第59話 不思議

 不思議だ。


 毎日、僕と学校などであっている人は、たしかに僕のことを少なからず知っている。僕が好きな食べ物とか、好きな教科とか、どういう話題が好きか、とか。それでも、僕がこういう文章を書いていることも知らないし、どういう考えなのかということも知らないはずだ。逆に、僕のことをこの文章で知った人は、僕の考えていることは少なからずわかる。でも、僕がどういう人かということは知らないはずだ。僕のことを深い次元で理解してくれているのだろうか。どっちがいいとかいうのはわからない。身の回りのことしか話さない友達、物事の本質(当人たちがそう思っているだけで構わない)を語り合う友達。生きていくためにはどちらも必要だと考える。今日あったこととか、単純なことを話す人はもちろん必要だ。休み時間だって、ずっと自分の席にいるだけではつまらないということもある。ただ、念のために書いておくと、ゆっくり本を読んだり、寝たりして自分を見つめ直すことも同じくらい、またはそれ以上に有意義であることがあるということも書いておきたい。僕もそうだったことがある。自分が好きじゃない友達とかと「なんとなく」一緒にいる時間はもったいない。それで、授業終わりに、お互い昨日あったこととか、テストの出来とかそういうのを話すのも高校生活の一幕を切り取ったみたいで好きだ。次に、物事の本質を語り合う友達というのはいったいどういうものだろう。僕には、そういうことを話す友達がいないからここに書いているんだと思う。逆に、そういう友達がいる人っていうのはいるんだろうか。必ずいるはずだ。それで、とても楽しい時間を過ごしているはずだ。以前、誰か名前の覚えていない人の講演を聞く機会があったのだが、その人は「思想の幸せ」というのを切に感じて生きているらしい。それは、読書などによって、自らの未知の部分が拓けていく感覚、とてつもない快感であると言っていた。そして、それは「日常の幸せ」とは並立しない、と。それに似ているのだろうか、物事の本質を語り合うことで得る快楽というものは。僕も、本当に楽しいと思いながら文章を書いていることだ。僕が、僕のことを知らないというのは本当に多いと実感する。僕って人はどんな人、と考えてもすぐに答えは出てこない。僕が一生、向き合わなければいけない問いのはずだ。ただ、ここで思う。「楽しい」という感情に高度とか低次元というのはないのだろう、と。思想的な楽しさと、友達と一緒にいることの楽しさのなにが違うのだろうか。その状況、状況は特殊でも「楽しい」という感情は普遍であるはずだと感じている。

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