうおもわれるか」を気にしすぎているに違いない。

 表面上明るく「変わった」人は、今まで以上に周りを気にしてしまう。つまり、表面を変えるということは、ますます自分を生きにくくしてしまうということだ。あなたが「変化」と聞いたとき、良い印象を持つだろうか。それとも、悪い印象を持つだろうか。私が思うに、多くの人は良い印象を持つのではないだろうか。今までの自分と決別し、新しい自分になったと思われるからだ。ただ、先ほども書いたように表面上を変えただけでは自分が新しく変わったとは言わない。だから、表面だけを、しかも自分にとって無理をしてしまう方向に「変える」ことは悪い変化なのだ。何が言いたいかというと、表面だけを無理して変えることは自分にとって良くないのでやめた方がいいということだ。

 そんなことをいっても、どの程度の変化が「無理」で、どの程度の変化が「無理ではない」のか、そんなこと誰にも分らないだろう。もちろん、自分自身も。では、どうやって判断するのだろう。どうすればいいのかというと、本当に必要がないのに表面を変えないことだ。モテたいからみたいな理由で、陽キャになりたがる人は多くいると思うが、そんなのは全く必要のない変化だ。ただ、会社で働くときなど、どうしても表面を変えないとうまくやっていけない、つまり、生きていけないというときには表面を変えるということも検討しなければならない。ただ、それも別に大きく変えなければならないわけでもない。満足に生きるのに問題ないくらいに少し、表面を変えればいい話だ。

 「変わりたい、変わりたいと言い続けて子守唄になった。」

 人は変わりたいものだが、言っているだけではどうにもならない。ただ、「変わりたい」という意志がなければ何にもならないだろう。しかし、言っているだけ、周りの注意をひきたいだけなどというような人は本当にたちが悪い。そんな、「変わりたい、変わりたい」が子守唄のような自らの安心する材料になってしまったというのが前の言の葉だ。そんな人、この世の中には大勢いるだろう。それは、「変わりたい」にとどまらない。たとえば、「結婚したい」とか「勉強しなければ」とかだろう。そんなことをみんなの前で何回も言っている人は周りから「がんばって」とか「心配しなくていいよ」みたいに安心をもらいたがっているのだ。ああ、たちが悪い。そんなのが蔓延している世の中は本当に嫌いになりそうだ。人は、自分より何かしら出来ていない人を見ると、安心して次へ進むのをやめてしまう。下と比べて何もいいことはないのに。常に上と比べなければならないだろうに。

 口で言っているだけで、何も行動していない自分が嫌いになりそうだ。本心はわかっているのか。自分は表面だけで変わりたいと思っているのだと。そんなのに周りを付き合わせて本当に申し訳ない。なぜだ。なぜ。

 「変わりたい」という気もちをおさえるためには二つの方法がある。

・変わる

・その気もちを隠す。

後者の方が圧倒的に楽だ。ただ、心に嘘をつけばいいだけなのだから。それは解決ではない。先延ばしにしているだけ。未来の自分がその問題に向き合い続けなければならない。人は、いつか本当に変わらなければいけないときが来る。それが今かどうかは本人にはわからない。本当に変わらなければならないときには自覚などなくとも本人が気づかぬとも自然と変わっていくものだ。だから、変わりたい、変わりたいと言っている人の理由は不純であることが多いのだ。本当に必要のない変化をしようとしているのだから。

 「変わる」ことは、自分の意志でできるものではない。この文章を書いている時点で自分へ言い訳をしているだけのようにも思えてしまう。また、嫌いになりそうだ。自分の意志でできないならば、自分ができることは「変化」が義務である環境に身を置くことしかないのだ。たとえば、クラスが変わり、その人が変わることもあるが、それも本人の意思でないだろう。自然と変わるのだ。本当に、人は無力な存在だと痛感させられる。自分で何もできない。ただ、その無力な存在でも周りにたくさんいると自然と自分が変わる。なんて不思議な生き物なのだろうか。これこそが、人に支えられることなのか。

 何か行動するときに勇気が出ないということは「怖い」ということではないだろうか。ということは、その「怖さ」が無くなればなんでもできるのか。ただ、それができないからみんな何もできない。何か挑戦すれば成功する可能性がある人も何もしなければそこら中に居る人と同じだ。だから、ただ「挑戦」するだけで何者にもなれる世界だ。

