6 熱とか夢とか
頭が重たい。胸のあたりが苦しくて体が熱い。久しぶりに引いた風邪は、久しぶりなせいか過去の記憶よりもずいぶん堪えた。
「病院行きます?多分市販の風邪薬飲んで寝てたら治るとは思うんですけど。」
枕元にしゃがみ込んで俺の顔を覗いているのは、俺とは違って顔色の良い真琴くんだ。昨日、夕立の中で仲直りしたところまでは良かった。その後、濡れた服のまま長い時間電車に揺られるのは憚られて俺の家に寄ったのだ。風呂と服を貸して、夕飯を一緒に食べたのも楽しかった。問題はそれから少しして。二人で今まで出来なかった分を埋めるように会話をしていたときに、急に悪寒に襲われた。真琴くんのバイト先の話が思うように頭に入って来ない。テンポのずれた返事に首を傾げた真琴くんと目を合わせた途端、驚いたように肩を掴まれて声を上げたが、喉から出たのは吐息に近い掠れた音だった。
「先生!顔真っ赤ですよ!熱出てるよ、絶対!」
「ねつ……?」
真琴くんの声が頭の中で反響するみたいに重なって聞こえる。不摂生な生活をしている自覚はあるが、ここ最近は体調を崩すようなことはなかったので、自分の症状にピンと来ない。
「あぁごめんなさい……。あんな雨の中で話なんかしたから……。俺のせいだ……。」
真琴くんは一人で喚きながらがっくりと肩を落とした。真琴くんのせいではないことを伝えたいのに、息をするだけで喉が痛い。熱があると言われてから体と頭がそれを理解してしまったのか、急に悪化しているように思う。
「おでこ、触りますよ。」
真琴くんの大きな手のひらが視界を覆うようにして額に触れた。ひんやりとして心地良いのは、それだけ俺の体温が高いということだろう。
「あつい?」
「熱いです。結構高いんじゃないですか。体温計あります?あと、薬とか冷却シートとか、……なさそうだなぁ。」
俺が首を振ると、真琴くんはわかりやすくため息をついた。そしてため息をついてしまったことに焦って咳払いをした。体が熱くて頭がぼんやりしていても最後の呟きは聞こえてるよ。当たってるから元気な状態でも言い返せそうにないけれど。
「体温計は、そこの棚にあるかも……。ふるいやつだから使えるかわかんないけど……。」
祖父母が使っていたものがあった気がする。常備薬の類は服用した記憶がないので、おそらくこの家には置いていない。真琴くんは俺に断りを入れてから、リビングの棚を片っ端から開けて中を探してくれた。やっと見つけた体温計で計ってみたら、子供の頃にしか見たことのない数字が表示されていた。
「……38.3、三桁として見たら素数だね。」
「頭使うのやめてもらっていいですか。熱上がるかもしれないんで。」
何の気無しに思ったことを言うと、今度はため息を隠しもしない真琴くんにおでこをぺちりと叩かれた。いつもは子犬のような真琴くんが大人っぽく見えて笑ってしまった。呆れている真琴くんは、年下なのにお兄さんみたいだ。
「ベッドまで行けます?しんどかったらソファで横になっててください。上から掛け布団持って来るので。」
「大丈夫。鍵かけたら部屋まで行くよ。」
「え?」
真琴くんにうつしたくないので、長居してもらうわけにはいかない。玄関まで見送ったらそのまま二階の自室へ向かおうと思っていた。せっかく仲直りして、まだ聞きたい話もあったが仕方がない。
「……先生、俺のこと帰らせようとしました?」
真琴くんの綺麗な顔が近付いてきて、眉間に皺を寄せた顔で睨まれた。顔が整っていると迫力があって少し怖い。
「だって、うつっちゃうかもしれないでしょ。おれ、やだよ。」
「先生が薬も飲まずに一人で寝て、明日熱があっても研究室に行く方が嫌です。」
体を起こしておくのもしんどくて、ソファの背もたれに上体を預けきった俺を見下ろす真琴くんの目は真剣で、俺は黙ってしまう。何か言おうとは思っているのだが、脳に熱が溜まって思考が遮られる。大人しく頷いておいた。真琴くんは満足げに微笑んで、その顔はいつもの彼らしくて安心した。真琴くんの手を借りて立ち上がると目眩がして、思わず腕に縋ってしまう。いくつも年下の後輩に迷惑をかけていると自覚して申し訳なくなった。痩せてはいるが小柄ではない俺を支えながら階段を登るのは重労働だろうに、俺をベッドまで運んでくれた真琴くんは息一つ切れてはいなかった。ずっとサッカー部だっただけあって体力には自信があると語っていたことをぼんやりと思い出した。
