第一章 突然の求婚者④


    ◆


 出仕しゅっし復帰から一日。

「──おはようございます」

 いつものように一礼して結蓮ゆいれんが演習場へ入ると、先に来ていた同僚どうりょうの武官たちの会話が一瞬いっしゅんぴたりと止まった。

 やがてさざなみのようにひそひそと会話が再開される。三度目の婚礼こんれいも破談になり久しぶりに出仕してきた女武官のことだ、山ほど噂話うわさばなしが飛んでいるのだろう。

「あの人も柚梨ゆうり軍の武官ですか? 随分ずいぶんと毛色が違いますけど……」

 新入りの若い武官が釘付くぎづけになっているのに気づき、先輩せんぱい武官らが苦笑くしょうする。

れかけてるんならやめておけよ。ああ見えて柚梨軍じゃ五本の指に入ると言われる腕前うでまえだ。おまえの手には負えないぜ」

「そうそう。禁軍きんぐん五将のうち、西将軍と南将軍に立ち合いで勝ったこともあるんだぞ。生まれ育ちは深窓しんそう令嬢れいじょうだが、今じゃひめ将軍ってあだ名までついてるくらいだ」

「そんなに強いんですか。全然そうは見えませんね……」

 なおも見とれている新入り武官に、先輩武官らは面白おもしろそうに顔を寄せて続ける。

「何しろ、三度も結婚けっこんが破談になってるだろ。実は男だから婿むこげられたんじゃないかっていう噂もあるんだぜ」

「えっ!?」

「真夏でもきっちりと帷子かたびらや武具をつけて、絶対にごうとしないしな。それについては、はだのろいの経文きょうもんきざまれてるのを見られたくないからって説もある」

ほかにも不気味ぶきみな噂が絶えないんだ。あの美貌びぼうせられて言い寄っていた者たちは、ほう家の屋敷やしきに入ったまま一人も帰ってこなかったとか。夜な夜な鬼火おにびに囲まれて奇妙きみょううたげを開いているらしいとか……」

きびしく当たったりいやがらせをしたりすると必ず不幸が降りかかるらしいぞ。これは噂じゃなく事実だ。現についこの前も、打ち負かそうと闇討やみうちしたやつらが後で河にかんでたらしい。あのむすめたたるんだ。かかわらないほうが賢明けんめいだぜ」

「わ……わかりました。自分、豊舎人しゃじんには絶対に近づきません!」

 口々に噂をき込まれ、新入り武官はみるみる青ざめた。

 一方、そんな不名誉ふめいよな噂話をささやかれているのも構わず、結蓮は演習場のすみへ行くと武器の確認かくにんに取りかかった。遠巻きにされるのは以前からのことだから別に気にならない。

(出仕するのは一月ぶりくらいだけど、やっぱり変わらないのね)

 自分がどんなふうに噂されているのかは知っている。これが太子にかかわることならばだまってはいないが、自分のことならどうでもいいというのが正直なところだった。

 禁軍の一、太子近衛このえである柚梨軍。十四歳で武官登用試験に合格して以降、ここが結蓮の所属先だ。

 こうの軍には女性も登用されている。建国の逸話いつわにある、太祖を助けてよく仕えたという強弓ごうきゅう使いの女将軍の故事によるものだ。しかし名門の姫が武官になるという例はなかなか珍しいため、結蓮は常に噂話の的だった。おかげでそれを聞き流すわざ年々磨みがきがかかっている。

 だから今日も、初めのうちは飛びう会話も耳に入ってこなかったのだが──。

「そういえば、聞いたか? 皇后こうごう様の快癒かいゆ祈願きがんが近いらしいな」

「ああ、それで。僧侶そうりょがあんなに集められてるのか」

「それだけじゃない。在野ざいや呪禁じゅごん師にも募集ぼしゅうがあったそうだぞ」

 近くにいた一団の会話を聞きつけ、結蓮は思わず手を止めた。

(快癒祈願……?)

