第41話 無題 2022.5.24

 今日はなんの日?


 一年の中で、「この日だ!」みたいに、意識して過ごす日が、みなさんにあるだろうか。大体は祝日とか、誕生日とかじゃないかな。クリスマスとかかもかな。いちいち祝日なんて覚えている人のほうが少ない気がする。まあ、それはそれとして置いておこう。ただの導入だ。現代文とかで、序論、本論、結論のみっつにわけたりとか、みんなはしたのかな。僕は記述とか選択問題は好きだったんだけど、形式段落とかが苦手だったのは覚えている。まあ、そんなに大切ではないことだ。いつもの僕がよくやる、むしろそれしかやっていないかもしれない余談というものだ。


 挨拶が遅れたが、今回から「久しぶりです。」みたいなことは書かないようにしておこう。毎回、そう書かないといけなくなってしまうからね。できれば毎日投稿したいとは、思っているんだけど、やっぱり忙しい。それがただの言い訳かもしれないというのは置いておいて、忙しい。今でそれなんだから、高3とかになったらどうなるんだろう。考えるだけで憂鬱になってしまう。嫌なことから逃げるということはその一瞬の中では最適解じゃないのか。人生は一瞬の積み重ねだと、前に書いたことがある。一瞬を逃げていたら、その積み重ねが人生になる。じゃあ、最適解を選び続けているということになる。最適解を選び続けることのできるという人生は存在しない。どちらかが間違っている。どちらかとは、「嫌なことから逃げるということは一瞬の中での最適解である。」ということと、「最適解を選び続けることのできる人生は存在しない。」のどっちかということだ。考えてみてほしい。後者があっているはずがあるだろうか。前者だろう。まず言っておきたいのは、ここでは「一瞬」というのは別に本当の時間を表しているというわけではないということだ。普通はそうだろう。その一瞬というものを「感情が整理できる秒数」と僕が定義する。なにか、自分にとって不利になりそうなことがあると、その後の展開が自分でも驚くくらいにパッパッと出てくるという経験をしたことはないだろうか。そういう感じだ。感情が追いつくと、すぐにわかる。いけないことというのは自分ではすぐにわかる。だから、前者が間違っている。「嫌なことから逃げる。」というのは根本的に正しくないんだ。僕の友達が聞くと怒りそうだが、まあ仕方ない。なにか悪いことをしても、それが自分でわからないというのは正常な状態ではない。だから、無罪になるんだろう。別に、そのあたりの話を長々とするつもりはない。最近、刑法をよく読んでいるというどうでもいい報告だけしておこう。みんはやで刑法のクイズを作ったりもしている。そんなに本格的なわけではない。それはそれで、嫌なことから逃げるというのは間違っているとわかっていても逃げてしまう。自分を覆い隠してしまう。自分に嘘をついてしまう。この世の中で唯一騙せないものというのは「自分」なんだ。長々となってしまった。これはもう、僕の癖なんだろう。短くまとめるというのが得意でない。これまた現代文だが、いっつも字数規定には苦労している。これだけ長々としたものも、別に「本論」ではない。僕が久しぶりに書いているのだから、準備運動でもしているという感じかな。別にそんなにかっこつけているわけじゃない。最後にもう一文だけ。僕と意見が違うとか考え方が違うといかいうのは当然あることだと思うので、細かなことでもコメントを残していただけると嬉しい。返すかはわからないけれど。新たな発見になるし、自分にとって刺激となる。


 僕がよく書いていることに「普通」という言葉がある。普通とはなにか、とかもよく聞く。僕も、いちいち違和感を覚えながらこの言葉を使っている。これも、いつかは「普通」というものについて詳しく考えたいものだ。難しいテーマしか扱っていない気もする。それまでは、特に深く考えることなく「普通」という単語を使っていくと思う。僕が読んだことのある本とかにも「普通」について考えているものがある。やっぱり、避けては通れないことなんだろう。僕がこれから書きたいことがいっぱいあって、消化できるのか不安になってきた。


