第16話

 朝の騒々しい非日常は形を潜め穏やかな時間が訪れる。


 普段であれば幸せな一時なのだろうが瞼が重くなる事が恐怖でしかない。


 次に寝てしまったら私が私で無くなるかもしれないからだ。


「紬? 頑張りすぎると疲れて余計に眠くならないかい?」


 私の父親は心配そうな顔でずっと私の事を見守っていたのだが私が必死になっているのを感じ取り声をかけてきた。


 私の父親は私を心配して言ってくれているのは理解しているが眠気と恐怖によって何気ない言葉であっても苛立ちを感じた。


 顔に出さずに踏み止まれたかはわからないが父親の顔は心配そうなまま変わっていない。


 自分の苛立ちを感じ取り嫌だなと思った私は悪感情を振り払う為に鼻から息を細く長く吐き出した。


 本来なら目を瞑るのだろうが瞼を閉じ続けるのは怖い。意図的に瞬きを大袈裟にして感情を整理していく。


 大丈夫だ。


「まだ大丈夫。ただ眠ってたら起こしてね?」


「限界になる前にも声はかけてほしいな。突然倒れたとかにはなって欲しくないからね?」


 私は当ても無く動き出そうとする頭と身体にいまできる事はないと言い聞かせている。


 結衣のお母さんを待つと決めたのだから。


「それならもう限界に近いかな……。おとといからちゃんと寝れてないから動いてないと危ない気がするの。だから心配だろうけど家事はさせてね?」


「無理は……いやなんでもない。うん。紬がそうしたいならそれでいいよ。何かあればお父さんが絶対助けてあげるからね?」


「頼りにしているよお父さん」


 私の父親に元気よく言葉を発した後に振り返ると反動で視界の物体の縮尺が出鱈目に歪む。慌てた私は意識を保とうと努力するが右膝の力が抜けており左足で体重を支えた。


 耳を劈く音が突き刺さる。


『イイコ ニ ナルカラ オイテカナイデ』


 意識を保つ為に目を見開くがいつのまにか視界から色彩が失われている。


 縮尺が出鱈目になった世界が時折鋭角に歪みながら耳を劈く音を私に突き立てる。


『キョウ マンテン トッタノ』


 時折私の耳元で女の子の声が聞こえる。


 止まった時間に拘束された私の身体が動かない。


 父親の顔が見れない。


 心細い。


 ダメだ。


 思考が単純になっている。


 眠気と恐怖を振り払う為に大きく身体を伸ばそう。


 大丈夫。


 身体は動く筈だ。


「んー」


 力の入らなかった右足を肩幅に広げて両腕を大きく伸ばして背骨を反らす。


 吸い込んだ空気は新鮮で冷たく感じられ視界には色彩が戻り身体からは拘束された様な圧迫感が消えていた。


 目尻から何処かから押し出された涙が溢れそうになるが心配をかけない様にさりげなく拭かなければならないだろう。


 戦う相手がいなくなった私の身体は誤作動によって汗腺を開き冷却を試みている。


「紬?」


「ん? 危なかったけど大丈夫」


 時間にして一秒にも満たない攻防は父親の目にはどう映ったのだろうか?


 本当に危なかった。


 あの言葉はアカリちゃんの記憶?


「何か手伝おうか?」


「お父さんが手伝ったら眠気覚ましにならないじゃない。ソファに座って私が寝そうになったら起こしてくれるだけでいいから」


 私の父親は何もできない事が辛いのだろう。


 寝そうになったら起こすだけしか現状できないのだから。


「そう……だね。何かできる事があったら言うんだよ?」


「わかってるよ。いざとなったらお願いね」


 そして私も何もできない事は変わらない。


 いつまで結衣のお母さんを待てばいいのだろうか?


 睡魔と恐怖がじわじわと私を弱らせていく。



 昼前になり昼食の献立を考えながら洗濯物を畳んでいると私の自室から結衣が出てきていきなり私の顔を捕まえた。


「紬だよね? まだ無事?」


「まだ無事」


 顔が固定され上手く喋れず伝わらなかったのか結衣は私の瞳を覗き込みながら何かを確認している。


「かなりヤバそうだね。外行こうか?」


「えっ外?」


 私の顔から手を離した結衣は私を私の自室に押し始めた。


 学校を休んでいるのに外に出るのは罪悪感が強く結衣の強引さに少し抵抗していた。


「太陽の光を浴びに行こう。――そうだ! ついでにコンビニで眠気覚ましも買おう。まだお母さんから連絡きてないって事は何か掴みかけているんだと思うし」


「えっ⁈ 何もわからないから連絡ないんじゃないの?」


 結衣のお母さんから連絡がない事が不安だったのだが真逆の事を結衣は考えている様だ。


 親子にしかわからない何かがあるのだろうか?


「ん? 何もわからないならすぐに私だけで動くなって連絡くるだろうし。警告がないって事は進展はしてると思うよ? 紬もさっさと支度して⁈ 叔父さん紬連れてきます」


 意味が通っていないが結衣はそれで納得しているみたいだ。


「結衣ちゃん。ついでに紬の持ってるウチのカードで手軽に食べられるモノ買って来てくれないかな? 理沙さん達食べずに調べてるかもしれないから少し多めで」


 私が私の自室に閉じ込められた後に外から私の父親の声が聞こえてきた。


「分かりました。叔父さんも疲れてそうですし少し休んでください。外にいる間は私が守りますので」


 考えていた献立は無意味になったが外に出て日の光を浴びれば重い瞼が少しはマシになるかもしれない。


 早く着替えて結衣と共に散歩に行くとしよう。

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