「スーパーの中にドラッグストア入ってましたよね。薬とか買って来るので寝ててください。ケータイとか見ちゃダメですよ。」
「はぁい。」
頭や胸は燃えるように熱いのに、体の外側が異様に寒く感じて、鳥肌が立っている。真琴くんの言葉に返事をして口元まで布団を引き上げた。真夏の薄い肌掛けしかなかったので、真琴くんに言って客間の押し入れから冬用の布団を出してもらった。客人に手を焼かせてばかりだ。行ってきます、と背を向けて部屋を出る背中が悲しい。病弱な柿田がよく、一人暮らしの唯一のデメリットは風邪を引いたときだと嘆いていたのを思い出す。看病をしてくれる人がいないので体が辛いのはもちろんのこと、誰もいない部屋に不調の体を横たえていると、世界で一人きりになってしまったようなもの悲しさに襲われるのだそうだ。あまり共感出来なかったが、こうして二人から一人になるとよくわかる。思わず行かないで、そばにいて、と見覚えのあるスウェットの背中を引き止めてしまいそうになった。
「……なんて顔するんですか。」
いつの間にかこちらを振り返っていた真琴くんの苦々しい顔と目が合った。何か言われたようだがよく聞こえなった。大股で戻ってくると、思い詰めたような顔のまま俺を見下ろす。
「急いで帰って来ますから。」
おずおず、といった様子で頭を撫でられた。あまりにもそっと触れるのでくすぐったいくらいだ。でも髪を梳かれただけなのに、驚くほど安心した。ゆっくりと瞼を閉じると、不思議と笑みが溢れてしまう。
「……せんせ、かわいい。」
そんなことないと言い返すことも出来ず、俺はそのまま眠りに落ちていった。真琴くんから言われる可愛いが嬉しくて反論の言葉が思い付かなかったことを誤魔化すみたいに。
時計を見ていなかったので時間はわからないが、本当に急いで買って帰って来てくれたらしい真琴くんは、うっすらと汗をかいていた。俺を優しく揺り起して買ってきた風邪薬を飲ませ、額に冷却シートを貼ってくれた。泊まっていくと言ってきかない真琴くんと押し問答をする体力は残っていなかったので、横になったまま了承するしかなかった。薬が効いて来たのか睡魔に襲われ、閉じかかっていた瞼を完全に落とせば、次に気付いたときにはすっかり朝になってた。昨晩と比べればずいぶんと楽になったが、全快とは程遠い体調は何も言わなくても真琴くんには伝わっているようだった。ゼミのメンバーに欠席の連絡を入れ、またベッドに潜る。真琴くんはパウチのおかゆまで買って来てくれたようで、それを温めて運んできたときには子供のように歓声をあげてしまった。
「熱いので気を付けてくださいね。無理して全部食べなくてもいいですから。終わったら薬飲んでください。」
「何から何までありがとう。」
「いいえ。妹がよく風邪引いて看病させられてたので慣れてるんですよ。未だに季節の変わり目には体調崩してます。」
真琴くんには高校生の妹がいる。写真を見せてもらったがよく似ている活発そうな女の子だ。俺の前では後輩らしい姿を見せているが、家ではちゃんとお兄ちゃんをしているのだと思うと妹さんが羨ましく思えてしまった。蒼太が世話を焼いてくれているが、彼は兄というより父親のようだ。
「真琴くん、今日の予定は?大丈夫?俺、ちゃんと薬飲んで大人しく寝てるから帰ってもいいんだよ。」
おかゆを半分食べて薬も飲んだ。どうせ今日はこのまま寝て過ごすのだろうから、帰宅してもらっても問題ない。昨夜から俺につきっきりで疲れてもいるだろう。
「……体調悪いとき一人でいるの寂しくないですか?」
真琴くんが困ったように微笑んだ。俺に頷いてほしいみたいに言うから肯定した。なんて言うのは言い訳で、本心だった。真琴くんの都合を優先させれば帰ってもらうのが最適解なのだろうけど、帰ってほしくない自分が正解で、その答えへ誘導してくれた真琴くんが後輩だから恥ずかしくて、何も言えずに頷くことしか出来なかった。俺の返事に満足したらしい真琴くんは俺が眠りに落ちるまで、ベッドのそばにいてくれた。時折俺の視線に気が付いて、黙って頭を撫でたり手を握ったりしてくれるのがあまりにも幸せで、その度に思わず笑ってしまうのを許してほしい。遠い記憶の中にも、こんなに幸せな記憶はない。風邪を引いたときはなるべく黙っていた。そのせいですぐに祖母にバレていたのが懐かしいが、迷惑をかけているという罪悪感ばかりが色濃く残っていて、あまりいい思い出ではなかった。祖母は全く迷惑だなんて感じていないのもわかっていたけど、やはりどこか居心地が悪かったのだ。そんなことを考えながら眠ったせいか、風邪のせいか、嫌な夢を見てしまった。慌てて起きると、すぐ横に心配そうな真琴くんがいた。綺麗なつり目が俺の顔をじっと見ている。
