4 愛とか恋とか
苗字で呼んでいた彼を、下の名前で呼ぶようになった。初めて名前で呼んだときの笑顔があまりにも眩しかったので、今でも忘れられずにいる。向こうは相変わらず俺のことを、彼しか使わない呼称で呼んでいた。あの夜からもう一週間が経った。
「フジ〜。」
研究室を出たところで、廊下の壁に背中を預けて立っていた蒼太に声をかけられた。蒼太のことを知らない通りすがりの女の子が数人、思わずといった様子で振り返っていた。相変わらず目立つ容姿をしているな、と数歩離れた距離で思い直す。
「おつかれ。待ってたの?」
学部の違う俺たちが構内で偶然会うことは少ない。約束をしていない限り、こうしてたまたま顔を合わせることは珍しかった。
「ケータイ、見てないでしょ。」
蒼太は長身に見合った長い指で、俺のパンツのポケットを指した。いつも後ろのポケットにしまっているのを覚えているようだ。俺は首を傾げてケータイを取り出す。数件の通知が溜まっていた。そう言えばお昼過ぎから一度も確認していなかった気がする。
「柿田が探してたよ。メッセージ送っても既読付かないって食堂で困ってた。」
三時頃みんなで休憩しようか、と昨日のうちに連絡が来ていたが、俺はちょうど予約していた実験器具を使う時間と重なっていたので断ったのだ。もしかしたら昨日のうちから、柿田は俺に用があったのかもしれない。
「あ、ほんとだ。柿田からメッセージ来てる。」
「なんかネクタイ貸してほしいってさ。あいつ入学式出てないし就活もしてないからスーツ持ってないんだって。」
続け様に数件並んだ通知を開いてみれば、蒼太の言う通りネクタイを貸してほしいとの内容だった。スーツそのものは別の友人から借りたのだが、ネクタイは持ち主が飲み会で失くしたままらしい。俺たちは皆、学部を卒業後、大学院へ進むので就職活動はしていない。俺も入学式のときに着たスーツが一着あるだけで、ネクタイもセットで買ったものしか持っていない。研究発表などで出番は多いが、そこそこ値の張る物の為、今まで新調もしてこなかった。
「貸すのは全然構わないんだけど、急にどうしたんだろうね。スーツ指定の学会に出るとか?」
柿田はいつも発表の場でスーツではなく白衣を着ていたことを思い出す。大学指定の白衣は正装として認められるので、衣服や装飾に興味のない柿田は常にアイロンがけの甘い白衣を選んでいた。蒼太に連れられて学部棟を出る。八月の暑さは夕方になっても厳しく、もう六時を過ぎたというのに空はまだ明るかった。
「メイと飯行くんだってよ。」
蒼太の口からは次々と聞き慣れた名前が出てくる。メイちゃんと柿田と俺は同じ学部だが、専攻が異なる為、ゼミも研究室も違う。それでも、メイちゃんと柿田は生物学の中でも生物科学という大まかな分野が一致している為、研究室同士での交流があり、植物学を専攻している俺よりかは親交が深い。女性と関わることに苦手意識のある柿田が、唯一怯えずに会話が出来る相手がメイちゃんらしく、二人はよく一緒にご飯に行っているようだった。ちなみに、双子とは言え高宮姉妹の姉であるルイちゃんには、妹のメイちゃんほど心を開けていないと話していた。
「夏休み前にレポートの提出があったんだって。二人とも寝ずに書いてて、終わったら高くて美味いもんを食いに行く、ってお互いを励ましあってたらしい。それで無事に教授の審査が通って、歓喜の勢いのまま予約した店がホテルのレストランだったっていう。」
人伝に聞いてこれだけ面白いなら、柿田から直接話してほしかった。俺は声を上げて笑ってしまう。料理の写真だけを見て即決した二人が、後日冷静になって店を確認した様子を想像したら、他人事なので大変面白かった。
「でもメイは嬉しいだろうな。柿田とディナーなんて間違いでもなければありえないことだろうし。」
蒼太が嬉しそうにしている理由が思い付かず、返事が出来ない。どうしてメイちゃんにとっては朗報なのだろう。頭を働かせているせいで歩みが遅れた俺を、蒼太が振り返る。悩んでいる俺の顔を見た蒼太は、呆れたように眉を下げた。
「え、気付いてなかったの?」
「ちょっと待って。今考えてるから。」
「いやいや、これ解法ないから。」
完全に立ち止まってしまった俺を、呆れた表情のまま手招きする。
「メイちゃん、柿田のこと好きなんだよ。本人いないところで言うのはダメだけど、多分知らなかったのフジと本人くらいだよ。」
蒼太の手の動きに寄せられて隣に並んだのに、衝撃的な発言を聞いて、再び足が止まった。全く知らなかった。仲が良いとは思っていたけど、恋愛的な好意があったなんて。今一度二人の関係性を思い起こしてみても、友人という圏を出ていないように感じる。
「相談されてたの?」
正直、蒼太よりも俺の方が二人といる時間は長い。蒼太がメイちゃんの気持ちを知っているということは、きっと彼女から何かしらの相談を持ちかけられていたと予想するのが妥当だ。
「最初は二人を見ててそうなのかな、って思ってただけだよ。それで、何かのタイミングでそれとなくきいてみたら当たってたってだけ。」