 今回、僕が書いていることは本当にいつにも増して繋がりというのが感じられないかもしれませんけど、まあ気にしないでください。


 それと、これまで僕は40話くらい書いてきたわけだけれども、どれもを鮮明に覚えているわけではない。濁ってしまった部分も相当多い。残念だとは思うけど、まあ仕方がない。だから、被ってしまうことがあるかもしれないが、それは許して。時間が少しでも違っていれば、思っていることは若干と変わるはずだからね。職業作家とかは一語一語を覚えているものなのかな。わからないけれど。職業で作家をしている人は本当にすごい。僕はただの趣味で始めて、最近はけっこう楽しくなってきたみたいな感じだ。でも、僕がこれで生きていけるとはならないだろう。厳しい世界だ。本屋に行っても、行くたびに新刊がポンポンと出ている。この世のすべての本など一生では読むことはできない。図書館の中のすべての本っていっても難しいだろう。本は魅力的で終わりのない世界だ。書く人の人生が詰め込まれているといっても過言ではない本はあるだろう。僕が読書が好きになった理由というのはよくわからないけれど。まあ、いろいろあったんだろう。母が、僕には本当によく絵本を買ってくれた。別に当時の僕は絵本とかよくわからないし、ねだったわけではない。今考えてみると、当時の僕はだいぶ欲が少なかったのかな。今はどうだろう。欲しいものとかしたいことで溢れている。それはいいことなのか。ともかく、そのおかげで国語は好きになった。絵本から僕の本好きは始まったんじゃないかな。そういえば、性格とかいうのは相当若いときに決定してしまうらしい。詳しいことは知らないけれど。だから、その絵本で僕はこうなったんだろう。客観的に見てどうかはわからないが、自分のことはずっと好きでいたい。さっき、「本論」がどうとかいう話をしたが、別に決まった主題について書くわけではない。極めていつもどおりだ。といっても、最近は全然書いてなかったから、いつもどおりっていうのがパットしなくなっちゃったんだけど。まあ、それだけ僕は「無題」を書いてきたんだなってなって嬉しくなる。一時期はこれを書くことが日課のようになっていた。今回、二週間くらい更新してなくて、やめたみたいに思われたかもしれないな。ただ、僕がやめるときはちゃんとやめるっていうので。


 じゃあとりあえず、近況報告から始めようか。これがいつもどおりなんじゃないかな。そこまで毎回していたわけじゃないけど。今日は体育大会があった。去年は中止になったから、高校に入って初めてだ。初めての学校らしいこと。中学校のときは体育大会によっぽど一生懸命だったなと思い出す。練習の時間も多かったし、競技数も今より多かった。係の仕事とかもあって、そっちの方もだいぶ充実していた。みなさんが、僕の文章だけ読んでいると、僕が通っている高校がよっぽどひどいみたいな印象を受けてしまうかもしれないけど、多少はひどいところもあるので置いておこう。どこまで運が悪いのか、予行練習の予定の日はずっと雨だったので、ろくに練習もせずに本番となってしまった。とりあえず言い訳をさせてほしいのだけれど、僕は3日前くらいからずっと風邪をひいていたんだよね。コロナじゃなくてよかったけど。僕が出たのは二種目。ひとつは学年の団体種目。特に書くことはない、最下位だったということくらいだろうか。もうひとつはクラス対抗リレー。学校の特色だろうか、僕は対して速くないのに選ばれた。一生懸命走るけれど。僕にバトンが渡されたときには4分の1周差くらいついていたのだからもうどうしようもない。問題なのはそのあと。走ったあとに気持ち悪くなってしまった。立っていると倒れそう。座っていても吐き気がする。運動の大切さを思い知らされました。毎日走りたいんだけど。しばらく全然していなかったからね。なんなら風邪で寝込んでいた言い訳もつけておこう。やっぱり、日ごろから運動して、体も引き締めていきたいものだけれど、僕が飽き性なのは忘れないでおこう。