「大丈夫ですか?うなされてましたよ。熱、また上がっちゃった?」
「……ううん、体はだいぶ楽になったよ。大丈夫、なんか……怖い夢見ちゃっただけだから……。」
真琴くんが背中をさすってくれる。その手のひらの温かさが全く知らないもので、急に怖くなった。涙が出そうで俯く。何を思い出しても気にもならないところまで歩いてきたつもりでいた。悲しみなんて過去に置いてきたと思っていた。幼い頃の自分があれだけ泣いてくれたのだから、もう大丈夫なはずなのに。
「先生……?」
風邪を引いたせいだ。久しぶりに体調なんて崩したから不安になっているだけ。明日になればいつも通りになるんだから、真琴くんに縋ったりしちゃだめ。そう思っても、真琴くんに呼ばれて顔を上げてしまう。俺の顔を見た真琴くんは驚いた表情を浮かべてから、すぐに唇を引き結んで俺の頭を抱き寄せた。貸した服からは嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂いがするのに、顔を寄せた首筋からは真琴くんの匂いがした。
「へいき、へいき。夢ですからね。怖くないですよ。」
小さな子をあやすみたいに柔らかい声で宥められると余計に胸が苦しくなる。風邪のせいには出来ないくらいに顔が熱くて、指先が真琴くんの服を求めた。
「あったかい紅茶持ってきます。昨日買い物行ったときにレジの前にあったんですよ。生姜が入ってるんですって。きっと気分も落ち着きますよ。」
真琴くんの体温が離れていく。父親の姿が重なって、考えるより先に体が動いた。
「いかないで……!」
みっともなく潤んだ声が真琴くんの歩みを引き止めた。やめておけと警鐘を鳴らす理性、溢れて止まらない感情。戦う前に結果はわかっていた。真琴くん、風邪のせいにして甘えてもいいかな。
先生の泣きそうな声に足が止まった。聞いたこともない声色に心臓を直接握られたような痛みを感じる。振り向きたいのに、先生の顔を見るのが怖かった。どんな顔をしていても触れずにはいられない。それでも背中へ投げ掛けられた声を無視することなんて出来るはずもなく、意を決して振り返った。
「……先生、」
先生はまるで小さな子供みたいに不安そうな顔をしていた。悪夢から飛び起きて、親の手の温もりを探す子供のようだ。思わず抱きしめてしまったが、間違ってはいなかったのだと思わされる。そんな痛々しい表情を浮かべていた。
「久しぶりに風邪引くと、不安になっちゃいますよね。」
こんな言葉を望んでいるとは思えなかったが、真面目で慎重な先生がいつでも思い直して引き返せるように、あえて周りくどいことを言った。昨日の夜から、先生はいつもと違って余計に幼く見えた。その熱に促されたのだろうか。
「……前にここへ来たとき、俺の家の話をしたでしょ。母親が死んだ後、祖父母に預けられたって。」
突然の発言に返事が出来ない。思ってもいなかった話題が出てきて内容を把握するのに時間を要した。初めて先生の家にお邪魔した際、学生の一人暮らしには似つかわしくない一軒家に驚いて、この家が祖父母が遺したものだと教えてもらった。先生のお母さんが亡くなってから、家庭の事情で父親の元から離れて祖父母と暮らしていたらしい。それより詳しいことは、先生が黙っていたので俺からきくこともなかった。何かを隠しているのだとは察していたが、先生が打ち明けてくれるまで追求しないと決めていた。
「……はい。」
ベッドヘッドに背中を預けてそっと眼鏡をかけた先生に、ゆっくりと近付く。先生は俺がベッドの横に座ったのを見て弱々しく微笑んだ。なんだか重病者のように見えてこちらが情けない顔になってしまう。
