5 にわか雨
いつでもいいよ、というのは心を不安にさせるから嫌だと、先生と出会ってから知った。借りた本を返す為に会う約束をしたいのだが、先生は相変わらず忙しい。こちらから送ったメッセージに既読のマークが付くのも遅く、返信が翌日以降になることも多かった。提案した日にちも時間もことごとく都合が悪く、先生から送られてきた「いつでもいいよ」のメッセージを最後に、俺は何も返せずにいた。もしかして避けられているのだろうか。身に覚えがありすぎて気分が落ち込む。先生に会ったら話そうと思っていることがたくさんあって、その一つにアルバイトを始めたことも含まれている。サークルの先輩の紹介で、俺はイタリアンバルのホール担当として働くことになった。まだ初出勤から二週間しか経っていないが、明るい職場と美味しいまかないに、この先も続けていけそうだと、そんな話を先生に聞いてほしいのだ。深いため息は店のバックヤードに消え、誰にも聞かれることはなかった。
先生との連絡が途絶えて数日、八月も終盤にさしかかり、去年までの自分は今頃慌てて課題に手をつけ始めたな、と大学生活初めての夏休みの長さに安堵しながら、それでも憂鬱さを抱えて過ごしていた。
「真琴!これ二番テーブル!空いた席の片付け、三井の手伝って!」
「はい!」
大衆居酒屋よりは敷居が高いが、俺みたいな学生のバイトを雇うくらいにはフランクなイタリアンの店。薄暗い店内をオレンジ色の照明が穏やかに照らしている。半個室のように、天井から吊り下げられた目隠しによってテーブルが区切られ、利用客はカップルや若い女性が多い。俺はキッチンで注文を捌く店長から鉄板を受け取ると、女子会として予約していた二番のテーブルに焼き立ての肉料理を運んだ。社会人らしい若い女の人たちは、メインディッシュの登場に歓声を上げ、すぐに何枚も写真を撮る。小さく頭を下げてその場を離れるとすぐに先輩の元へ駆け寄り、空いた席の片付けを手伝った。三井さんは、同じ学科の二個上の先輩でもある。黒いボブヘアーに紫色のインナーカラーを入れた、目が大きくて手足の長い、モデルみたいな綺麗な女の人だ。
「これ、持って行っちゃっていいですか?」
「ありがとう!重たいから気をつけてね。」
三井さんの細い腕でキッチンまで運ぶと思うと不安になる重さのトレーを両手で持って奥へと戻る。食器はシンクへ、おしぼりのゴミなどはゴミ箱へ。教えてもらった通りに、なるべく手際よく作業を進めていると、テーブルを拭き終えたらしい三井さんも戻ってきた。
「マコちゃん、ほんと仕事覚えるの早いね。まだ二週間でしょ?もう一人前じゃん。」
三井さんは流しで手を洗いながら、俺の仕事ぶりを褒めてくれる。受験のときも教師から言われたが、俺は人より容量がいいらしい。俺はわざとらしく肩をすくめて照れたふりをして見せた。
「いやいや、先輩方の教え方がめちゃめちゃ的確なんですよ。超わかりやすいっすもん。」
「ホントに〜?マコちゃん調子いいことばっか言うからなぁ。」
シンクの前に並んで二人で笑い合う。笑いながら、先生のことを思い出していた。もちろん三井さんや他の先輩から受けた仕事の研修はわかりやすかったし、おかげでここまで褒めてもらえるバイトの一人になることが出来た。けれども、俺に何かを教えてくれる人は、どうしても先生以外に考えられないのだ。俺、まだ立法数の話教えてもらってないよ。まだ、バラの棘の秘密教えてもらってないよ。まだ、先生の隠しごと、教えてほしいって言えてないよ。
「マコちゃん?」
突然黙り込んだ俺に三井さんが怪訝な顔を向ける。俺は名前を呼ばれたことでハッとして、声のする方を振り向いた。カラーコンタクトが入っているらしい青みがかった黒目と目が合う。お互いに驚いた顔をしている。
「あ……すみません。明日のシフトのこと考えてました。」
「急に泣きそうな顔するからびっくりしたよ。」
「えぇ、俺そんな顔してました?明日、三井さんいないから泣いちゃうくらい心配だったのかも。レジ研修入ってるんですよ。」
苦い恋に苛まれていました、なんて言えるわけがないので適当に笑顔を浮かべた。気を抜くとため息を零しそうになるなんて、今までの俺からは想像もつかない。何も考えてない楽観的なところが俺の長所なのに。