 ここまで、「変わりたい」とか「勇気」のような話を書いてきたが、そろそろ終わる。

 やらない後悔よりやった後悔とかいう言葉を聞いたことはないだろうか。まさに私はいま、その状況に直面している。いっときの勇気が出ない、そのときだけの恥ずかしさが我慢できない。そんな理由で何も行動しないのは本当にもったいないのだと最近感じるようになった。西条市立西条東中学校もあと三十日弱で卒業してしまう。このように書くと、卒業は避けたいもので、不可抗力であるかのように捉えられる。本来、卒業は新しいことへの始まりのはずなのに。話を戻して、人は何か、絶対そのことをしなければならないというような状況に直面すると何でもできるものだ。たとえば、○○しなければ殺すとか言われたら何でもするだろう。それは極端すぎるが、要するに人はその行動の必要性を理解していないまたは、理解しようとしていない、それとも、「理解しているがしていないふりをしている」という人たちは何もしない。大切なものは失ってから気づくとか、将来で後悔するとか言われても人は何も実感できない。人から言われただけでは何も意味をなさない。自分が体験しなければならないのだ、ただ、その代償は大きい。祖母を無くしてからその有難さを知ったところでもう遅い。もう会うことはできないから。必ず代償は伴うものだが、その代償をいかに小さくして学び、今後同じ失敗を繰り返すことなく生きられるかどうかが大切なのだ。

 ああ、やっとできた。やっと変われた。こんなに自分を褒めたいことが今までにあっただろうか。言葉にすれば案外簡単なことが多いということを深く実感する。こんなことならば、もっと前からしておけばよかったとも思うのだが、それは出来ない。そのときにはできないのだ。今だからこそそう思える。「杞憂」だ。ただ、そう思えるのは、そのことが終わったからだ。では、なぜそのときにできなかったのか。今考えると、人というものは何でもできるものだ。そのときに、勇気をすごく出したら、何でもできる。ただ、その必要性を認識しなければならない。それをしてない人が多いから死ぬときに後悔する人が多い。あのとき挑戦しておけばよかったとか、気持ちを伝えておけばよかったとか。人は一度失敗しないと学べない。その点、幼いうちに失敗をすることはとても大事だ。幼いうちといえども、中学生くらいまでは大丈夫だろう。中学生のときの思い出は一生残る。その思い出が「後悔した」と「失敗したけど挑戦してよかった」ではどちらの方がいいだろうか。もちろん、多少恥ずかしくても勇気が要ってもすべてのことに挑戦する方がいい。その思い出が深く心に残った方が豊かな人生になるだろうから。



 題:結(一部抜粋) 

 

 自分は誰かに必要とされているの?


 この問いを突き詰めると、「なんで自分は生きて居るの?」こうなってしまう。その「なんで」は自分に向けてはならないものだ。生きて居る意味は無いから。

 人は誰かに相談されたり、何か聞かれたりされるととても嬉しいものだ。そこで「生きてるって」実感できる。人に頼りにされない人生は淋しいとか大人は云う。でも、まったく頼られない人もいるだろう。頼られるかどうかは、その人が今まで生きてきた軌跡だから、その人がろくでもないような人生を歩んできたのなら誰にも頼りにはされないだろう。それはその人次第だから仕方ない。

 誰かに必要とされない人生なんて空しく、哀しいものだろう。そういう風に大人は、先生は教える。ただ、何か自分にぴったりと合ったものを見つけてそれだけに没頭して生きて居る人もいる。数学者とか、山に籠っている陶芸家とか。その人たちの人生はそこら辺の人よりも楽しく、高度であるように思える。これは、その淋しさを自分に向けるか、周りに向けるかの違いだ。自分に向けるのは苦しい。答えなんて簡単には見つからないし、今何をしているのかがわからなくなる。人と話す方が圧倒的に楽だろう。この世の中はそんな怖いことから逃げている人ばかりで、本当に「自分」と生きて居る人はどのくらいいるのだろう。そんな世であったらどうなるだろう。みんな塞ぎこんで、閉塞的な世になるかもしれないと考える人は多い。しかし、私はそうは思わない。自分に淋しさを向けることのできる人は、根本的に人とも話せる人で、そんな人が集まったのなら素晴らしく、高度な楽しさが発展する世の中になるかもしれない。仮想の話に意味は無いけど。世界というものは一個人の思い通りになるはずもなく今のままだろう。貴方は環境の変化は実感することはあった?自分が小学生から中学生になったとき、覚えてないけど何か変化はあった?それか後から記憶が塗られたか。例えば、二年三組は本当にいいクラスで楽しかったし、新型コロナウイルスの影響で十日間くらい短くなったことも本当に哀しかった。でも、今では考えることは少ない。それは、今が楽しいからなのか、風化してしまったのかあんなに楽しかったことを。人の記憶は脆い。または、すぐ意識しなくなる。とても悲しいことだ。今ある不安も、今抱いているこの感情もいつか消えてしまうの。ならば、なんで私は今そのことについて考えているの。いずれ消えてしまうものになぜ、なぜ。