 皇后は今、ある場所で療養りょうようしている。不慮ふりょの事件で傷を負い、長らく生死のさかいをさまよっていたのだ。結蓮も琮成そうせいも口にこそ出さなかったが、回復はいつになるのかとずっと気にかけていた。婚礼のため出仕をひかえていたここしばらくの間にそんな話があったとは。

(……でも、そうか。もう五年もつのね)

 そんなに長い月日が過ぎたのが信じられない。後宮にまねかれ、綺麗きれい襦裙じゅくんを着せられて、めずらしい菓子かしを食べながら母の思い出話を聞いた楽しい日々。つい昨日のことのように思い出せる。

『本当に、美しい娘だったのよ──』

 母のことを語るとき、皇后はいつもいとしげな、どこかあこがれるような眼差まなざしをしていた。

『我ながら、本当にあたくしと血のつながった妹なのかしらと何度思ったかわからないわ。ひょっとしたら人の世に迷い込んだ仙女せんにょ様なのかもしれないと、真剣しんけんに考えたものですよ……』

 つやをふくみ、水滴すいてきをはじくほどにみずみずしく、かたに背中に流れる黒髪くろかみ

 目をせれば、長く豊かな睫毛まつげの影が、えもいわれぬ憂愁ゆうしゅうの色をほおに落とす。

 目をあげれば、まるで女神めがみふじの花波をかきわけて現れたかのように艶麗えんれいであった。

 りんとしていながらみをもたたえているかのようなひとみは、光によって色味が変わって見え、その不可思議な魅力みりょくにとりつかれる者は後を絶たなかったという。

 れればとけてしまいそうだと錯覚さっかくを覚えるほどに、はかない白雪のような頰。

 おかしがたい完璧かんぺきさで、冷たく拒絶きょぜつするかのような鼻梁びりょうの線。

 うるわしい果実のごとき、甘美な色と微笑びしょうを乗せたくちびる──。

『そうしていくら言葉をくしてたたえても、その賛辞さんじの一つ一つが、あの子の美しさの前では色褪いろあせてしまったの』

 絶世の佳人かじんなどという表現では生やさしい。人とは思えぬ、凄絶せいぜつともいえる美貌の持ちぬし

 それが結蓮の母という人だったらしい。だが結蓮には母の記憶きおくがあまり残っていなかった。

『まさかあんなに早くにいなくなってしまうなんて。父上もとてもお悲しみだったわ──』

 祖父そふには三人の夫人がいた。同時にいたわけではなく、妻が早世したために一人ずつめとったそうで、現夫人は三人目だ。皇后は一人目の妻の子、結蓮の母は二人目の妻の子だった。

 男の兄弟きょうだいが多い中で二人はたいそう仲がよかったらしい。母にむらがる求婚きゅうこん者らをかたぱしから撃退げきたいしてやったものだと、伯母おばはいつもほこらしげに語っていた。

 けれどもそれも伯母が後宮にあがるまでのこと。その後、未婚のまま結蓮を産んだ母は数年もたたないうちに姿を消した。伯母は一人残された結蓮を後宮にたびたび呼んでは母の代わりにいつくしんでくれた。

『そなたはあの子に生き写しですよ。そのうちに鬱陶うっとうしい求婚者が山のようにやってくることでしょう。ああ、いまいましい。あたくしの権力で蹴散けちらす準備をしておかなければ!』

 まだ小さかった結蓮は、本気の目をして息巻く伯母の様子からしてそれが大変なことなのだと思いいたり、一度いてみたことがある。

『求婚者をお断りする方法は、ないのですか? 難しいのですか?』

『いいえ、簡単ですよ。相手が用意できないほどの高価な物品や支度したく金を要求してやればよいのです』

 伯母は晴れやかな顔でそう言った。

『でも、皇后さま。それだと、相手の方がかわいそうです』

『あらあら、可愛かわいい子。可哀相かわいそうも何も、そなたの母上が考案して行使しまくった手ですよ?