「あ〜はいはい。マコちゃんは甘え上手ね。私はその手には乗りません。」
三井さんは俺から半歩離れて冗談で舌を出した。無邪気に笑う姿は先輩らしくなくて可愛げがある。美人の笑顔に絆されるより前に、聞き覚えのある言葉を向けられて胸がじくりと熱くなった。酒の気配も感じさせない白い頬が緩く持ち上がって、小さな歯が溢れて、滑らかな指が俺の髪をいたずらに撫でて。その手のひらに擦り寄ってふざける俺を、褒めてくれた言葉。
「でも、俺のことは放っておくんですよ……。」
一番構ってほしい人は、俺のことをこうして放っておく。やっと覚えてもらった下の名前を呼んでもらうことも、その指先が俺の明るい茶髪を掬うこともない。子供が拗ねたみたいに尖らせた唇からは、ため息の代わりに愚痴が零れ落ちた。
「え?」
俺の不満は先生に伝わるはずもなく、隣にいた三井さんの耳だけに届いていた。長いまつ毛がぱちぱちと上下して、俺の発言を理解しようとしている。俺は自棄になって深々と息をついた。
「……三井さん、失恋したことあります?」
「え、なに?いきなり恋バナ?」
つい先ほどまで笑いながら仕事の話をしていた後輩から、突然恋の話を振られたらこんな反応をするだろう。三井さんは濡れた手を拭こうと紙ナフキンを探していた指を止めて、こちらを凝視している。俺は比較的落ち着いている店内の様子を察して、空いた皿を洗い始めた。何もせずに二人でキッチンにいるのを店長に見つかったら面倒だし、手を動かしてでもいないと今の気持ちを言葉にして止めどなく三井さんに浴びせてしまいそうだった。
「……あぁ、いや……何もないっす。急にすみません。忘れてください。」
人生の先輩にアドバイスを貰おうとか、俺のこの心の靄を晴らすために話を聞いてもらおうとか思っていたが、冷水に指先が冷えて少し冷静になった。じっとこちらを見つめる三井さんの視線から逃れるように、洗剤の泡が崩れていく様を眺める。今一度謝ろうと口を開きかけたところで、客が店員を呼ぶベルの音に遮られた。三井さんと二人揃って大きな声で返事をする。あまりにも息が合っていたので一瞬見つめ合い、ほとんど同時に吹き出した。重たくなりそうだった空気はその瞬間に立ち消えて、いつも通りの雰囲気が戻ってきたように思う。
「それ洗ってていいよ。私注文取ってくる。」
三井さんは制服の黒いシャツの襟元を正し、キッチンを出て行こうとしてふと立ち止まった。こちらを振り返らずに話し始める。
「マコちゃん、失恋したの?」
「……まぁ、はい。」
まさか掘り返されるとは思っていなかったので返事に戸惑ってしまう。違和感のある間。
「それって、私に対して……何かアピールしてるってこと?」
「あ、いや、全くそういうんじゃないです。」
三井さんが手にしていたトレーで俺のケツを思いっきりしばいた。
「痛ぇ!」
「きっとその失恋もマコちゃんが全部悪いよ!知らないけど!」
三井さんは俺を引っ叩いたトレーを流しの横に投げ置くと、綺麗な新品を持って足早にキッチンを出て行ってしまった。俺は泡だらけの手なので叩かれた臀部を摩ることも出来ず、じんじんと広がる痛みに涙目で堪えることしか出来なかった。
『今週も会えなさそうですか?』
『やっぱりずっと借りっぱなしなのでそろそろお返ししたいです』
『休憩中に一瞬、とかでもいいです』
返せずにいた先生へのメッセージは、意を決してみたものの、何の変哲もないありきたりな文章になってしまった。実家の自室で、濡れた髪のままベッドへ倒れ込む。妹が隣室で友人と電話をしているらしく、時折弾けたような笑い声がこちらまで響いていた。別に今更気にもしないけれど、俺もああやって先生と爆笑を交えて通話なんて出来たらな、とか考えてしまってだめだ。ゲームに登場するモンスターを象ったぬいぐるみが数体、枕元からこちらを見ている。小学生の頃に買ってもらったものだ。定期的に親が洗っているので清潔ではあるがずいぶんとくたびれていた。大学進学を機に買い替えた勉強机は、今寝転んでいるパイプベッドとセットで買ったシンプルなデザインのもので、机上には父親のお下がりのデスクトップパソコンを置いている。棚に並んだ漫画や写真立て、タンスにしまいそびれたお気に入りの衣類、壁にかけた帽子やバッグ。見慣れた部屋に、先生の家の客間を重ねた。フローリングの部屋には布団と一人がけのソファしかなかった。リビングは俺の家よりも殺風景で、風呂場も脱衣所も整頓されていた。綺麗好きでこまめに片付けているのではなく、そもそも物が少ない印象だった。先生の部屋は知らない。先生のベッドの枕元には、ぬいぐるみなんていないだろう。でもテディベアとかは似合いそう。くだらない想像は、妹の笑い声にかき消された。
