7 恋の味
プールで日に焼けた肩にトートバッグの持ち手が触れてヒリヒリと痛い。ギリギリまで手をつけなかった課題も期日までにはなんとか片付き、無事に提出することが出来た。もう夏休みが終わってしまった。いつの間にか九月も終わりに差し掛かろうとしていた。
「おはよ。」
いつもの大教室にいつもの面々。電車で寝過ごしてしまい、始業前ぎりぎりで滑り込んだ。教授はいつもチャイムが鳴っても登壇しないのだが、学生証をカードリーダーにかざして出席を取るシステムには遅刻がバレてしまう為、狛犬門を走って通って来た。
「間に合って良かったね。」
「ただでさえテスト難しいんだから出席で点稼いでおかないと!」
十月を目前にしても残暑はしつこく、走った後の体には汗が滲む。
「これ、開けてないからあげる。」
全く日焼けをしていないリサちゃんが俺の目の前に紅茶のペットボトルを置いた。苺のイラストが可愛らしいパッケージには、俺でもわかる有名なウサギのキャラクターが一緒に描かれていた。
「おまけで付いてるストラップ集めててさ、紅茶はもう飲み飽きちゃったからもらってよ。」
「それめちゃめちゃ甘いよ。」
後ろで顔を顰めるリョウはリサちゃんから睨まれていた。別に甘いものも苦手ではないし、ちょうど汗をかいて喉が渇いていたのでありがたく頂戴した。封を切って一口飲んでみれば、リョウの忠告通り、砂糖と果実の甘みが喉に刺さった。この甘酸っぱさが恋の味らしい。商品名に並んでそんな素敵なフレーズが見えた。
「あま……。」
正直酸味は感じられない。でも美味しいと付け加えてリサちゃんからの氷の視線を免れる。もう一口飲み下して、視線を前に向けると、何列か下の席からこちらを振り返る小さな頭を見つけた。相変わらず茶髪が馴染んでいない。可愛いあの子と目が合った。夏休みの間はサークルでよく顔を合わせていたが、一時期と比べると会話も減ったし連絡もほとんど取らなくなってしまった。あんなに愛らしくて守ってあげたいと思っていたのが嘘みたいにすっかり冷めてしまっていた。それでも同じサークルの女の子を無視するなんて出来ないので、笑顔で手を振った。向こうも少しだけ微笑んで手を振り返してくれた。結局あの子とは何もなかったし、この先もどうにかなるとは思えないが、知り合いとも友人とも違う、変わった距離感にいる彼女との関わり方には悩んでいた。チャイムが鳴ってあの子は前を向き直る。あの子に恋をしていたときは、確かにこんな甘い味がしていたような気がする。
午前中の授業が終わり、俺たちは学食に集まっていた。サークルの集まりだったり選択授業の準備だったり、みんなそれぞれ用があることが多く、仲の良いメンバーが四人でテーブルを囲んでいるのは久々で、食事を済ませてもだらだらとたわいもない話を続けてしまう。リサちゃんの彼氏の話を聞きながら、一度しか会ったことのないリョウとミズキがお節介とも呼べるアドバイスを繰り返し、リサちゃんは懸命に頷いたりしていた。俺は朝にもらった紅茶を未だに飲みきれずにいたし、半分まで減ったそれを一気にあおる気にもなれずにいる。ぼんやりと頭の中に浮かぶのは、あの子の照れたような笑顔と、先生の安心し切った微笑み。
「な、やっぱり甘すぎるよな?」
いきなりリョウに話しかけられて肩が跳ねた。指差す先には俺の手の中で温くなった紅茶のペットボトル。
「甘くて美味しいじゃん。ね?」
リサちゃんからは同意を求めるように見つめられる。正直な意見はリョウに同意だが、ここで敵になるのは賢くない。
「恋の味、って書いてるしこれくらい甘い方がいいよねぇ。」