 やっと、少しまともなことを書いていこうか。今回は本当に長くなってしまう気もしてきたけれど、まあ今さらどうしようもないので、時間があるときに読んでいただけると嬉しいです。「忘れる」ということを書く。どっちかというと、僕が書きたいのは「色褪せる」ということかもしれない。「色褪せる」ということも後で書こうか。絶対に忘れないことだからね。別に難しい単語じゃないけれど、新しく見えるものも少しくらいあるだろうから定番の、辞書から引用をやっていく。「忘れる ー前に覚えたことを思い出せなくなる。」なにか新しい発見があったかと言われても、まあそれは目を瞑っておこう。「忘れる」というのはいいことなのか、よくないことなのか。僕が読んだ本、『子どものための哲学対話』(永井均さん著)には次のようにある。本当に、学びが多い本だ。完璧な引用ではないかもしれないが、これまた目を瞑ってほしい。「嫌なことほど反復して思い出したくなる。楽しいことはそれ自体で満たされているから忘れてしまっても大丈夫なんだ。ただ、嫌なことを忘れようとしても忘れられないのは本当は忘れたくないからだ。それを忘れてしまうと、自分のなかの大切ななにかが失われてしまったような感じがするから。」やっぱり、読んで、「ああー」ってなる。感動じゃないのかな。僕の中で失われていたピースを取り戻してくれたみたいな。なんだかよくわからないけど。まあ、哲学の本なんて読んでいてもなんだかわからないことばかりだ。書く人それぞれが答えを持っている。比較的、答えがしっかりとしているといわれる数学ですらなんだかよくわからないのだから、答えのないことを見つめてもわからないことは多い。ただ、考えなくていいという理由にはならない。僕が忘れたいと、表面上で言っていることは、僕にとって本当に大切ななにかなんだろう。やっぱり具体的なことはわからない。「具体」は悪いことじゃない。それだけで生きていくことはできないしつまらない。やっぱり最大と言っていい謎は「自分」なんだろう。いつかはそれに向き合わなければならない。今の向き合い方と、数十年後ではだいぶ違うはずだ。でも、そのまま死を迎えて、「なんだか逃げてしまった」で80年くらいを形容したくない。


 時間が経つとすべてのものは色褪せる。すべてが、そうすべてが。香りだって、味だって、視覚だって、本当に大切な「なにか」だって。それはどうしようもない。なんだか悔しいような気もするけれど。やっぱり、どうしようもない。さっきからこれしか言っていないような気がする。まだまだ言うけど。「写真」は本物ではない。「写真なんて紙切れだ。思い出なんてただのゴミだ。」こういう歌詞を聞いたときはびっくりした。完全にそうだと同意したら、それまた虚しいけれど、少しはそうなのかも。それは怖いことだと思わないか。昨日までと、今日からが大きく変わってしまったとしても、一週間くらい経てば慣れてしまう。「色褪せる」と「慣れ」は密着な関係がある。「慣れる」から、環境の変化にだんだんと適応できるのだから、感謝をするべき対象なのかもしれない。「慣れ」なんていちいち意識するものではない。「色褪せる」ことだって意識してわかることでもない。ならどうしろというのか。それだってわからないけれど。気づけば、ああ、そんなこともあったなってなってしまう。気づかないうちに僕の意識の中で少しずつ色を失ってしまっているんだ。いや、こういうふうに書くと怖いけど、誰もがそうとかとでも、とりあえず慰めておこうか。気づけば周りのものだって変化しているというのはよくあることなんじゃないか。よっぽど意識を払っていると気付くかもしれないが、そんな生き方が嬉しいとは思えない。ただ、気づいたら色褪せてたというのは虚しい。どうしようもない。どうしようもないで終わっては、本当に書く意味とかもわからないのでもう少し続ける。なにかについて、毎日思い出したとしても色褪せる日はくる。少しは長く足掻けるかもしれないけど。だから、不可抗力。諦めとかじゃない。結局、自分を納得させたらだいたいは上手くいくものなんだ。怖いって思ってるだけじゃ、本当にどうしようもない。ただ、自分の制御できない変化というものは怖いと思う。自分が自分じゃないみたいだからだ。僕が僕じゃないみたいだ。