『会えないのは』
寂しいです、と続けて送信してしまいそうだった。思い直して全文を消す。ケータイを放り投げて、枕に顔を埋めた。明日はサークルの後にバイト。明後日は予定無し。その翌日は、と自分のスケジュールを頭の中で確認しても、特別な用事は何もない。勢いだけの告白をした翌朝、先生は何でもないような笑顔を向けてくれた。それなのにどうして何でもないように会ってはくれないのだろう。わかっている。自分が悪いことくらい。でも、だって、誰に反論するでもなく頭の中には言い訳の言葉ばかりが巡る。
『いろいろと立て込んでるからさ』
『ごめんね』
足元でケータイが震え慌てて画面を確認すれば、先生からの悲しい返信が並んでいた。せめていつもの可愛いスタンプだとかチューリップの絵文字を添えてくれたらまだ笑えるのに。
『今度サークルで登校したときに俺のロッカーに入れておいて』
『場所は前に使った空き教室のすぐ横。名前のシール貼ってあるからわかると思う』
『鍵の番号は1184』
思わずベッドから上体を起こした。中途半端な体勢で先生からの返事を何度も読み返す。もう会ってくれないてこと?細く息が漏れた。
『直接受け取れなくてごめん』
白い吹き出しに囲まれた文字からは何の温度も感じられない。体から力が抜けて、起こしたばかりの背中をまたシーツに沈めた。こんなふうにはならないと思っていた。俺の告白なんて忘れたふりをしてくれると、先生の優しさを利用しようとしていた。
『わかりました』
『明後日、学校行きます』
登校する予定はなかったけれど、偶然会えたとき、バイトもサークルも気にしなくていいように。未だにそんなことを考えている。
『ご飯食べて、ちゃんと寝てくださいね』
好きな食べ物を何も思い付かない先生の一番の好物を見つけてみたい。常に寝不足な先生のうたた寝にそっと寄り添いたい。だったら、そんな望みがあるなら、あの日告白なんかしなきゃよかった。
『ありがとう』
もう何を返したらいいのかわからず、既読だけつけて目を閉じた。言わなきゃよかった。違う。最後に抱き止めなきゃよかった。白い頸に頬を寄せるなんて、犬の真似事じゃ済まされないのに、先生なら許してくれると思って踏み止まれなかった。
「軽率、だったなぁ……。」
あの人を好きになってから、俺はいつもの俺じゃないみたいだ。過ぎたことを後悔したり引きずってため息ばかりついたり、こんなの俺じゃない。枕に強く背頭を押し付け、肺の中の空気を全部吐き切ると額にぬいぐるみが倒れてきた。髪も濡れたまま、部屋の電気も点いたまま、ぬいぐるみも倒れたまま、俺はそのまま瞼を開けることなく眠りに落ちていった。
久しぶりに訪れた理学部生物学科棟。夏休みに入る前は週に一度は顔を出し、忙しそうにしている先生に構ってもらっていた。あの頃から邪魔だったのかな。先生が優しいだけで、本当はそばにいるべきじゃなかったのかも。余計な想像に心を蝕まれる。よく知った教室へ辿り着くまでの間に、白衣を着た理系の学生から訝しげな視線を浴びせられた。見知らぬ顔の派手な髪色をした男がうろついていたらそんな目で見られても仕方ない。何だか、俺と先生の住む世界が違うと、その視線から咎められているみたいだった。先生のロッカーはすぐに見つかった。上下二段に重ねられた下の段、所属と学籍番号とフルネームがシールで貼られている。俺はしゃがみ込んで全体的に角ばった印象の漢字四文字を指でなぞった。
「……藤臣、さん。」
ロッカーの扉にはダイヤル式の鍵がかかっている。こちらの学部棟にあるものと同じ作りなので開け方はわかるが、先生から教えてもらった番号を思い出せない。ポケットからケータイを取り出すために立ち上がろうとした。
