第一章 突然の求婚者②


    ◆


 太古の昔、混沌こんとんの海に一頭の大亀おおがめがいた。それは幾億いくおくの年月をてやがてち、広大な大地となった。世界唯一ゆいいつの大陸、星霜せいそう大陸である。


 いつからか世界は、天界、人界、冥界めいかいの三つに分かれていた。

 天の玉皇ぎょくこう、地の玉帝ぎょくてい双子ふたご同一神が神仙しんせんを束ね、大陸四方の海を東西南北の四海龍王りゅうおうが治める『天界』。死者がおもむく国でありながら地上と同じ官僚かんりょう政治の機構を整え、その頂点に閻王えんおうをいただく『冥界』。そして双方そうほう狭間はざまにある『人界』だ。三つの世界は、時折交差しながら存在している。


 人界には、古代より六つの大国があった。

 天帝てんていつかわした六人の天女てんにょ守護しゅごされた国々は、ちょうを変えつつ脈々みゃくみゃくと現代にがれている。天帝の象徴しょうちょうである蓮花れんかになぞらえて六蓮ろくれん天女と呼ばれる彼女らに守られた現在の六国は、ろうこうていさいれんたん。周辺の小国と区別して、これを六雄りくゆうと呼ぶ。


 六雄の一、煌は、六百年の昔、太祖たいそ暴虐ぼうぎゃくな前朝の皇帝こうていを倒して建てた国である。言い伝えによれば、太祖はりゅうの血を引く碧眼へきがんむすめで、龍神のあつい加護を得ていたという。以来、煌朝では碧眼の持ちぬしだけが玉座にのぼることを許された。つまりは碧眼を持つ者だけが皇太子に、そして皇帝になれるのである。

 それを破る者があると、煌はたちまちに龍神の加護を失うといわれるが、さだかではない。


    ◆


 煌国の都、桃霞とうか

 その名のごとく、春になれば都中いたるところに植えられた桃の花がき乱れ、かすみがかって見えるという、花を愛した初代皇帝が命名した美しい城市まちである。

 その季節が間もなく都におとずれようとしている、あるのどかな午後。結蓮ゆいれん宮城きゅうじょうの東にある東宮府とうぐうふへと向かっていた。

 大事にかかえた包みを見下ろし、聡明そうめいな主君をおもって感服のため息をつく。

三翠同さんすいどうにある菓子かし屋の新作って、これでよかったのかしら。市井しせいの人々の流行までご存じだなんて、さすがは太子殿下でんかだわ)

 久々の登城理由が主君から「何某なにがしの菓子を買ってまいれ」と命令が出たためというのもまたほこらしい。

 カチャ、カチャ、と歩くたびによろいかなでる音がする。武官姿になるのも久しぶりだ。着飾きかざらされて屋敷やしきに閉じこめられていた時とは比べものにならない身軽さで、颯爽さっそう石畳いしだたみを歩く。

 朝廷ちょうていの各官府は石畳のみちによってつながっており、官府ごとに見事な庭園がそなわっているのが煌国皇城の特徴とくちょうだ。東宮府のある内朝に入る門まで来ると、結蓮は思わず足を止めた。

 そこに広がる桃花園とうかえんのまだ固いつぼみを見て、自然とくちびるがほころぶ。

(よかった……。なんとか花の季節の前に復帰できたみたい)

 桃霞生まれの者にとって、この季節は特別なものだった。

 花が満開になるころ、都では各地で祭りが行われる。月を友に夜の桃花を楽しむもよし、のどかな陽射ひざしの下で大勢の酒盛さかもりを開くもよし。過ぎゆく春を思い思いにでる、桃霞の人々にとっては欠かせない行事だ。登城の折、にぎやかな都がいつも以上に浮かれているように思えたのはそのせいに違いない。

(……でも今年も、屋敷の桃花を見るだけで終わってしまいそうね)