 今自分が生きて居ることの証明としては、感情だ。この感情は唯一無二、私にしかないものだから。そうなんだ、人はいつか死ぬのに今を生きて居る。理由を必要とせずに。そして、いずれ風化して、消えてしまう記憶のために今を一生懸命生きている。その、悩み葛藤していることこそが私の生きている証明。

 自分で深く考えている人は少ない。だから、もっと考えてほしい。いつかは病みつきになる。だって、それが生きていること。ボーっとしているだけなんてどの動物にだってできる。貴方は、人として生まれたのだから、考える権利と同時に義務を持っている。考えて、自分の存在の意味を見つけて。

 人は、過去への後悔・執着と未来への希望とを天秤にかけたときに、どちらが重たいのだろうか。過去は、良いも悪いも変えられず、ある一定を保っている。ただ、未来は無限大の可能性があると同時に本当にちっぽけになる可能性もある。だから、過去のことには安心感がある。いつまでも浸っていたいのは当然だろう。それが成功でも失敗でも。その一方で、未来のことなど考えたくないと思っている人は多い。過去ほどわかっていることは稀だが未来のことはわからなさすぎる。だから、みんな怖がってしまう。なんで怖がってしまうかというと、それは今までの経験からそのことがうまくいかないと心のどこかで悟っているからだ。たとえば、今までの定期テストで高得点ばっかり取ってきた人は次のテストなど何も怖くない。一方で、今まで低得点ばっかりで、今回のテストが悪ければ、志望校変更とかスマホ没収とか脅されたときに、今まで低得点だった自分が急に良くなるわけがないだろう、と勝手に未来のことを想像して落ち込んでしまう。先ほども書いたように未来のことなどわからない。「いや、わかる」と言いたくなる。だって、それには自分の根拠があるから。自分は今回全く勉強してないとか。未来はわからないものだからこそ、それをどうとらえるかでその人の人生は大きく変わってしまう。

 ここで、未来のことを楽観的に捉えられる人を「明るい人」と呼ぶ。ここでの「明るい人」は、なんの根拠もなしにただ能天気な人は省く。だって、彼らはただ勘違いをしているだけだから。テストで、一桁の順位と言っても九人しかいない。そして、社会的に成功していると言われている人も一握りだ。ここでの明るい人は、自分に本当にすごい実力が伴っていて、簡単に明るい未来を想像できて、実際に未来が明るい人のことではない。この世の中にはそうでない人の方が大半だ。明るい未来を想像する方法としては二つある。一つは思い込むこと。二つは、努力すること。思い込むとは、自分をすごい人間だと思い込んで「失敗するわけない」と心から思うこと。努力することは、自分に自信が持てるようになるまでひたすら努力すること。ここでわかってほしいのは、とにかく努力をしてほしいということ。努力が報われないときもある。みんなで競っているのだから当然だ。そのときは今までの努力を「軌跡」として褒めてほしい。努力をたくさんするというのは、難問に当たったときに効果を発揮する。数学でなにもわからないような問題がきたときに、今までの努力があれば私はこんなにやってきたと、自分を鼓舞してめげずにいろんなアプローチができる。努力は精神的にも技術面でもいいことばかりだ。

 今、貴方が努力していることは必ず誰かが見ている。友達だったり、親だったり、お天道様だったり、何より自分が見ている。自分すら自分を見ていられなくなったら、終わりだよ。努力をすることで失敗をすることはあっても後悔することはなにもない。一番怖いのは後悔、特に過去に執着をしてしまう原因だから。努力していると心配・不安は減る。そうすると、失敗も減っていく。無くなりはしないけど。ほら、考え方次第だよ。

 自分が自分のことを見てくれている。そのことって本当に素晴らしいこと。今の自分はできていないし、これからもできないかもしれないけれど。これからの僕、そしてあなたには、もっと自分のことを見て生きてほしい。

 「好き」ってなんだろう。どういう感情なのかな。どんなときに抱くのかな。それと、一言で「好き」って言ってもいろんな意味があって、じゃあ、貴方はどんな風に捉えるのかな。いつも変な思想なんかを書いているものだけど、突然僕がこんなことを書いたら、頭おかしんじゃないかって思われるかも。しかも、よりによって「結」に残すなんて。まあでもそこは、「無愛想なキミなら意味ならわかるでしょ」と「無愛想な人でもいつかはわかるから」って感じかな。早速意味不明だね。(笑)

