第18話 宮崎にて

 今日、春休み明けテストが終わった。終わった…。

結果はお察しの通り。かといって、やることがなくなったわけではないので、しなければいけないのには変わりないけれど、どうやっても先延ばしにしてしまう。


 今日は少し前の話をしよう。2週間前くらいのこと。


 別に、「宮崎にて」って題名だから、志賀直哉の「城の崎にて」のように、小動物の「死」と自分の将来を重ねるわけではない。


 僕は愛媛に住んでいる。ところが、今年度は、3回宮崎に行ってきた。祖父に会うためだ。累計で数えると、隣の香川とか高知とかよりも、宮崎の方が多いと思う。なんだか、不思議なことのようにも思う。単純に労力で考えると、隣県に行くほうが圧倒的に楽だろう。まあ、僕が宮崎と香川どっち行きたいかと聞かれたら、迷わず宮崎と答えるだろう。行動には必ず目的がある。ぼーっとしているだけということもある。それは、その一見無駄なように思える時間を過ごすことが目的だ。そのために、ぼーっとしている。別に、祖父が居なければ宮崎は一生のうちに一度行くかどうかくらいだろう。そこのところは、完全に偶然だろう。ただ、そうも終わらせたくない。ある人の言葉を借りれば、「偶然じゃない。運命なんかでもない。互いの選択が交わった結果だ。」と。少し、文言は変えた。ひとつひとつの、すべての人間の選択が緻密に絡まって世の中になっている。その「僅か」な選択の違いでも、あとから結果を見れば、だいぶ違うということばかりかもしれない。そういうふうに考えてみると、それは「選択の積み重ね」であるけれど、「偶然とか運命」のように感じることもあるかもしれない。人は、一日に35000回くらい決断をするらしい。そんなのが、一通りでしか絡まらなかったら、とある結果が生まれないとなると、やっぱり運命めいたものを考えてしまう。ただ、運がなかったとかいうのは、実際そうなのであるにしても、僕には諦めて投げ出しているように見えてしまう。高圧的になってしまうけど。最善の選択とどこかで、微妙に異なっていたんだろう。それは、どうしようもない。ずっと、最善の選択ができる人など居るはずがない。


 僕が行ったのは、宮崎県のえびの市というところだ。行ったというか、目的地、泊まったところという方が適切だな。他にも熊本の人吉とか、鹿児島の知覧の方にも行ったりした。えびのは交通の便がいいところだ。九州の南の方の真ん中にある。よければ調べてみて。えびのは本当にいいところだということをとにかく言っておく。愛媛からどうやって行ったかというと、三崎(愛媛)と佐賀関(大分)の間を船で渡って、そのあとは宮崎の海岸線を下に向かい、そのあとに西へ向かう。


 白波の立った海の上、細長い半島のくねくね道、整備された高速道路、農道のような周りに畑しか広がっていない道、航空自衛隊の駐屯地の前、本当にいろいろなところを通った。当然、歩いている人とか、走っている人、自転車を漕いでいる人などさまざまだ。なぜだか、僕は不思議だと思った。僕が車に乗っているから、高みの見物だっただけかもしれない。それで、いろいろな人を眺めたとき、「みんな同じ人ではない」って実感した。それは当然。小中学校のときとかは、「みんな違ってみんないい」とか「十人十色」とか、そういうふうに習った。個性があるとか、認めあっていこうとか。そんなだいそれた話ではない。車に長時間乗っていたことに疲れていたのかもしれない。ただただ通る人を眺めていて、「違うんだな」と。これをここに書いて、今回こそ共感は得られないかもしれない。でも、別にいい。学校の道徳の時間よりも、腑に落ちたのがその瞬間だった。その過程とかは説明できないし、思い出すこともできない。ただ、深く感動したということは覚えている。だから、今この文章にしている。このことも、ひとつの言葉にしてしまえば、「同じ人はひとりだっていない」とか「人はみんな違う」とかに落とし込んでしまうんだろう。ああ、嫌だな。薄っぺらい。この感情を言葉にできない。それも、そのときに実感して感動したことを覚えている。「言葉にできない感情」って今では、ありふれた文句になってしまったと思う。やっぱり、もったいない。簡単に使っていい言葉でない。


 人と話すとき、メールでやり取りをするとき。僕もそうだけど、自分の意思を相手に伝えるのに最善の言葉を選んでいるだろう。なんだったら、今この瞬間も僕はそうだ。僕を含めてそれが最近雑になってしまっているのではないかと思っている。それを悲しんでいるのかな。それは、あまりにも偉そうだし、よくわからない。LINEとかで、なにも考えることなくスパスパって話すのもひとつの形だろう。とても便利だと思う。「言葉を大切にしろ」とはよく言われることだ。僕も、もっと幼いときはそうだったと思う。できる限り大切にしたいとはもちろん思っている。


 最後に、僕が大好きで、お世話になった中学校のときの国語の先生が離任式で言った言葉を引用して終わろうと思う。


 「みなさんは、心はどこに宿ると思いますか。まず浮かぶのは、そう、胸を押さえている人も居ますね。心臓でしょう。でも、よく考えて見てください。ただの、血液を送り出すための器官でしょう。心が宿っているというのとは違う。じゃあ、頭を指している人も居ますね。確かに、感情とかを持つのは頭かもしれません。ただ、他人に、自分の心を見せるのに頭の中を見せたって意味はないでしょう。やっぱり、心が宿っているというのとはちょっと違う。私は、国語の教師です。もうわかっている人もいるでしょう。そう、言葉です。心は、言葉に宿ります。私は、みなさんに、その自分の心が宿っている言葉を大切に使ってほしい。そういう気持ちで一年間国語の授業をしてきました。みなさんが、自分の発する言葉を見直し、考えることで、みなさん自信の心について考えてくれることを願っています。」


 何人もの先生と出会い、別れてきたが、一番強く心に焼き付いているといってもいい別れの言葉だ。

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