「1184、だよ。」
ふっと視界が陰り、しゃがんだままの体勢で顔だけ上げて背後を見ると、背の高い男が俺を見下ろしていた。赤い髪と綺麗な顔立ち。
「辻さん……。」
「はじめまして、ではないよね。」
敵意は抱いていないが身構えてしまう。先生の話によく登場するので顔も名前も大まかな性格も知っているものの、こうして実際に会話をするのは初めてだ。俺は辻さんを見上げたまま、向こうが何を切り出すのか待っていた。
「とりあえず、ロッカー開けたら?フジに何か返すんでしょ。」
辻さんは俺の目の前にある先生のロッカーを指さした。俺は本来の目的を思い出し、今さっき辻さんから教えてもらった四桁の数字をダイヤルを回して合わせる。つまみを回すと扉が開いた。中には数冊の本と、パソコンの充電器と、何故かネクタイが入っている。俺はネクタイの横に借りていた本を立てて置いた。扉を閉めて、ダイヤルを適当に回しておく。目的は達成出来た。一息ついて立ち上がる。
「河野真琴、総教現コの一年です。辻さんですよね。」
「そうそう。フジから話聞いてるよね。」
先生の名前が出て眉を顰めてしまう。辻さんはそんな表情に気付いて小さく笑った。
「この後時間ある?ちょっと話そうよ。」
綺麗な顔の辻さんからそんなことを言われたい女の子はたくさんいるだろうな、なんてどうでもいいことを考えながら頷いた。辻さんの後を追って一階へ下りると、談話室のようなスペースへ案内された。
「休憩スペースだから気楽にしてて。なんか飲む?」
入ってすぐのところに自動販売機が置かれていて、辻さんはそこで俺にカフェオレを買ってくれた。お礼を言ってボトルを受け取り、空いている席に腰を下ろす。奥に二人の女子生徒がいるだけで、六席近くあるテーブルはほとんど空いていた。
「改めて自己紹介する必要もないと思うけど一応ね。物理学科の辻蒼太。フジとは高校の頃から同級生で、今日は真琴くんからフジの話を聞きたいな、と思って呼び止めちゃった。今日来るっていうのはフジから聞いてました。待ち伏せしてごめんね。」
背の高さに見合った低めの声。右の眉尻辺りで分けられた前髪はパーマをかけているのか耳の方へ波打ち、毛先が目元に薄い影を作っている。時折長くて綺麗な指が毛束を払う仕草が色っぽい。つくづく男前だな、と思う。
「俺から?」
辻さんと目が合った。優しく見つめ返され一瞬焦る。もしかして、怒られるのではないか。先生が、俺からの告白を辻さんに相談していて、それはきっと迷惑だとか不快だとか、相談と言うより不満を伝えるような内容で、辻さんが代わりに俺を叱責しに来た。急に呼び止められた理由としては十分だ。
「……先生、俺のこと何か言ってましたか?」
「先生?」
「あ、藤臣さん……のことです。」
彼のことを先生と呼んでいるのは俺だけなので、辻さんは誰を指すあだ名なのか理解が出来ずに首を傾げた。俺は慌てて訂正したが、本人には呼びかけたこともない下の名前を口走ってしまう。慣れない舌の動きと馴染みのない音に、一人で勝手に恥ずかしくなった。
「よく、面白い子がいるって嬉しそうに真琴くんのこと話してたよ。俺は会ったことも見かけたこともないからどんな後輩かわからなかったけど、フジがヤマトみたいだって言うから何となく犬っぽい子を想像してた。でも真琴くん、どっちかって言うと猫顔じゃない?」
確かに俺はつり目だから、顔の系統で言うならば犬より猫の方が似ているだろう。でも先生がヤマトみたい、と言うのは俺が犬のように懐いているからだ。何と説明したらいいのかわからず、曖昧に笑うことしか出来ない。
「……だけど急に真琴くんの話しなくなっちゃった。何かあった?ってきくのもね、ちょっと勇気いるじゃん。フジってさ、色んな人から人間的にも恋愛的にも好かれるのに、あいつからは一定以上近寄らないんだよ。そんなフジが真琴くんの話は嬉しそうにするから気になってた。」
頬杖をついてこちらを見る辻さんの眼差しは優しい。なんだか先生の親みたいな穏やかさだ。俺は先生の優しさがみんなのものでありながら、俺が少しだけ、本当に少しだけでも特別だったのだと知って、今すぐにでも先生に会いたくなった。