〝わたくしと結婚けっこんしたければ何某なにがしのお宝を持ってきなさい〟、とね。たいていの男はそこであきらめるかボロを出します。そなたも面倒めんどうな男に言い寄られたら遠慮えんりょなくそうやって撃退なさい』

『けれど、相手の方がほんとうにそのお宝をもっていらしたら……?』

『案ずることはありませんよ、結蓮。そんなことはありえません。我が豊家よりも財のある氏族など、大煌だいこう広しといえど存在していないのですもの。おーほほほほほ……』

 華麗な高笑いが脳裏のうりによみがえり、結蓮は思わずくすりと笑う。

 美貌と才気をそなえ、国母である誇りと自信に満ちていつも堂々としていた伯母。結蓮に女人にょにんとしての生き方を教えてくれて、一族の誹謗ひぼうから守ってくれた。大好きだったのに、今もまだ目覚めない──。

「──豊結蓮はいるか!」

 突如とつじょ名を呼ばれ、物思いにしずんでいた結蓮ははっとして顔をあげた。

 見れば、演習場に入ってきたのは柚梨軍の副将軍だ。そばにはこう東宮とうぐう少保しょうほもいる。

「はっ! 豊結蓮、ここにおります!」

 きびきびとけ寄った結蓮に、副将軍がいかめしい顔つきで言い放った。

「大将軍閣下かっかからの命令を伝える。──貴様は今日から封陰省ふういんしょう出向しゅっこうだ」

「……出向!?」

 り返すなり結蓮は絶句ぜっくした。予想外にもほどがある言葉だったのだ。

 周りにいた同僚たちもおどろいた様子で、「何かへまでもやらかしたのか」と囁きあっている。武試に合格し皇帝臨御こうていりんぎょ選抜せんばつを経て柚梨軍に入った武官に、出向命令が出るなど例のないことだ。それが豊家の者であればなおさらだろう。

(しかも、封陰省ですって……!?)

 龍神りゅうじん末裔まつえいである皇帝を守護しゅごするため設立された官府であり、所属するのは呪禁師と呼ばれる術師ばかりである。およそ武官の結蓮がつとめられるような場所ではないはずだ。

「お言葉ですが。封陰省に出向いて、小官しょうかんは何をすればよいのでしょうか。門番や警備けいびくらいしかお役にたてそうにありませんが」

 丁寧ていねいな態度はくずさず、けれども腹立ちをおさえきれずに結蓮は力強く副将軍を見据みすえた。普段ふだんはこんなふうに食ってかかることはしないが、さすがにこれは我慢がまんならなかった。

「それは向こうで聞くことだ。私は聞いていない」

「これは左遷させんでしょうか。小官に落ち度があれば、まずそれをお聞かせいただきたく存じます。でなければ殿下でんかのおそばを離れることに納得がいきません!」

「口をつつしみなさい、豊舎人。これは上意でございますぞ~」

 ねばつくような言い回しで孔少保がとがめた。彼が広げて見せた命令書の印に気づき、結蓮は驚いて口をつぐむ。

 上官である柚梨軍長官に命令をくだせるのはただ一人。禁軍を統括とうかつする者、つまり皇帝──。

陛下へいかのご命令……!? でも、何か不興ふきょうを買うようなことをした覚えは……)

 そもそも、皇后のめいとはいっても皇帝とは接点がない。尊顔そんがんを拝したこともほんの数度だけだというのに。

「わかったのなら今すぐに向かえ。あちらも待ちかねているだろう」

 副将軍の命令に、それ以上異議をとなえるわけにはいかなかった。


    ◆


 みどりいらかが波のようにうねりつらなった皇城の東に、封陰省はあった。

 離れにある書庫が新しい配属先だと聞き、教えられたように結蓮は奥のほうへと向かう。

 近づくにつれてその古びた建物が目に入り、どんよりとした気分になった。

 これも朝廷ちょうてい官吏かんりとして立派りっぱな職務なのだから精一杯せいいっぱいつとめよう。ここへ来るまでの道すがらそうやって自身に言い聞かせてきたが、やはり気は進まない。

(殿下にもし万一のことがあったら、けつけるにも時間がかかってしまうかもしれない。そこは上官どのにご相談して、舎人の職務を優先させていただかなくては)

 なんとか自分に折り合いをつけ、気を取り直してとびらを開ける。

 書庫とはいっても一つの部署であるので、書架しょかまっているだけの部屋というわけではない。手前には広く空間があり、冊子や書類が積み上げられた大きな卓子つくえが置かれていた。

御免ごめん! 柚梨ゆうり軍から出向でまいりました。どなたかいらっしゃいませんか」

 人の姿がなかったため、大声で呼びかける。しかしどこからも応答はない。

 もう一度声を張り上げようとして、大卓に紙切れが置かれていることに気付いた。

 達筆な字で【御用ごようの方はとなりの部屋へどうぞ】と書かれている。

 指示通り扉を開けてみると、そこは小さな部屋だった。燭台しょくだいはすべて明かりが落ちており薄暗うすぐらい。

 見れば、こちらの卓子にも紙切れが置いてあり、今度は【御用の方は起こしてください】と書かれている。

 そこで初めて結蓮は、奥に寝台しんだいのようなものがあることに気付いた。紗幕しゃまくの向こうに人がているらしいことにも。

(ひょっとして、ここは封陰官の休憩きゅうけい所?)