 さっき、好きっていろんな意味があるって言った。ただ、どんなことを思って言っても「すき」っていう音声は変わらないから、相手がどう捉えるかなんだ。だから、「好き」にはいろんな意味があるんじゃなくて、相手の捉え方が幅広いだけ。中学生なんかは、恋愛のことしか頭にないから、誰かが「好き」なんて言ったら、そういうこととして捉えられて、すぐに大きな話題となる。さっきも言ったように、自分が言う「好き」には一つの意味しかない。どういう意味かはその人しかわからないけど。言葉って不十分なんだ。自分の心がそのまま相手に伝えることができればどれだけ楽か。

 じゃあ、今度は自分が「好き」っていうときに、どういうことを意図して言っているのか考えてみる。友達に「好き」っていうのなんか、なんの抵抗もないだろう。たとえば異性でも。このときの「好き」ってなに?それは、「ありがとう」か「側に居たい」じゃないかな。ただ、そういうよりも「好き」って言った方が相手に伝わるから。

 さすがにあまり知らない人に「好き」って言うのは躊躇う。「君を好きだというには君を知らなすぎるから」ってこと。好きっていうのは、最高の誉め言葉。あまり知らない人にそう言うのは、なにもしてない人に対して馬鹿みたいに褒めるのと同じ。「好き」は相手のことをよく知っていて、親密だから響く最高の誉め言葉。

 恋愛での「好き」は自分にはよくわからないな。(笑)ただ、一つ思っていることは、恋愛での「好き」だからこそ友達に言うのより「側に居たい」って気持ちが大きいんじゃないかな。そういうこと言ったり、言われたりするのにはほど遠い人生だったからね。ただ、いっぱいそれを聞くのが幸せってわけでもないかな。本当に好きな人から聞けたら嬉しいけど。多分ないかな。(笑)僕がこのことについてあんまり長く語ると、「お前が何言ってんだ」みたいになるから、そろそろやめておこう。 

 感情は、制御できないから怖い。でも、だからこそ美しい。今、人を好きになりたくないと思っていたり、好きになるのが怖いと思っていたりしても、好きになってしまう。怖いな。まあ、感情をコントロールできるって思っていることが間違っているけれど。感情の中でも、怒りとかはまだなんとかできるかな。コントロールできないという「好き」って気持ちは、人間の一番素朴な感情だということかな。じゃあ、別に制御する必要もないな。「好き」は付き合いたいとかよりも、「側に居たい、君を知りたい、ありがとう、僕の一部、繋がっていたい」ってことじゃないかな。「好き」は数で、いいか悪いか関係ないし、必ず好きにならなければいけないこともなんて無いけど、貴方だって「一緒に居たい」と思うことくらいあるでしょ? なんだか、僕が書くと変になったかな。(笑)

 今まで僕は、考え方のこととか「好き」ってなに、みたいな僕らしくないことばっかり書いてきた。でも、一つくらい僕が書いたと思われるものを残しておきたい。そう、勉強のことだ。自分が勉強について思うことを残しておく。これを読んだ人(自分も)がたくさん勉強をするようになってほしい。

 貴方が今、中学生とかで勉強する意味がわからない。勉強しなくとも生きていける、などと思っているかもしれない。たとえば、「日本に居たら英語なんて使わないから学ばなくてもいい」みたいなことを言っているのもよく聞く。勉強する理由なんか、自分のためでしかない。自分の人生を楽しくするために学ぶのだ。ここで必然的に出てくるのは、「勉強しなくても楽しく生きている人はいるよ?」だ。でも、一つ言いたいのはその人は学んでないかということ。経営者はみんな数学を学んでいるっていうし。

 そもそも、「知る」ことってすごく楽しいことだ。自分の、今までわからなかったことがわかるようになるって、本当に楽しいことなんだよ。今、貴方が、そう思えていないのは「わかること」が極端に少ないからだ。なにか新しいことを始めるとき、最初からそのことが楽しいと思える人は一握りであろう。たとえば、剣道とか。最初のうちは足捌きって言って、竹刀を振らせてもらえず、ひたすら床の上を行ったり来たりするだけの練習だ。それが楽しいとは到底思えない。ただ、基礎がしっかりしてきて、試合ができるようになってくると楽しい。これを英語に置き換えてみる。初めのうちは文法などわからず、ひたすら単語を覚えていく。それが楽しいとは思わないだろう。ただ、しばらく勉強し続けて英文が少しずつ読めるようになっていくと、さらに読みたいと思うだろう。そうするとまったく楽しくなかった単語を覚える勉強も楽しくなっていく。まあ、これは教える方が悪いとしか言いようがないが。ここで言いたかったことは、勉強がある程度できると楽しいということだ。その水準までは楽しくないし、時間がかかるかもしれない。ただ、一時我慢して、勉強を楽しく思えるまで続けてほしい。人にとって「知る」ことは必要不可欠だ。だって、原始時代の人だって狩りとか漁業とか、知らないと生きていけないだろう。それが、今の受け継がれていて、人は「知」を欲する生き物なのだ。