「……辻さんは先生のこと、どう思ってますか。」
辻さんは先生のこと、好きですか。俺の質問の中身は全てがそれだけだった。きっと先生にとって俺よりもずっと特別な人が辻さんだと思うから。
「どう、って?」
俺を試すみたいに、質問を質問で返された。僅かに細められた瞳は悪戯にきらめいている。俺は答えに迷って黙り込んでしまう。不安な沈黙が数秒続いて、辻さんが息を漏らすような笑い声を上げた。
「意地悪な先輩だなって思ったでしょ。ごめんね。真琴くんがあまりにも怖い顔で見てるんだもん、ちょっとからかっちゃった。」
どんな目つきで目の前の先輩を見ていたのだろう。敵意の自覚は無いが、辻さんと先生の関係を羨む気持ちには気付いている。俺はばつが悪くなって目を逸らした。
「家族みたいなもんだよ、フジは。もちろん好きだけど、今更恋愛感情抱くような仲じゃないし。放っておけないとか、面倒見ちゃうとか、そんな感じ。……安心していいよ。」
笑い声を含んだ最後の言葉に思わず顔を上げてしまう。綺麗な二重と目が合った。
「先生、何か言ってましたか?俺のこと、何か、その……相談とかされましたか?」
「やっぱりそうなんだ。」
あ、と思ったときにはもう遅かった。辻さんにかまをかけられた。俺は言い逃れも出来ずに、しばらく黙った後に小さく頷くことしか出来なかった。
「フジからは何も聞いてないよ。あいつ俺に何も言ってくれないし。」
罠にかかった俺に向けた笑顔の奥に、寂しさが見え隠れしている。俺は、もしかしたら辻さんも先生のことを想っているのではないかと、今の今まで心配していた。俺の抱く好きと、辻さんの言う好きは全く違う。
「何も言ってないけど、あいつ、真琴くんのことで悩んでるよ。」
「……悪いことしたなって、後悔してます。こんな風に会えなくなるなら、先生の負担になっちゃうなら言わなきゃ良かった。俺、人を好きになるのなんて簡単なことなんだと思ってたから、先生も優しいから、告白したって大丈夫だろうって、何も考えてなかった。先生の気持ちなんて想像もしてませんでした。」
辻さんに言っても仕方のないことを止められない。このまま話し続けたら泣いてしまうかもしれない。勝手にライバルだと思って勝手に嫉妬していた相手に弱音を聞かせるなんて、なんて情けないのだろう。辻さんは相変わらず優しい眼差しで俺の言葉を受け止めてくれる。
「好きなんです。俺、先生のこと好きなんです。だから会いたいです。会って、それで……好きになってごめんなさいって言いたいんです。」
先生と会えなくなってから何度も思ったこと。何度も後悔したこと。伝えなければよかった。抱き止めなければよかった。それよりも、はじめから好きにならなきゃよかった。ずっと仲の良い、少しだけ特別な後輩でいるべきだった。好きになったら、それを伝えずにはいられないはずだから。
「……フジは、そんなこと聞きたくないんじゃないかな。」
辻さんはコーヒーのペットボトルを手の中でくるくると回す。
「何も知らない俺が言えることじゃないけど、フジは謝ってほしいんじゃない。知らないから怯えてるだけだと思うよ。知らないことは調べて解決してきたフジが、ずっと答えを見つけられないでいる、好きって気持ちを、真琴くんは自分のものみたいに簡単に扱うから怖いんだよ。」
俺は昔から、好きなものを好きと言うのに躊躇しなかった。ほしいって言うのは簡単だ。手に入るかわからないものなら、好きと言うだけタダじゃないかと、そういう信条で、臆さずに口にしてきた。態度で示してきた。それを素直と褒めてもらうのも、軽薄だと叱られるのも慣れていた。
「フジはね、誰かの特別になるのが苦手なんだ。誰にでも優しいのは、一人にだけ優しく出来ないからなんだよ。……いい迷惑だろ?」
辻さんは俺に同情するみたいに笑った。きっと今まで先生のことを好きになった人はみんな、先生の優しさを独り占めしたいと思ったのだろう。俺のように。俺も、みんなのように。辻さんはそうじゃないから、ずっと先生の隣にいられた。迷惑だとは言いたくないけど、自分勝手にもずるいと思ってしまう。もう、その優しさに触れてしまったのに、掴み取ろうとしたら消えてしまうなんて、虹を目指して歩いているみたいだ。