恋なんてずっと甘いくらいがいい。くどくてしつこいくらいでいい。酸っぱいところを知ってしまうと、その酸味が恋しくなってしまう。先生が見せる憂いに、胸が締め付けられるのを忘れられなくなっていた。誰にでも笑顔を向ける先生の、笑顔じゃない顔を知っていることを特別と呼んで、その表情に鍵をかけて胸の中にしまっておきたい。苺味の紅茶を恋の味と言うキャッチコピーを鼻で笑っておきながら、恥ずかしいことを考えていた。誰に聞かれたわけでも聞かせたわけでもないけれど、誰にも言えないな、と一人で苦笑いを浮かべてしまった。
「恋してます、って顔してるね。わかりやすい。」
ミズキの呆れ返った声が浮ついた俺の気持ちを現実に引き戻した。リサちゃんは相変わらずこういった話に興味津々で、俺の返事を待っている。
「え、マコちゃん!なになに!恋してるの?」
別にリサちゃんには関係のないことなのに、まるで自分が当事者かのように目を輝かせている。チワワやポメラニアンのような小さくて可愛い子犬を思わせるテンションの上がりように思わずたじろいだ。
「言い逃れは出来ないぞ。最近あからさまに浮き足立ってるもんな。服買いに行っても誰かに見せたいって気持ちがダダ漏れだし、プール行っても水着の女の子に目もくれない。どういうことなんですかねぇ。」
リョウにそこまで見られていたとは。俺はいたって普段通りに過ごしていたつもりだったのだが、そんなにもわかりやすかっただろうか。ぺたりと頬に手のひらを添えて過去の自分を思い出してみるが、思い当たる節があるようなないような。
「自覚なし?」
「……常に考えてるからこれと言って思い当たる節がない……。」
ぽろりと零した言葉を取り消すことは出来ない。その場にいた俺以外の全員が息を呑む音が聞こえて、俺は自分の発言が失言だったと気が付いた。
「恋、してますねぇ。」
ミズキがにやにやしながらリサちゃんに耳打ちの素振りをした。リョウもうんうんと頷いている。何も考えずに口を開くとこうなることなんて知っていたんだけどな。昔から変わらない軽薄さが痛手となった。今に始まったことではないと、過去のことにするより他にない。こうやって反省しないからまた同じことを繰り返すのだ。
「付き合ってるの?片想い?相手はどんな子?」
頬杖をつきながら嬉しそうにしているリサちゃんは、こちらが答えるより先にいくつも質問を投げかけてきた。リョウもミズキもそれを止めようとはしない。
「えぇ〜言わないとだめ?」
「ダメじゃないけど、マコちゃんだったら押したら吐いてくれそうだから引き下がりたくない。」
ミズキの真っ直ぐな返答にはお手上げだ。俺はどこまで話せるだろうかと、今さっきの反省を活かして、頭の中で少しでも考えておくことにした。
「えっとね、まだ付き合ってはいない。告白はしたけどフラれた。けど、仲はいいよ。相手はねぇ……この大学の人で、年上……だよ。」
もちろん先生の名前を出すつもりはないが、喋っていると口を滑らせてしまいそうで言葉選びが慎重になる。同性同士ということをとやかく言われるのも嫌だし、根掘り葉掘り質問されて、先生との曖昧な関係をはっきりと言葉にしてしまうのも気が引けた。幸せな夢を見ているとわかっていながら楽しんでいるのに、それをわざわざ正面から夢であると言われているみたいだから、なるべく言葉で表したくないのだ。
「フラれたのにまだ仲良いの?すごいな。今も仲良くしてるんでしょ?それなんて関係?」
俺と先生の関係。後輩と先輩。友人でも、もちろん恋人でもない。文系学部なのに無駄に懐いている後輩と、そんな犬みたいな後輩を受け入れてくれる優しい先輩。それ以上でも以下でもない。名前を持たない関係だ。それでも、ただの先輩とは呼びたくない。ただの後輩とは呼ばれたくない。ただの先輩後輩として割り切れない。