「……人に聞かせるような話じゃないから、あんまり話したことはないんだけど、体調悪いせいかな……そのことで怖い夢、見たんだ。……いや、なんでもない。ごめん、気にしないで。風邪って嫌だね。」
先生の決心は俺が何かを言う前に消えてしまったようだ。弱々しく微笑んでいる先生は、自分でもどうしたらいいのかわからずに迷子のように不安そうな色の目をしている。先生は深く息を吐くと、今までの重たい空気を払おうと明るく笑った。
「ごめんね。もう少し寝たらきっと良くなると思う。真琴くんは好きなときに帰っていいからね。冷蔵庫の中、大したものは入ってないと思うけど好きに食べて。……おやすみ。」
「先生が寝るまで、ここにいてもいいですか。」
先生はずるずると布団の中へ潜っていく。リビングで過ごそうかと思ったが、俺がこの部屋から出た後、眠りに落ちるまでの先生が一人になるのが何故か心配で、そばにいたいと思った。先生は頬まで引き上げた掛け布団から目だけ覗かせて、ふふっと笑い声を漏らした。細めた垂れ目が微熱に潤んでいる。強く目を瞑ったら、優しいカーブを描いた目尻から涙が溢れてしまいそうだ。
「うん。何か話しててよ。真琴くんの声、安心する。」
薬のせいで既に眠たいのか、呟くような小さな声がそれだけ伝えると、水気を含んだ瞳は瞼の裏に隠れてしまった。俺は風邪をうつされたわけでもないのに熱くなった頬を持て余す。バイトの話、リョウとプールへ行く予定、新学期の授業のこと、先生は俺の話に時折相槌を打っていたが、少しもしないうちに返事が規則正しい寝息へと変わり、俺の話が尽きる前にすっかり眠りに落ちていた。
「……俺の話なんてちっとも面白くないんですよ。俺、先生の話が聞きたいな。数学のこととか、花の知識とか、……先生が隠してることも……俺なんかに話してちょっとでも楽になるなら、聞かせてください。先生には笑っていてほしいから。」
布団の隙間からはみ出した真っ白な指先をそっと握った。花びらを貼り付けたみたいな薄い桜色の爪を指の腹で撫でる。仄かに温かい肌はところどころ傷がついていた。実験中に切ってしまったのだろう。
「先生、好きです。」
名残惜しかったが指先を離した。音を立てないように部屋を出てリビングで時間を潰す。普段は見ないワイドショーを流しながら、アプリで漫画を読んでいた。サークルはあったが休むことにした。先生からは帰ってもいいと言われたが、おはようの言葉を言いたくて無遠慮に居座らせてもらう。途中で鍵を借りてスーパーで夕飯になりそうなものを買い込んだ。一日で食べ切れるとは思えない量だが、本人の言った通り冷蔵庫の中は寂しかったので、明日以降の食糧に回してもらうつもりだ。適当に食事を済ませ夕方に差し掛かった頃、先生が起きてリビングに降りてきた。足取りもはっきりしているし、顔色も良くなっている。
「おはようございます、先生。」
言いたかった言葉を口にすると、なんだかむず痒かった。先生は普段通りの口調に戻って返事をした。
「おはよう。」
「長居しててすみません。」
「ううん。帰っていいよ、とは言ったものの起きて一人だったからちょっと寂しかった。いてくれて良かった。」
先生はキッチンからマグカップを取り出して俺が買ってきた紅茶を淹れた。後頭部に寝癖がついている。ソファに並んで座ったとき、思わず跳ねた髪の房を撫で付けてしまった。何も言わずに触れてしまったことに自分自身で驚いていたが、先生は一瞬こちらへ目線を送ったものの何も言わなかった。
「あ、寝癖ついてて。」
「ふふ、ありがとう。」
沈黙の中に、ニュースキャスターの声だけが響いている。一緒に暮らしていたら毎日こんな風に過ごすのかな、なんておめでたい妄想をした。沈黙に怯えた心を誤魔化すみたいに。
「……実はね、また嫌な夢を見たんだ。夢の中で泣いてたら、誰かに肩を叩かれて優しく抱き上げられて背中をさすって頭を撫でてくれた。手を繋いで、何度も大丈夫だよって声をかけてくれた。あれはきっと真琴くんだったんじゃないかな。……ねえ、今度は最後まで話そうと思うから、俺の話聞いてくれる?」
先生はふうっと息を吐いてからマグカップを机の上に置いた。声は落ち着いているが、空になった両手の指が所在なさげに動いている。白くて細い指が組み合わさったり離れたり、俺は頷いてからその指先だけを見つめていた。