「……好きにならなきゃよかった、って思うよな。俺だって、フジを好きになったらきっとそう思うよ。」
「辻さんは、一度も一瞬も、先生のこと好きになったこと無いんですか?」
高校生の頃からずっと一緒にいて、いくら同性とはいえ、心惹かれずにいられるのだろうか。
「どうだろうね。好きだったのかもしれないし、今も真琴くんの言う好きって気持ちがあるのかもしれない。でも、今以上の関係になろうとは思わないかな。……フジに、ごめんねって言わせたくないだけかもね。」
「俺、自分のことしか考えてなかったです。先生がどんなふうに思うかなんてこれっぽっちも想像してなかった。」
「そう言ったらいいよ。好きになったことを謝るんじゃなくて、フジのことを見てあげて。面倒でややこしくて難しいけど、それでもまだ好きでいられるなら。苦しくてもつらくても、フジの特別に憧れるなら。」
辻さんは、小さな声でごめんと謝った。
「俺が出来ないことを、真琴くんに丸投げしてる。ごめん。」
そこで俺は初めて辻さんの苦しそうな顔を見た。辻さんは本当に本当に先生のことを大切に思っている。それがひしひしと伝わってきて、俺まで苦しくなってしまう。もう離れられないから、もう身動きが取れない。
「まだ好きです。多分この先もずっと好きだと思います。」
「真琴くんがフジの特別だったらいいなって勝手に思ってる。ほんと、勝手にね。でも、真琴くんは今までフジのことを好きになった誰よりも、フジをちゃんと見てくれて、考えてくれそう。今日はこんなこと言うつもりなかったんだけどね。どんな感じの子なのかなって気になってただけなのに、あまりにも真っ直ぐな目で話すから、思ってたこと全部言っちゃった。フジには内緒ね。」
安堵のため息をこぼした辻さんはコーヒーを一口飲んで、腕時計に目をやった。俺もケータイのロック画面で時間を確認する。この後予定は無いが、思っていたより長話になったことに驚いた。辻さんからの提案で連絡先を交換してもらった。
「どうする?この後予定なければフジに会っていく?」
テーマパークのキャラクターとのツーショットをアイコンにしている辻さんのアカウントを登録していたら、思ってもいなかったことをきかれて、取り乱してしまう。わかりやすく目を白黒させていただろう俺を見て、辻さんは大きな声で笑った。
「……多分会ってくれないと思いますよ。何回も断られてるんで……。避けられてるんだと思います。」
「大丈夫大丈夫。俺と会うってことにしてこっそり着いてきなよ。」
何が大丈夫なんだ。俺は必死で首を横に振った。そんな騙すみたいなことは出来ない。以前は先生の都合も無視して放課後に会う約束をこじつけていた奴とは思えないような及び腰で、先生との会話に不安しかなかった。
「いやいや、心の準備とか、」
「もう呼んじゃってるから。」
爽やかな笑顔は初めて居酒屋で見かけたものと同じなのに、明らかに俺と先生を弄ぼうという意思が滲み出ていて寒気がした。優しいだけじゃないのが、辻さんの魅力なのかもしれない。今はそんな魅力もただの恐怖でしかないが。
「辻さん、俺のこと褒めてくれたけど、もしかしてちょっと恨んでませんか?」
「何だろう。娘に彼氏が出来た父親の気持ち?」
それはだいぶ敵意が強いんじゃないか。完全な味方ではないということに、失礼ながらも盛大なため息をついてしまう。辻さんはそんな俺の態度を見てにんまりと笑った。きっと先生もこうやって揶揄われているのだろう。
「邪魔するつもりはないからね!」
軽快に笑いながら肩を叩かれる。
「楽しもうとしてますよね!恋愛ドラマ見てる感じで!」
辻さんの手を払って嬉しそうにしている小綺麗な顔に唾を飛ばす勢いで吠えて見せた。辻さんはよりいっそう楽しげに笑う。
「あぁ、なるほどね。やっぱ真琴くんは犬みたいだわ。ヤマトもフジには懐いてるのに、俺が撫でるとめちゃめちゃ吠えるんだよ。マコト、おすわりだぞ!」
「茶化さないでください!ほんとに噛みますよ!」
人が少ないのをいいことに、背の高い男が二人騒いでいる。奥の席に座る女の子たちは気にしていないようで、こちらには目もくれなかった。