 なんとなく残念な思いをいだきつつ、再び歩き出す。門をくぐればすぐそこは東宮府だ。

 東宮府とはその名のごとく東宮、つまり太子のための官府である。太師たいし太傅たいふ太保たいほの東宮三師を長に置き、舎人しゃじんと呼ばれる近衛このえ官吏かんり、そしてつぶぞろいの女官にょかんたちをそろえた、『もう一つの小さな朝廷』といってもいいかもしれない。

 さらに奥の東宮御殿ごてんを目指して回廊かいろうを歩いていくと、前方から官吏の一団がやってくるのに出くわした。会議帰りの高官だと気づき、結蓮はさっとはしへ寄る。

「──これはこれは、豊舎人ではないか。久しく顔を見ていなかったが」

 声をかけてきたのは恰幅かっぷくのいい初老の男。さい東宮太傅だ。東宮府の最高官の一人である彼が気安く一武官と言葉をかわすのはめずらしいが、その声音こわねは友好的なものではなかった。

「はっ。しばらくおひまをいただいておりました」

「ほーぉ。そうかそうか。そのまま永遠に休んでおればよかったのにの~」

 蔡太傅の笑顔えがおは引きつっている。ぴくぴくとひたいの青筋が動いていたが、おもてせている結蓮は気づかない。

「はっ。ありがたいお気遣きづかいですが、そういうわけにはまいりません。長く休んでしまいました分も含め、今日より精一杯せいいっぱいつとめてまいる所存です」

「やらなくてよいわーっ! そなたが働くとろくなことにならぬ!」

 とうとう我慢がまんできなくなったのか蔡太傅が癇癪かんしゃくを起こした。

「任務に出かけるたびに何かしら破壊はかいしおって! 修理費がいくらまっているか知っておるのか!? そなたの給金の五十年分だぞ! しかもそのすべてが東宮府に請求せいきゅうされておる! そなたは東宮府のくらを空にする願掛がんかけでもしておるのかっ!」

「はっ!」

「はっ、ではない! このままいけば冗談じょうだんではなく東宮府は破産なのだぞ!」

 がみがみと説教をり出す蔡太傅を、となりにいた瘦軀そうくの官吏が「まあまあ」となだめた。

「お務め熱心でよいではありませぬか。それに豊舎人も破壊したきり素知そしらぬ顔をしているわけではありますまい。修繕費しゅうぜんひは豊家のほうから出ているはず。──違うかね? 豊舎人」

 ちらりと視線を向けられ、結蓮は拱手きょうしゅして頭をさげる。

「私の個人財産から捻出ねんしゅつしております。はん東宮太保」

「そうであろうな。権門豊家にしてみれば、これしきの修繕費などすずめなみだほどでもなかろう。あと五百年分ほどあばれてみてはどうかね」

 范太保がうすく笑みを浮かべる。切れ者と評判の彼も時には冗談を言うらしい。

 人柄ひとがらも外見も正反対のこの二人が実質的な東宮府の最高官だった。どちらも朝廷の権力者である豊家に良い印象は抱いていないようだが、太子に対する職務は忠実だ。ちなみにもう一つの席である東宮太師は現在病気療養りょうよう中である。

「さっすっがっ范太保~! 豊舎人の事情までご存じとは、慧眼けいがんでございますなぁ! しかもその冗談の面白おもしろいこと! しびれますなぁ、まったく!」

 横からわかりやすくみ手をしながら首をっ込んできたのはこう東宮少保だ。その名のとおり范太保の副官であり東宮府の次官でもある彼は、仕事中よりも太保にごまをすっている時のほうがいきいきしているともっぱらの評判である。あだ名はもちろん『腰巾着こしぎんちゃく』だ。

「のう、みなもそう思うだろう? その上、しかられる豊舎人をかばっておやりになるとは、范太保のおやさしい人柄がにじみ出ているではないかっ」

「まったくです。そのとおりです!」

 そばにいた体格のいい下官が汗をきうなずく。他の下官たちも愛想あいそ笑いで同意しているのを見やり、蔡太傅が苦々しい顔をした。

「しかし最初に立てえるのは東宮府なのだぞ。それが立て続けに請求された日には、わしの心の臓も止まりかけるわっ! まったく、おとなしくあのまま嫁に行っておればよかったものを──」

