第51話 怒る

 何気ないことで、喜べる人になりたい。


 あんまり怒らない人っていうのは、もちろんそもそも怒らないというのもあるかもしれないけれど、何気ない僅かなことに喜びを見つけることができる人だと思う。その積み重ねで、怒ることなんかを忘れてしまう。ここで「喜べる人になりたい」というのは「怒らなくなりたい」というのと同じ意味だと考える。そうすると、まず「怒らない」ということがいいことという前提に立たなければならなくなる。あたり前のことだが、「怒る」というのは感情のひとつだ。そして、何回か言っている通り、感情は自分にはどうしようもない。ある意味、運みたいなものだ。その運がたまたま当たってしまったから「悪いこと」なのか。こういうふうに書いてしまうと、自分では最初から考えを持っていたのに、なにか戸惑ってしまう。一概に悪いとは僕には断言できない。感情というのは言葉にしないと、相手には伝わらない。言葉にしても伝わらないこともあるから、それはとても大変だ。別に言語だけじゃなくても表情とか体の動きとかでわかることも多い。


 「怒る」というのは当たり前のことだと、自分を正当化しておこう。感情というのはどうしようもないというのは前々から何回も言っているが、僕はどうしようもないことについて考えようとしているのだろうか。それは無意味だということはわかる。僕が今、錬金術の勉強をしても、永久機関を作ろうと努力しても意味はない。でも、本当に考える意味がないことだとしても、それを考えずにはいられない。これは明らかな矛盾だ。どう折り合いをつけようか。別にほったらかしていてもいいけれど。これを考えたとして、「結果」がどうしようもないとしても「過程」で自分が成長できるなら別にいいのではないか。これもひとつの考え方だ。考えないと、自分がこのまま変わらないと誰かを傷つけてしまう、最終的には自分を毒牙にかけてしまう、こういう理由は置いておいてなにかからの義務感から考えるというのもいいだろう。たぶん、僕はどちらかというと後者な気がする。


 「怒る」と相手は傷つく。というより、そのことで自分はそれ以上に傷つく。僕が避けたいのは後者の方だ。自分を傷つけたくないだけか、どこかで嫌味が聞こえたような気がする。開き直るというのは大きな勇気を与えてくれる。もっとも、ここで言えば当然なことなんだけれども。普通に考えてみてほしい。傷つきたくない人なんかいるはずがない。この際はっきり書いておこう、僕が怒りたくないのは、自分が傷つきたくないからだ。どこかが痛む。相手も痛いかもしれないけれど僕には想像しかできない。自分もなんで痛い、どこが痛いかがわからないというのではそれもなんら想像と変わらないかもしれない。自分が傷つきたくないからといって、「怒らせるな」というのはいかにも自分勝手すぎる。世界のみんなが、自分が世界の中心だと、自分がルールだと思っていたとしても自分勝手すぎる。なんとなく脱線する。「自分がルール」これも、なんらおかしいことはない。法律を一字一句完璧に覚えている人はいるだろうか。そもそも法律は善悪を定めてはくれない。自分の中の善悪、これをしたらいけないというのは誰にだってあるはずなんだ。法律がないとしても。


 「怒る」という題名の絵本が僕の部屋にある。最後に読んだのはいつか覚えてはいない。内容もだいぶ薄れている。子どものころから、「怒る」というのはどんなことだろうと考えたことはあるか。僕はちゃんと向き合ったのは高校生のことだ。それすら珍しいことかもしれない。いや、普通に生きていたら当然のことなのか。僕は毎回いろいろなテーマでこの「無題」を書くことで、自分を導いているようだ。

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