見ていただけでメイちゃんが柿田に想いを寄せていることに気が付くものなのだろうか。俺は信じられないものを見ているような目つきで蒼太を見つめる。この場合、蒼太の勘が人一倍鋭いのではなく、俺の察しがすこぶる悪いのだと思う。昔からそうなのだ。人の好意に鈍感で、それが第三者同士の間であろうと、ありがたいことに自分に向いている感情であろうと、それに気が付くことが出来ない。人から言われて知り、知った後も納得出来ないままだ。今回のメイちゃんの話を聞いても、過去の行動や言動から、柿田への気持ちを汲み取れずにいた。
「……そっか。」
「フジが恋心に疎いのは今に始まったことじゃないだろ。落ち込むなよ。」
蒼太はわざと明るく振る舞ってくれる。高校からの付き合いで、俺のこの鈍さに慣れているのだろう。そして人より感度が低いことを劣っていると思ってしまうところまでを把握して、励ますような言葉をかけてくれるのだ。
「……好きって、難しいなぁ。」
俺の頭の中には、おしゃれな名前の色に染まった髪が浮かんでいる。人を好きになるって、数値に表れないからわからない。恋という感情に数字の概念を持ち込むなんてお門違いとわかっていながらも、どうにも腑に落ちないでいた。
「モデルは集まってるのにな。」
蒼太が悪戯に笑うので、それを咎める為に少しだけ目つきを鋭くしてやった。俺に対して好意を向けてくれる人がそれなりに多くいたのに、俺自身が未だに解を求められていないので揶揄っているのだ。そんなの相手に失礼だからやめなさい。蒼太は俺に睨まれたことで肩をすくめた。俺は目を逸らして自分の靴の先に視線を落とす。
「わかるとかわからないとかじゃないんだよ。」
俺が俯いたまま顔を上げないので、蒼太は優しい声色でそう言った。俺がこの手の悩みを抱くと、蒼太は決まって小さい子供に話しかけるみたいな口調で、あやすように柔らかいことばかり言うのだ。
「フジは何でも知ってるから、神様が焦って知らないことを付け足したんだよ。こいつは頭が良すぎるし性格も良いし顔だって悪くないから、こうしてやるってさ。だから、難しくて当たり前。きっといつか、答えを教えてくれる人に出会えるよ。出会えなくても、まぁ生きてはいけるしね。」
蒼太の大きな手のひらが俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。記憶にはないが、父親がするみたいに。
「そんなこと言ったら、蒼太はずるくない?賢いし優しいしかっこいいのに、恋も知ってるんでしょ。ずるい。」
手のひらから逃れるように頭を振って、少し高いところにある蒼太の整った顔へ不平不満をぶつけてやった。俺の悪あがきのようなものだけど、蒼太のこの話と、俺の返事はセットでお約束となっている。
「でも俺は神から、フジに恋が何たるかを教えてあげられないっていうもどかしさを与えられてるから。」
都合のいいことばかり言う。俺は言い返す気力も無くなってため息をついた。こんな俺に、誰が恋を教えてくれるって言うの。
「……知らないって苦しい。」
明るく笑う、ヤマトみたいな彼の笑顔を思い出して、胸が痛んだ。どうしてあんなに真っ直ぐな目で、俺のことを好きだなんて言えるのだろう。どうして俺を抱きしめて、あんなに悲しそうな声で縋れるんだろう。羨ましいと思ってしまう。
「……フジ?なんかあったのか?」
いつもなら一通りの会話を終えると普段の話題に戻る俺が黙ったままなので、蒼太は心配そうな顔で俯く俺を覗き込んだ。夕日に照らされた赤い髪がきらきらと眩しい。
「好きって言われたのに、何もわからないまま断ることが……どれだけ酷いことだったのか……今までのことを思い出して、苦しいの。俺、この先ずっと、誰のことも好きにならないのかな。わからないままなのかな。」
幼い頃の俺が膝を抱えて泣いているのを、俯瞰しているような気分だった。蒼太は一瞬息を呑んで、乱暴に息を吐いた後、これまた乱暴に俺の肩を抱き寄せた。真琴くんがしたのとは大違いの、微かな痛みまで覚える粗暴さ。
「大丈夫。根拠はない。証明も出来ないけど、大丈夫だから。頼むからそんな顔すんな。俺も苦しい。」
俺はいつも、蒼太がくれる温もりに父親の愛を重ねてしまう。決して人通りの少なくない通りで、こんなことをさせてしまって申し訳ないので、俺からそっと離れた。蒼太は言葉の通り、苦しそうな顔をしている。
「ごめん。……俺ちょっと焦ってた。もう大丈夫だから。ありがとう。」
「……総教の後輩くんと仲良くなってから、悩み事増えてないか。会うな、なんて言うつもりないけど、無理はするなよ。」
やっぱり蒼太には筒抜けなようだ。俺は小さく頷くと顔を上げた。それから蒼太は自分の実験の話や、メイちゃんと柿田の話を明るい調子で話してくれた。俺は、どうしても胸の奥が晴れないことを気にしないように、なるべく大きな声で笑うようにしていた。
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