 皇帝を守る封陰省は朝も夜もなく任務についているはずだから、仮眠かみんをとるような場所があるのも不自然ではない。

 紗幕をあげて見てみると、寝ているのは若い男だった。着崩きくずれてはいるが封陰官の官服を身につけている。

「もし、すみません。起きていただけますか」

 男はすやすやと寝息ねいきをたててねむっている。結蓮はしばし待ってみたが、彼が一向に起きる気配がないため、今度はかたをつかんで強くゆさぶった。うーん、とうなるような声があがる。

「…………だれ?」

 がくがくと首がれるほどの勢いにさすがに目が覚めたらしい。まぶたをあげた彼はぼんやりした眼差まなざしで結蓮を見た。

「はっ。申し遅れました。私は──」

六蓮ろくれん天女てんにょ?」

 寝ぼけたような声で彼はつぶやく。大陸の守護しゅごつかさどる天女の夢を見ていたとは、なんとも縁起えんぎの良いことだ。

「いえ、違います。六蓮天女ではありません」

 生真面目きまじめ訂正ていせいする結蓮を、彼は凝視ぎょうししていたが、突然とつぜんがばっと飛び起きた。

 驚く結蓮の手をつかみ、むねかかえ込むようにしながら感動したように一言。

「美人だ……」

「──は?」

「その黒紫くろむらさき水晶ずいしょうみたいなひとみ……。綺麗きれいだ……」

 ぐいと顔を近づけてきた彼は、ひたすら感心したように結蓮を見つめている。

 寝ぼけているのかと面食めんくらいながらも、結蓮はきりっと表情を引きめて本題に入った。

「お休みのところ失礼します。出向でまいりました、柚梨軍北軍所属、豊結蓮と申します」

 はっ、と男が息をんだ。

 先ほどまでとは違った眼差まなざしで結蓮を凝視ぎょうしすると──次の瞬間しゅんかん、なんといきなりきついてきた。

「!?」

「会いたかったよ! 久しぶ──」

狼藉ろうぜき者ッ!!」

 瞬時しゅんじに体勢を立て直し、結蓮は男を投げ飛ばす。

 ぎゃっと悲鳴をあげてゆかに転がった彼を冷ややかに見下ろした。

「神聖な朝廷ちょうてい内で婦女子に乱暴らんぼうを働こうとは……!」

「へっ。ち、ちが……ていうか乱暴してんのそっちじゃ」

「朝官ともあろう者が、はじを知るがいい!」

「だから、ちが……ぎゃああああ」

 関節技かんせつわざを決められた男の断末魔だんまつまのごとき絶叫ぜっきょうひびき渡る。やがて、がくり、と彼は頭を落とした。

 思いがけず不埒ふらち者を成敗せいばいすることになり、結蓮はふうと息をついてなわを取り出したが──。

「──きゃーっっ! ちょっと、何事なのーっ」

 野太い悲鳴が聞こえ、そちらを見れば、小部屋の戸口に三十がらみの男が立ちすくんでいた。官服からして封陰官らしい。結蓮は急いで立ち上がった。

「出向でまいりました、豊結蓮と申します。偶然ぐうぜんにも狼藉者と出会いましたのでこれから捕縛ほばくするところです。失礼ですが、次官どのでいらっしゃいますか?」

 筋肉質のその封陰官は、やたら可愛かわいらしい仕草で両頰りょうほおに手を当てている。

「ああ豊舎人ね、話は聞いてるわ。……あの、言いにくいんだけど……」

「はい?」

「……あなたの足下で伸びてるが、うちの次官なの……」

 結蓮は目をみはって男を見下ろした。

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