 知識があると人生は豊かになる。人の話を聞いているとき、その人が言っていることがほとんど理解できないのと理解できるのとでは、どちらが楽しいか。(難解なことばっかり言うのはその人に問題があるけど)当然、理解できる方が楽しいだろう。勉強する理由としてそれだけか、と思うかもしれない。さっきも言ったように、人は自分のためだけに生きていて、勉強は楽しむためにあるものだから至高なものではないか。人生を幸せにするためには、運動とか勉強とか読書とか会話とか、本当にたくさんのことがある。そのなかで、「知る」ことを有する勉強は人生を楽しむための中心にあるものだ。

 ここまで書いてきたけど、勉強がどうしてもしたくないならしなくてもいいよ。(義務教育は受けなければならない。受けなければ生きていけないと国が判断したから)君がどういう生き方をしても僕は知ったことじゃない。君が幸せなことをすればいい。それが本当に君にとっての幸せか、君が一番理解しているんじゃないかな?

 「死ぬこと」について君は今までに考えたことある?

 急に重いことだ。このことについて考えている人の方が少ないと思う。特に、中学生なんかでは。我々が「死」を実感する機会は本当に少ない。たとえば、目の前で交通事故が起こるのを見たことがある人などはほとんどいないと思うが、そういった経験をした人は、命が、いかに脆く、儚いものかであることは実感しているはず。そのほかにも、祖父母を亡くすとか。ただ、それも本当に死の瞬間に立ち会うことはないことも多い。亡くなったあとの亡骸を見て、何を思うのだろうか。死は怖いと思うだろうか。

 死生観などというと、大げさかもしれないし、中学生が何言ってんだみたいなことになるかもしれないが、私はこの「結」にはこの題目は含めたいと思っていた。なぜなら、この題目は私が深く物事を考えるようになったきっかけだからだ。「死」を前にして、軽率なことができるはずもないし、考えて行動するようになるのではないか。

 今、僕が死んでもこの世界は何も変わらない。僕が居なくなったところで、当たり前のように日は昇り、沈む。ただ、それは正しいことなのだろうか。まず、私が一つ聞きたいのは、私たちは何をもってこの「世界」を感じているのだろうか。それは、自分の五感でしかない。つまり、自分が居るからこの世界はある。だって、五感がないとこの世界があるかなんてわからないだろう。それに、自分が死んだ後の世界なんてどうなるかわからないだろう。それは、紛れもなく自分が世界を創っているから。ここでは、死後の世界はあるか、とか、死んだらどうなるか、のようなことは書きたくはない。そんなことはわからないし、今自分たちがここで生きている時点で、死後の世界を想像しようなんて無理な話だろう。そんな幻想の話じゃなく、考え方の話をしたい。

 「死ぬ」ということは、この世界で起こった、一つの小さな出来事ではない。死ぬということは、世界が終わるということ。だって、この世界が自分で認識できなくなった時点で、これからも存在しているなんて言う保証は一切ないだろう。死んでも何も変わらないということは真実でない。ただ、理解し難いだろう。毎日人は死んでいるが何も変わらないだろう、とか言いたくなりそうだ。「現実がそうなのだから」とか言われると、どう切り返そうか。確かに、ある人が死んでも世界に影響など極小だ。アメリカ大統領とかが亡くなったら少しは、影響が目に見えてくるかもしれない。ここで、思い出してほしい。なんで、君はこの世界があるとわかっているの。それは、目で見たり、耳で聞いたりしているからだ。五感なしでは「君の」世界は成り立たない。その後の世界は続くかもしれないし滅ぶかもしれないけれど。ただ、考えてほしいのは君があると思っている、その世界のことだ。君が思っている世界とこの世界(そもそもこの世界ってなに? 常識のことか)の違いはわからない。じゃあこう考える。この世界はみんなの共通認識のこと。君の世界は君の五感でしか成り立たない世界のこと。君が続くと思っているのは、共通認識のことだろう。ただ、君は世界の端っこに居るわけではないよ。これだけは言いたい。君の世界は君が創っていて、君なしでは成り立たない。紛れもなく、死は小さなことなんかではなく、君が世界の中心にいるということを。 


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