「蒼太、おまたせ……って、え、」
辻さんとふざけていた俺の声だけがぴたりと止んで、呪文を唱えられらみたいに動けなくなった。ここしばらく聞くことのなかった丸みを帯びた声。辻さんだけが笑っている。
「おつかれ。実験、上手くいった?」
「いや、なんで……え、真琴くん……」
ずっと呼ばれなかった名前。呼ばれたかった名前。返事をしたいのに緊張で喉が震えた。
「……先生、」
油の足りないブリキ人形みたいに、ぎこちなく先生と向かい合った。休憩スペースの入り口で硬直したままの先生は、最後に見たときよりも痩せたように見える。オーバーサイズのTシャツのせいだと思いたい。目の下には目立つ隈はない。それだけで少しホッとした。黒縁の眼鏡の奥で、瞬きをするだけの瞳は相変わらず黒味が強く、夜の空を思わせる。白過ぎる肌は八月の終わりになってもほとんど日焼けしていないし、重たい黒髪もそのままだった。
「俺と話すの嫌だったら帰ります。」
「……いや、じゃないよ。」
グレーのスニーカーが一歩こちらへ近付いた。困ったような顔のままなのが、不安で俺からも歩み寄ってしまいたくなった。
「俺、先行ってるわ。」
辻さんはひらひらと手を振って俺に笑いかけると、先生の横を通り過ぎようとした。
「ま、って!」
先生の真っ白な手が辻さんの腕を掴んで引き止めた。辻さんは一瞬間を空けてから先生を振り返る。
「大丈夫だよ。」
辻さんは縋るように伸ばされた手を、優しく包んでからそっと離した。先生の手は力なく体側へと落ちる。まだ何か言いたいような顔をしている先生に優しく微笑みかけてから、その奥で泣きそうな顔をしているだろう俺を見た。その表情は先生へ向けた優しげなものではなく、さっきまで騒いでいたときのような悪戯っ子の笑い方をしている。
「あ、マコト。俺の誕生日12月10日なんだけど、フジに友愛数って何ですか?ってきいてみな。じゃ、今度はゆっくり飯でも行こうな!」
何のことかさっぱりわからなかったうえに、きき返す前にスタイルの良い後ろ姿は見えなくなってしまった。休憩スペースに残された俺たちの間には嫌な沈黙だけが残された。
「……駅まで歩こうか。歩きながらでも大丈夫?」
「あっ、はい。」
反射で返事をした。少し声が裏返ったような気がして恥ずかしい。俺は先生の背中を追って席を立った。隣に並ぶなんて久しぶりで、嬉しいはずなのに上手く笑えない。外はまだ明るく、茹だるような暑さだ。ぬるい風が吹いて、先生のTシャツの袖が揺れた。腕に小さな黒子がある。薄い胸板に白い生地が張り付いて、風が止むと糸が切れたように離れる様子が、カーテンみたいに見えた。細い顎のラインと小さな唇は同じ男のものとは思えないくらい繊細な造りをしている。首筋にも黒子を見つけた。
「前見て歩きなよ……。危ないよ。」
先生と目が合って肩が跳ねた。まじまじと見ていたことを指摘されて顔が熱くなる。いつもみたいに冗談を言おうと試みて、結局何も言えなかった。
「予定合わせようとしてくれてたのに、断ってばっかでごめんね。」
先生は目を逸らして一言だけそう言って、また黙ってしまった。目を伏せると二重の線が見えなくなるのだと、どうでもいいことに気が付いた。青い空にはいつの間にか雲が広がり、雨が降りそうな湿った空気が暑さと混ざって余計に汗を誘う。派手な柄がプリントされたTシャツの内側はすっかり汗で蒸れていた。こめかみを伝う汗の粒も、喧しく鳴く蝉の声も、曇天みたいに重たい沈黙も、なんだか全部鬱陶しく思えてきた。もういっそ大雨でも降って、汗だか雨だかわからないくらいになってほしい。雨音で蝉の声をかき消して、沈黙も洗い流してほしい。
「ごめんなさい。自分勝手で、ごめんなさい。」
突風がアスファルトの匂いを運んでくる。鼻先にぽたりと雨粒が落ちた。遅れて、ざあっと音がして、大粒の雨が降る。先生の眼鏡のレンズにヒビが入ったように水滴が走った。
「……真琴くんのそんな顔、初めて見るよ……。」
大雨の中、二人で立ち尽くす。まばたきをしたらまつ毛から雨が落ちて、自分が泣いているのではないかと錯覚した。先生の重たい前髪が濡れて額に張り付いている。二人の間の一歩分の距離を、隙間と呼びたくなるくらいに寂しい。