 思い出は美しく見えるらしい。過去のことは、もうわからないことが多い。「現在とはなにか?」というのはよく聞く問いだろう。僕だけかもしれないけど。この一秒、一秒だってすぐに過ぎていって過去になってしまう。だから、僕が思う現在というのは「比較的長く続いていること」だ。自分勝手に定義しておこう。たとえば、習慣とかじゃないかな。他にも具体例を出すと、まつりとか歯磨きとか勉強とか。まあ、それは置いておいて、今では、されなくなったこととかを過去と呼ぶ。三輪車に乗ることとか小学校に行くこととかひとつひとつのものごとにすごく感動するとか。わかりきっている通り、思い出とは過去のものだ。つまり、今では、何らかの理由があるのかはわからないがされていないこと。または、できていないこと。それが思い出になる。自然とされなくなったということもあるだろうから、別に悪いことに限ったという話ではない。当時はいくら嫌であったことでも、「それがあったから」みたいに美化することは、みなさんにも経験があるのではないだろうか。部活で先生が体罰みたいなことをしていても、大会で優勝すれば「よかったこと」になるかもしれない。なにか大きい成功をしたら美化されるというのはわかりやすい話だろう。まず、失敗しかない人生ということはない。だから、どこかで成功したときに、嫌だった体験とか辛かったことを美しくすることはあるだろう。過去は変幻自在だ。すでにそこには存在しないから。客観的に存在し得るものでもない。あるのは当人の頭の中だけだ。だから、そこに美しくないものを置いていたら不快感が出てくるだろう。好きなように変えられるのだから、あとからそのことを思い出したときに幸せな気持ちになれるようにしておきたいものだ。


 『人は話し方が9割』という本と『人は聞き方が9割』という本を見たことがある。読んだことはない。これ、同じ作者さんが書いているんだから、いよいよ意味がわからない。まあそれはどうでもよくて、この段落で書きたいことは「人との話し方」だ。いや難しい。これが答え。なにしろ、人との比較的確実な意思疎通の方法っていうのは会話くらいしかないのだから、これが相当上手になればだいぶ変わるだろう。「世界が変わる」という文字通りになるのかもしれない。まあ、僕は自己啓発本みたいなのはあんまり読まないし、読んだとしても実生活には生きていない気がする。まあ、読むだけならなにも変わらないというのは当然な話なので、どっちかといえば読むだけで満足してしまう僕がよくないのだろう。変化は苦痛を伴うものだ。話を戻して、ここで書くことは「話し方」だ。これは「聞き方」と表裏一体だと思うので並行して考えていこう。会話というのはよくキャッチボールにたとえられることが多い。よく使われることもあって、やっぱりそうだとも思う。相手から正確に受け取って、正確に返さないといけない。難しい難しいと何回言っても仕方がないので言うのは控えるようにしよう。僕はそこまで悲観的な人間じゃないはずだ。それで、会話というのは相手があって成立するもの。まあ、ここまで当たり前のことしか書いていないし、このテーマだと無難に着地するのだろうが、まあいい。「話す」と「聞く」のバランスを僕はいつも考えているんだけど、これまた困難だ。話しすぎているなって思うことはけっこうあるし、さすがに反応しないと聞いていないって思われるかなっていう考えが浮かんでくるくらい黙っていることもある。やっぱ、いろいろなことでそうなのだけれど、僕は「ちょうどいい」っていうのがなかなか見つけられないらしい。そういうのは、僕が本当に小さいときに決まってしまうからどうしようもないとも言えるんだけど、イメチェンとかしている人もいるし、たぶん努力でどうにかなることなんだろう。ただ、苦痛は伴うけど。


 

 ここまで、何回、僕は「どうしようもない」って言っただろう。数えるつもりはないが相当言ってきた。他の回でもたくさん言っている気がする。「無題」のひとつの定形フレーズにもなっている気もする。これは諦めの言葉なのか。まあ、僕が日常でこんなことを言っているわけではないけれど。悲観的な発言ばかりをしている人となかよくはなりたくないものでしょう。ただ、「どうしようもない」ことというのは必ず存在する。不可能なことを追い求めていても仕方がない。今では、永久機関をつくることも、錬金術を完成させることもできない。ただ、その判別を適当にしていると逃げているだけになる。だけど、嫌なことから逃げたくなるというのは本能のようなもので、できることでも「できない」と判断して、「やーめた」ってことになることも多い。生きている以上、客観的に判断するということはできないので、すべてのものごとには私情が入ってしまう。少し話を変えて、「逃げる」というのは本当に悪いことなのかということについて考えてみようか。「逃げるは恥だが役に立つ」みたいなドラマも数年前に流行った。「逃げる」と「諦める」は違うのか。言うまでもなく、ここでの「逃げる」というのは走ってその場から去るみたいなことを言いたいわけではない。じゃあ似たような意味を表すのだろう。先ほどから、どうしようもないこと、ほぼ不可能なことを追い求めても、どうしようもないということを書いている。それから逃げたり諦めたりすることは、なにも悪いことではないだろう。どちらかというといい選択のようにも見える。そもそもの話をすると、この文章自体、自分に言い聞かせるためという部分があるので、この「逃げ」のようなことを肯定しようという側面があるようにも思えてくる。逃げるたり諦めたりすると、「ああ、やめなきゃよかった。」ってなるし、諦めなくても、「あのときに諦めていればこんなことにはならなかった。」というようになってしまう。本当によくわからない。これは、結果から最善なものを導こうとしているからこうなっているんだろう。そんなことをしたって仕方がないのに。とにかく、「諦めなかった」という記憶がほしい。