「……俺でよければ。」
心構えは出来ていたつもりだったが、やはり緊張する。これから先生が大事な話を、ずっと隠してきた秘密を、俺に打ち明けてくれる。望んでいたこととは言え、余裕を見せられるほどの背伸びは出来なかった。
「ありがとう。」
それでも、先生の安心したような微笑みを見たら、全部知りたいという気持ちが膨らむ。それで先生が笑っていてくれるなら。俺に、全部話して聞かせて。
「あのね、俺、母親が死んでからしばらくは父親と二人で暮らしてたんだ。世間では当たり前なんだけど、父さんの中では残された息子と二人で暮らすって不思議な感じだったんだって。……父さんは母さんを愛していたから。」
先生はずっと薄い微笑を浮かべている。他人の昔話をするみたいな声の温度と、早口なのに聞き取りやすい話し方はいつも通りだ。俺は小さな声で相槌を打つ。
「父さんはね、哲学の研究者なんだ。哲学という学問に没頭して、愛の意味を辞書引くような人だったと、ばあちゃんは言ってた。そんな父さんが唯一、本の外で見つけた愛が母さんだったの。そんなにも愛した人がいきなりいなくなって、その愛の下に生まれた子供だけが残ったとき、父さんはどうしたらいいのかわからなくなったんだと思うよ。……俺は母さんに似てるんだって。」
薄い唇が緩やかな弧を描いた。俺は先生のその表情を笑顔と呼ぶには無理があると思った。涙を流さず泣いてると言った方が頷ける。先生、と声をかけて目を合わせる。瞳を守る為だけの涙しか浮かんでない二つの目が俺を見つめた。俺は先生の家族を一人も知らないけど、この優しげな垂れ目も真っ白な肌も細い顎も、先生のお母さんに似ているのだろうか。呼びかけたものの何も言わない俺をじっと見つめてから、また不器用に笑顔みたいな表情を作って続きを話し始める先生の、綺麗な指はすっかり大人しくソファの上に乗っていた。
「父さんは俺を祖父母の家に預けて、大学の研究室に籠るようになった。行ってきますも行ってらっしゃいも、ただいまもおかえりもなくて、俺はいつか父親の顔を忘れてしまうんじゃないかって不安になってた。俺が小学校へ上がる前、俺の住所がここに移されて、この家に俺の部屋が出来て、ばあちゃんがランドセルを買ってくれた。数週間ぶりに俺の前に現れた父さんに、買ってもらったランドセルを背負って見せた。父さんは……大きくなったな、って言った。それが最後だったの。それから父さんがこの家に顔を出すことはなかったし、俺と会うこともなくなった。もうずっと会ってない。」
先生は思い出したように机の上のマグカップに視線を移し、すっかり冷めた紅茶で喉を潤した。微かに生姜とレモンの香りがする。先生の話を反芻して、何故か体の芯が火照っているような気がしてきた。先生の父親のしたことは、仕事が忙しく祖父母に子守りを頼むのとは訳が違う。それは預けたとは言わない。俺は幼い頃の先生の立場になって、身勝手にも怒りが湧いてきたのだと気付いた。
「……ばあちゃんの葬式のときに見かけた後ろ姿に、声をかけなかった俺も悪いんだけどさ。今更会っても、何話したらいいかわからないじゃん。じいちゃんとは遺産だなんだで話をしていたみたいだけど。じいちゃんは父さんのしたことが許せないみたいでずっと怒ってた。この家が俺のものになったのも、そういうことなんだろうね。」
俺が神妙な面持ちをしていたからだろう。先生はちょっとふざけた様子で笑って見せた。俺は、怒りも悲しみも見せないようにしている先生の口調や表情がやるせなくて、勝手に腹を立てていた。
「……優しすぎるよ、先生は。まだ小さかった頃は?なんで、どうしてって思いましたよね?嫌だって思わなかったの……?」
先生は俺だけが必死になっている様子に少し狼狽えたように見えた。その演技ではない仕草に、余計に悲しくなる。本当に何とも思っていないように見えてしまうから。
「昔の俺のために怒ってくれてるの?真琴くんだって十分に優しいよ。」
先生は微笑む。優しさが有り余って、逆に頬が冷えた。大丈夫そうな顔しないでよ。未だに悪夢を見るんでしょ。そんな嫌な夢の中で、俺なんかに縋ってしまうんでしょ。本当は黙っていたかった秘密を、俺に話してくれたんでしょ。それはきっと、今でもずっと苦しいからでしょ。