「なんだろ……ただ、仲良いだけ、なんじゃない。俺はただの仲良しでいいなんて思ってないけどさ。まぁ、向こうが俺のこと好きになってくれるの待つって決めたから。」
割り切れないから、先生にどうにかしてほしいのだ。
「……かっこいー。」
向かいに座るミズキがそんなことを言うので、俺は顔を上げた。気付かぬうちに俯いていたようだった。目の前には小馬鹿にしたような笑顔が浮かんでいると思っていたのに、ミズキは何故か険しい表情をしていた。
「マコちゃんが思いもよらぬ一途な発言するからびっくりしてるの。」
俺がわけを聞くよりも先に、ミズキはふっと息を吐いて笑った。
「じゃあ、あのサークルの子とは本当に何もないまま終わったんだ。」
リョウは思い出したように先程までの俺の悩みの種を口にした。あの子との関係もなんと言い表せばいいのかわからない。名前が付いたらいいな、とは思うけれど、それは名前が付くことで全部が片付いたらいいな、というのが本当のところだ。割り切ったところから新しい関係を始めたい、なんて明るい感情ではない。
「うん。あの子とはただ付き合いたかっただけだったかも。可愛いなって思って、でもそれだけ。申し訳ないことしてたな。」
改めて自分の行動や言動を思い返してため息が出た。明確な告白や好意を伝える言葉を贈るようなことはしなかったが、あの子だけに割いた時間があったのは間違いない。
「でも付き合ってたわけじゃないから、謝るのもなんか変よね。ムズカシ〜。」
リサちゃんとミズキはあの子と同じ店でバイトをしている。何か言ってはいなかっただろうか。それでも聞き出したところで結局何か変わるわけでもない。俺は再び落ち込んでため息をつくしかなかった。
「マコちゃんみたいなタイプと付き合うと、マコちゃんが浮気するような人じゃないってわかってても不安になっちゃいそう。」
同じ彼氏と長く付き合っているリサちゃんに言われると心にぐさりと刺さる。今までの彼女と付き合っている間、浮気どころか気持ちが移ったこともないのだがリサちゃんに言われたような言葉で交際が終わることがほとんどだった。
「まあ、俺はお前が好きな人とうまくいくことを祈ってるよ。付き合いは短いけど、なんか本気って感じするし。俺の方が先に彼女出来て飯奢ってもらうのも諦めてないから、そこは勝負続行ってことで。」
リョウは落ち込む俺を慰めるように励ますように言葉をかけてくれた。先生との恋が、どうかうまくいきますように。
「マコトくん、この後ちょっと時間ある?」
あの子に名前を呼ばれて引き止められたのは、食堂を出てすぐのことだった。さっきまで話をしていた相手が目の前に現れて、驚いて挨拶もままならなかった。俺が出て来るのを待っていたようで、彼女は一人きりだった。
「あ、うん!今日もう授業ないから大丈夫だよ。」
明日はサークルの活動日なのだからわざわざ今日じゃなくてもいいのでは、という疑問を飲み込んで、リョウたちと別れた。彼女も予定はないようで、急ぐことはないようだったが、普段と比べて落ち着きがない。始業前で空いてきたテラス席に場所を移して話をすることになった。向かいに座る彼女は秋らしい色のカーディガンを羽織っていたが、まだ太陽は眩しく、半袖から衣替えをしていない俺には暑そうに見える。
「急にごめんね。」
「ぜんぜん!バイトもないし、気にしないで!」
二人きりで話すというのも久々なのに、あまり明るい表情を見せてくれない彼女に当たり障りのない対応しか出来ないでいる。正直言って気まずかった。
「……さっきね、みんなで話してるの聞こえちゃったんだ。斜め後ろに座ってたの。」
「え、」
さっきまでの会話を思い出そうと、漫画の中のキャラクターみたいに宙を見つめてしまう。確かに彼女の話をしていた。肝が冷える。