 この回を書き始めてから3日くらいが経った。そんなになると、わざわざ日付を毎回つけている意味が薄れるかもしれないが、まあ置いておこう。今からすると、体育大会も少し昔のように感じる。かといって、またまた近況報告をしようとはならない。そんな、日記みたいなことを書くのは楽しいけれど、僕にしかわからないこととかも多いからね。そろそろ最終章に入るとしようか。なにについて書くかはまだ決まっているわけではないけれど。


 近況報告はしないと言っていたが、ひとつだけ書かせてもらおう。一昨日から、僕は寮の自室に花を飾るようにした。鮮やかな薄い緑のカーネーションと純白のスプレーマムだ。カーネーションは一輪だ。それらを買ったのは、「綺麗だ」以外の理由はない。それで、花を置くことにした理由もたいしたことはなくて、「なんとなく」というのが一番正確だろう。前々からやってみたいとは思っていたことだし。母が花の名前にはとても詳しかった。道端にある花の名前とかがだいたいわかったらしい。今はどうか知らないけれど。かといって、僕に昔から花を愛でるということがあったわけではないが、美しいものを美しいと思えていたことに気づけたので、それは幸せだ。ついさっき、手が当たって、白い花びらを落としてしまった。向こうからしたら、一生のすべてが消えてしまった。申し訳ないことをしてしまった。


 

 僕が僕じゃないみたいだ 笑えるな君のせいだ

 どうかしてんだ どうしてくれんだ


 たまに、いつもの僕じゃないなと思うことがある。今は別に、恋愛の話をしているわけではない。変だと思っていても、結果としてなんだかそうなっている。ここの具体例とかは本当に恥ずかしいので書かない。思わせぶりみたいで申し訳ない。誰かさんには言ったけど、僕の中で感じている感覚みたいなものは直接言葉にすると、とても恥ずかしいんだ。それをここではしているんだけど、文字とかなら別に問題はない。つくづく、変な人だな。孤独とか特殊も英語で言うと「スペシャル」で、なんだかかっこいい気がしてくるということもついでに書いておこう。その人はかっこよくて優しい人。