「あーら、皆様みなさま。また今日も結蓮様いじめですの?」

 はなやかな声が割って入った。

 次の瞬間しゅんかん、その場にいた全員が振り向いて礼をとる。

「……ご機嫌きげんうるわしゅう存じます。耀妃ようひ様、景妃けいひ様、麗妃れいひ様」

 代表して口上をのべた蔡太傅に、東宮御殿のほうから出てきた女性たちが一様に微笑ほほえんだ。い上げた見事な黒髪くろかみにはそれぞれ花をかたどった宝玉のかんざしし、幾重いくえにもなるひれをまとった姿は天女のように美しい。

「お顔をおあげくださいな。せっかくお話しするのですもの、そのほうが楽しいでしょう?」

「そうよ。特に結蓮様。お顔を拝見したいわ」

「お会いするのお久しぶりですものねえ」

 勝ち気な美貌びぼうと気さくな性格をあわせもつ耀妃、愛らしい顔立ちで快活かいかつ雰囲気ふんいきのある景妃、ほんわかとした優しい笑みがまぶしい麗妃。目にもあざやかな衣装に身を包んだ彼女たちは、全員が太子妃である。

 とはいっても、太子は彼女らと本当の夫婦ふうふにはなっていない──らしい。耀妃は学問、景妃は香道こうどう、麗妃は囲碁いごをそれぞれ得意としており、その実力は学者たちも舌を巻くと言われる。息子むすこの後宮に多彩たさいな才能を求めた皇后こうごうが彼女たちを集めたのだが、負けずぎらいな当の太子は、きさきらとの勝負に勝つまでは夫婦にはならないと言い張っていた。

 若くして後宮に入った妃たちとは結蓮も長いつきあいになる。今日も彼女たちは裳裾もすそをひるがえす勢いでむらがってきた。

「ちょっと結蓮様! 三度目の縁談えんだんが破談になったと聞いたけれど、本当ですの?」

「お相手は確か、梅州候ばいしゅうこうの一族の令息れいそくでしたかしら? でもわたくしね、破談になってよかったと思っているの。だって、その相手ときたら官職にもついていないドラ息子だっていうじゃない。そんな男に結蓮様を任せられないわ」

「景妃様、それは二度目のお相手でしょう。三度目の方は兵部省ひょうぶしょうのお役人です。三十もとしはなれておられる上、あちらは四度目のご結婚けっこんだとか。わたくし、正直申し上げて、結蓮様がとつがれることに納得なっとくがいっておりませんでしたわ」

「まったくそのとおりですわね。こんなことを申し上げてはなんですけれど、結蓮様のお父君は婿むこ選びに手をきすぎではございませんの? 豊家の力をもってすれば、もっとふさわしい婿がねはいくらでも見つかるでしょうに。ねえ、皆様もそう思われますでしょう?」

 急に話を振られ、東宮官らはぎくりとした様子で目をそらす。彼らにしてみればなんとも答えにくい質問だから、無理もない。

「結蓮様も早く殿下の後宮にお入りなさいよ。そうすればもう手抜てぬきな婿がねを押しつけられることもないわ。わたくしたちも楽しいし」

 景妃の無邪気むじゃきな提案に、東宮官らがぎょっとする。しかし他の二人の妃も同意のようだ。

「学問、香道、囲碁ときて、武の達人が妃に加われば、殿下の後宮は安泰あんたいですわね」

「ぜひそうなさいませ。今すぐにでも!」

「いえ、私は……」

 三人の美女ににじりよられ、結蓮は困った。彼女たちの会話を聞くのは楽しいが毎度最後にはこんな流れになるのだからたまらない。

「お妃様方! そのようなごと、大きな声でおっしゃいますな。豊舎人は太子殿下とは叔母おばおいの関係なのですぞ。後宮になぞ入れるわけがございませぬ!」

「ええ~。別にそんなの、気にしませんわ」

「殿下がご命令なさるなら、だれ文句もんくなんて言わないわよねえ」

 蔡太傅が目をむいてたしなめたが、それがどうしたと言わんばかりに妃たちは顔を見合わせている。彼女たちにとっては後宮の仲間におさななじみの結蓮が加わるという事実が大事らしい。