「ごめんなさい。俺、先生のそばにいると先生のこと困らせちゃうってわかってるのに、会えないのも嫌なんです。自分でもどうしたらいいのかわからない。こんな風に人を好きになったことなくて、好きって気持ちで苦しくなったことなくて、先生だけなんです。先生だけ、こんなに頭がいっぱいになっちゃうのは。」
正直な気持ちを伝えられたと思う。本当に好きだということ。そばにいたいということ。こんなに悩んだ恋は先生が初めてだということ。そして、そんな俺の気持ちで先生を困らせているとわかっていること。
「どうして俺なの……。俺、恋がどんなものなのか何もわかってないのに……。真琴くんのこと困らせてるのは俺の方だよ。真琴くんがそんなに好きになる相手が俺じゃなければもっと幸せだったでしょ。」
先生にしては珍しい大きな声で反論されて緩く開いていた手のひらを強く握った。怒りに似た熱が、雨の冷たさを鈍く感じさせた。他の誰かだったら、なんて考えたくもない。俺が好きになったのは今、俺を諭そうと無駄なことをする先生なのだ。恋が何かわからなくても、誰にでも分け隔てなく優しくても、俺にはまだ見せてくれない秘密があっても、俺が好きなのは紛れもなく、目の前の平井藤臣という男なのだ。
「先生のこと困らせたくはないけど、でも俺が好きなのは先生なんです。藤臣さんなんです。他の誰かなら良かったなんて思ったことない。こんなに悩むなら、好きにならなきゃ良かったと思ったことはあるけど、でもそうじゃないってわかったから。先生と出会えて良かった、好きになって良かったって思うの。」
一世一代の告白みたいだ。今まで付き合ったどんな人にも言ったことのない、丸裸の本音を雨の音に負けないくらいの声で伝えた。
「今もまだ毎日だって会いたいけど、先生が嫌なら我慢する。連絡だってしない。でも、絶対ずっと好きだから、それだけはどうしようもないんです。……だから、自分勝手でごめんなさい。」
先生は何も言わないが、返事を促すように雨足が弱まってきた。少しずつ明るくなる空は、言いたいことを全て言い切った俺の心模様みたいだ。先生の黒い髪の先から水が滴って、俺はそれを拭いたくなった。すぐ触れられそうな髪や頬が無防備で愛おしい。絶対に触れられない神聖性と相まって、俺の心をどうしようもなく掻き乱す。
「……真琴くんと会わないようにしてたのは俺の方なのに、声が聞きたくなったの……。真琴くんの笑顔を思い出してたの……。……好きとか恋とかはわからないけど、今までみたいに仲良く出来たら嬉しい。……なんてずるいかな。」
それって俺のこと好きなんじゃないですか、という都合のいい解釈が頭を過ったのは俺のせいじゃない。俺が強く迫って「それが恋なんですよ」と言ってしまえば丸め込める可能性は大いにあった。でもそんなことしない。先生のコンピューターみたいな頭が、自分で答えを導き出すところが見たい。元々、俺は先生のそういうところに惹かれたのだから。俺への恋心を模範解答にするなんておこがましいのは重々承知の上で、先生が解を見つけたなら、俺が大きな花丸をあげるんだ。
「俺は待ての出来る賢いわんこですからね。」
それまではずっと犬でいましょう。すっかり雨は止み、青空が戻ってきた。先生は安心した様子で微笑んだ。久しぶりに見た笑顔に恥ずかしいほど胸が高鳴った。ラブソングの歌詞でももう使われないであろう、甘い言葉ばかりが浮かんでは幸せな気持ちになってしまう。
「ずいぶん濡れちゃったね。俺の家の方が近いから、着替え貸そうか?時間あったら寄っていきなよ。今日はお寿司にする?」
「……俺は賢い犬……俺はかしこいいぬ……。」
「え?なに?」
無邪気な提案が、俺への「待て」に聞こえて仕方ないので、俺は犬のように頭を振って濡れた髪から水滴を飛ばした。やっぱり先生は純粋で可愛くて、無防備で心配になる。早く俺のこと好きって気付いて。早く俺だけを特別にして。
「ちょっと!冷たいよ!」
「犬なのでしょうがないでーす!」
先生の特別はもう少しおあずけ。
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