「先生、言ってくださいよ。なんで俺に話して聞かせてくれたのか、言って。お願い。平気な顔しないでよ。」
「……父さん、国立大で哲学の教授やってるんだ。会おうと思えばいつだって会いに行けるのに、……怖くて避けてるんだ。俺は母さんになろうとしても、絶対になれないから。」
自分自身を落ち着けるために吐いたであろうため息が震えている。涙の代わりに零れたみたいな呼吸は、泣くよりもずっと悲しく響いた。
「ばあちゃんが庭で育ててた花について詳しくなったから、植物の病気について研究しようと思って生物学科を選んだんだ。でも、数学にも詳しいのはね……母さんは数学科の出身だったから……。俺は、父さんに置いていかれたくなかっただけなんだ。百点のテストを見せることも出来ないのに。」
抱き寄せたかった。うずくまって泣いている昔の先生ごと、抱きしめて誉めて、もういいよと言いたかった。
「いつの間にか数学そのものも好きになっていたけど、やっぱりどうしても数字の羅列の向こうには両親の影を見ている気がする。そんな俺を、きらきらした目で先生なんて呼ぶ真琴くんに、救われてたのかも。俺を、俺として見てくれてるみたいで。真琴くんは俺のことを魔法使いって言ったけど、真琴くんが俺に魔法をかけてくれたんだよ。」
ありがとう、と言って微笑む先生と目が合った。
「……先生、今この瞬間だけでいいから、待てをしている俺に……先生を抱きしめる許可をください。」
「え、……?」
「抱きしめたいから。よし、って言って。」
先生は困ったように眉を下げて、口籠もっている。
「真琴くん、おれ……、」
「先生のこと本気で好きだから、一方的にしたいことするのは嫌なんです。」
「……俺、そんな顔してた?真琴くんに縋るような、そんな顔だった?」
先生は俯いて少し笑った。返事に困っているのがわかって心が苦しくなる。先生を困らせたくないって言ったのは昨日の話だ。意思が脆いのは今に始まったことじゃないのに情けない。
「触りますよ……。」
下を向いた先生の頬にそっと手のひらを滑らせる。昨晩の熱はすっかり引いていて、それでもほのかに温かい。ひく、と引きつった頬を安心させるように優しく撫でた。先生の視線だけがこちらを向いて、戸惑いしかない目の動きを見せた。俺は何も言わない先生をそっと抱き寄せる。痩せた肩が俺の鎖骨に当たった。腕の中で黙ったままの先生は抵抗することも完全に身を預けることもしない。ニュースはいつの間にか天気予報に変わり、明日の晴天を伝える明るい声だけがリビングに響いている。
「真琴くん、」
「もう少しだけ。」
俺は、俺以外の鼓動を感じながらじっとしていた。先生も動かない。胸に先生の体温がじわじわと広がって、このまま離したくないと思う寸前で、そっと体を引いた。
「聞かせてくれてありがとうございました。」
「……ううん、こちらこそ聞いてくれてありがとう。いきなりごめんね。」
先生は俺が抱きしめたことに関しては何も言わなかった。俺も何も言わないでおいた。本当は好きという気持ちが胸をなみなみに満たしていて苦しかったけど、口にするのはやめた。
「熱は下がったけど、まだ本調子ではないだろうから無理しちゃだめですよ。研究、頑張って下さい。」
今日はもう帰ることにした。たくさん喋って疲れただろうから、風邪が振り返してしまうかもしれない。すっかり乾いた服に着替えて帰りの準備をする間、いつも通りのたわいもない会話をした。玄関まで見送ってくれた先生にお礼を言って、ドアを開ける。
「真琴くん。」
先生に呼び止められて立ち止まる。振り返るといつもの優しい笑顔を浮かべた先生がいた。
「またね。」
ありがとうや、ごめんねよりも聞きたかった言葉かもしれない。次にまた会えるから、そう言ってもらえた。俺は嬉しくなって声が大きくなってしまった。
「はい!」
そんな大声での返事に、先生が笑ってくれた。外はまだ明るいけれど微かに夜の風が吹いている。先生が笑ってくれたから、明日もきっと晴れるだろう。テレビの向こうの気象予報士のことなんて忘れて、そんなことを思ってしまうような幸福が口切りいっぱいの胸に一滴落ちた。そうして出来た小さな波に溺れることを恋と呼んでいる。
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