 と、そこへ遠慮えんりょがちな咳払せきばらいがひびいた。

 彼女たちのさらに後ろからやってきたのは三十がらみの若い官吏。太子のやくであるしん東宮少傅だ。柔和にゅうわな顔に苦笑くしょうを浮かべている。

「お妃様方、そのへんになさいませ。豊舎人は伺候しこう途中とちゅうでございますよ」

「まあ、そうでしたわ。ごめんあそばせ、結蓮様」

 妃たちがまゆをひそめてびを入れるのを、結蓮はかしこまったまま受け止めた。

「皆様の過分なお心遣こころづかい、いたみいります」

 一度ならず結婚が破談になったのだから、若い娘にとって不幸な話題には違いない。だが彼女らに悪意がないことはわかるし、むしろ心配されているのが伝わってきて逆に申し訳ない気分になる。

 ようやく騒動そうどうの輪を抜け出せた結蓮は、あらためて本来の目的地である東宮御殿ごてんへと向かうことになった。

むかえに来てくださってありがとうございました、秦少傅。助かりました」

「いえ、実は殿下のご命令なんですよ。豊舎人の登城をお待ちかねのようで」

 秦少傅がさわやかに笑う。おだやかな物腰ものごしは先ほどの官吏かんりたちとはまるで別の人種のようだ。

「ご所望しょもうの品はこちらでよかったのでしょうか?」

「はい、ありがとうございました。使い走りのようなことをさせてしまって申し訳ありませんでしたね」

「殿下のお役に立てるのならば、どんな任務であろうと本望ほんもうです」

 秦少傅が、くすっと笑みをこぼす。

「あなたのその太子殿下大事のご発言、このところ聞いていなかったのでなつかしいですね」

 少し口調をくだけさせた彼に、結蓮もいくらか緊張きんちょういてうなずいた。太子が幼少ようしょうの頃からつかえている彼とも、昔からの知り合いだ。

 東宮府の次官である東宮少傅は、本来なら三十そこそこの若さでけるものではない。彼の生母がかつて皇后の養育係を務めていたというえんから任命されたのだが、当時は随分ずいぶんかげで非難されたとも聞く。

 だが結蓮は、彼は太子の守り役に適任だと思っていた。穏和おんわな性格もそうだが、やはり太子の傍には素姓すじょうのはっきりした一族の者がいてくれたほうが安心できる。

「久しぶりの出仕なので、なかなかかんもどらなくて困りました」

「大変でしたね。でもあなたには花嫁はなよめ衣装より武官姿のほうがお似合いですよ。──あ、もちろん良い意味で、ですけど」

 あわてたように付け加える彼に、結蓮は唇をほころばせる。

「ありがとうございます。私にとっては最高の賛辞さんじです」

 舎人の身分証である白と紅の玉牌ぎょくはいを提示し、許可を得て門をくぐる。

 水を落としてぼかしたような薄色うすいろの空は門の外と中とでは変わらないが、一歩足をみ入れると明らかに空気が変わる。太子を守るための結界がほどこしてあるのだ。かすかにぴりぴりとはだすような緊張感きんちょうかん身体からだを包む。

 桃花園の先には、あざやかな朱塗しゅぬりの柱と灯籠どうろうの回廊が続いている。欄間らんまえがかれた壮麗そうれいな龍の紋様もんようみどりあお。それにいろどられた扁額へんがくには〈春明殿しゅんめいでん〉と力強い文字がおどっている。

「──お気を付けください。豊老公がお見えになっておいでです」

 声を落として忠告してくれた秦少傅に、結蓮は一瞬いっしゅん間を置いてうなずいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る