 ここでも何回か言っている。いつかは「自分」というものについて考えたい。最高の不思議だ。神様はなんていうものを身近に残してくれたんだか。ただ、その問いに終わりらしきものすら見出すことはできない。それっぽく書くことはできるだろうがもったいない。今回も、「自分」について考えることからは逃げさせてもらおう。「無題」が終わる日がきたとしても、結局は考えず仕舞いなのかもしれない。自分について考えるというのはとても、怖いことだ。その前に好奇心が先行するといった人も、もちろんいるとは思うけれど。そこでなにか結論らしきものが出てしまうと、その後の自分をいろいろと拘束してしまいそうだ。いろいろな哲学者とかが考えている問い。「自分とはなにか。」これに僕が近づく日はくるのだろうか。とりあえずここでは、自分とは不思議なんだとでも言っておこうか。長々と書いていて、結論は至って当たり前ということを経験したことがみなさんにはないだろうか。結局、僕が今まで出してきた答えのようなものの中でも、普通に考えたらそうなるよね、みたいなこともけっこうあった気がする。覚えていないと、保険はかけておく。僕が読んできたよ本の中でもそういったことはある。その結論をぱっと読んでも、自分の生活が劇的に変わったということはない。「理解する」ということと「実践する」ということの差がとても大きいというのはよく聞くことだ。勉強とかでもよく言われることだ。道徳の授業とかでも、結論は決まりきっている。いじめはだめとか、挨拶をしましょうとか、いろいろある。それでも、わざわざ時間をたくさんとって、考えさせられる。無駄ではない。ぱっと出てきた答えと、じっくり考えて出てきた答え。答えの文面は同じとする。それで、これは同じものだろうか。両方の意見が出てきそうだ。小学校で「結果がすべて」みたいなことを言ったら、先生からなにか言われそうだ。結果が全てなことはもちろんあるだろう。いくら、能天気に生きている人でも「過程がすべて」とは言いにくいものだ。先生がよく言う「過程を大事にしましょう」というのは、綺麗事にしか聞こえないこともある。いくら真面目に勉強していても不合格だったりしたら、やっぱり結果の方が大事と思ってしまうことがあるかもしれない。運動会で練習を一番がんばっていても、結果が最下位とかいうこともある。校長先生とかは「過程も大事」とか言って、慰めてくれるかもしれない。これも、両方の意見がある。その過程で、間違いなく人は成長するはずだからね。結果が大事なのはわかりきっているし。


 また、新しい朝が来た。こんだけ日を重ねてきて、「無題」を書き続けていて、もうなにを書きたいかわからなくなってきた。初の1万字を目指してもう少しがんばろう。最近、夜は日がまわってすぐくらいに寝るようにしている。それも別に早いわけではないけれど、一時期よりは早い。そのときは、朝起きてしばらくぼーっとしていた訳だけれど、最近は目覚めがよくなった。早く眠るに越したことがないというのはわかりきっている。でも、夜は楽しい。その瞬間には頭はよく冴えている。25時くらいに作業をするのが日課の人たちもいるし。


 もうすぐで中間試験になる。学校の定期考査はとにかく暗記ばっかりで嫌になってしまう。量が多ければ、結果も少しはついてきてくれるのはそれはそうなんだろうけれど。勉強のやる気の出し方というのを教えてほしいものだけれど、そういうやり方では持続しないので自分なりのパターンみたいなのを作るのが一番いいんだと思う。そういうのを早いうちから確立できていたらよかったんだけど。勉強をするのが嫌という言い訳もそろそろ通じなくなってきた。嫌でも、自分の実力と向き合わなければいけないようになる日が着々と近づいているのがわかる。受験生って、今では想像もできないくらい大変なんだろう。来年を迎えたくないな。その一年を乗り越えたらあとは、みたいな考え方もできる。果たして乗り越えられるのかどうか。そのころになると、「無題」ともうひとつのほうのラブコメはまったく更新されないようになるかもしれないけど、そのときはお許しを。



 長い長い、この文章の海もそろそろ枯れるときが来た。今回の文章はなんだか僕の性に合わない。今さら言っても、本当にどうしようもない。まあ、今回は特別回だということにしておこう。次からは一回、一回内容ごとに区切っていこう。今回は本当に脈絡とかもなくて、ただ字を稼いだみたいに思われてしまうこともあるかもしれない。最後に、人からの見え方なんて、果たしてどうでもいいものなのだろうか。言葉というのは本当に不思議なものだ。それは、自分に言い聞かせることでも、相手から言ってもらうことでも不思議と力になる。「他人を全く気にしない人生」なんていうものを送れている人はどれくらいいるのか。僕は見たことがない。「他人からの評価なんてどうでもいいの」って、先生とか親が言ってくれるかもしれない。それは「安心剤」だろう。思い込みかな。それでも、その人がその瞬間に楽になれるなら別に構わない。僕は、そこまでひどい方ではないと思っているけれど、人の目を少しは気にしている。比較対象があるから少しでも「いい」という桃源郷を目指せるんだろう。その、比較の矢印を自分に向けることができる人は本当にすごい。今度こそ、本当に終わりにしよう。僕はいつまでも書いていたいな。


 

 ああどうか、いつか、僕の我儘が終わるまで。


 どうにか届くように、届くようにと綴る。


 太陽が不意に亡くなって、独りぼっちになったなら貴方を追う。





 捧ぐ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る