「マコトくん、好きな人いるんだ。」
名前は思い出せないけれど、咲いている形のままぽとりと落ちて散る花があったような気がする。まるでその花が落ちるときのような話し方だった。喋り声にしては小さくて、でも決して独り言ではない呟き。俺の耳には届いていた。
「……うん。」
責められているわけでもないのに、何故か声を出そうとすると喉がぎゅうっと絞まるような感覚に襲われる。言いたくないことを無理して言っているような苦しさがあった。
「私じゃ、ないんだよね。」
「……うん。」
「そっか。」
ごめんね、と口走りそうになる。今までの俺だったら絶対言っていた。だって、俺の向かいに座った可愛らしい女の子が今にも泣きそうな顔をしていたら、そうやって声をかけるしかないと思ってしまう。誰の気持ちも考えずに、これしか方法がない言うように、口にしていた。そうやって俺は、知らず知らずのうちに誰かを傷つけて来たのだ。
「私、マコトくんのこと好きだったよ。……わかってたでしょ。」
驚きはなかった。彼女はずっと爪の先に視線を落としたまま顔を上げることはない。初めて会ったときにはピンク色だった爪が、今では茶色やオレンジに塗られていた。
「そうかな、とは思ったけど確信はなかったよ。俺、そんなにモテないから。」
「うそ。マコトくん、モテるんだよ。先輩からも人気で、友達も多くて、なんでマコトくんみたいな人が私なんかと仲良くしてくれるのかな。一緒にお昼ご飯食べてくれるのかな。頻繁に連絡取ってくれるのかな。って不思議に思いながらも、自分に都合のいい想像して浮かれてたの。でも、だんだん前ほど顔合わせることも少なくなって、やっぱり私の勘違い?思い込み?だったなって思って、それで今日、はっきりわかった。一人で期待しちゃってたなって、気付いたの。」
初めて目が合った。もうこれでおしまいにすると、そう言っているような目をしていた。
「あのときは、……可愛いなって思ってた。付き合えたらいいなって……。」
「ほんと?」
「本当。でも、好きな人が出来たときに、好きってこういうことなんだって知って、今までの好きが全部覆されたみたいだった。」
そうだ。俺は先生と出会って、先生を好きになって、今までの何もかもをひっくり返されたんだ。男の人を好きになったことはなかったけど、好きというのは性別がどうこう介入してきて我がもの顔出来る領域じゃないと知った。交際することが好きのゴールなんじゃなくて、待つことまで全部が好きで、あなたから与えられる酸味も好きなんだと知った。自分だけのものにしたいという独占欲も、我慢も初めて知った。だから、俺は先生だけが好きなんだ。
「ねぇ……ちゃんと告白するから、ちゃんと断ってくれない?」
彼女は一瞬眉間に力を入れたようだったが、すぐに笑顔に戻ると、居住まいを正した。俺は頷くことしか出来ない。
「マコトくんのことが好き。付き合ってください。」
語尾が微かに震えている。無理して笑おうとした顔が泣き顔に見えた。
「ごめんなさい。俺、今好きな人がいる。今はその人のことだけを想っているので、……ごめんね。」
最後の謝罪は、彼女からの告白を断る以外の意味がたくさんたくさん含まれていた。言わないで立ち去ることは出来なかった。よく考えた上での、ごめんね。心が追いつかない口先だけの言葉じゃない。今まで、ごめん。
「……すっきりした。実は二年の神田さんから告白されたの。すごく優しいしいいなって思ったけど、どうしてもマコトくんのことが引っかかってたんだ。わざわざ呼び出してまで、こんなわがままに付き合ってくれてありがとう。」
苦しそうな表情から一変、清々しく笑う彼女の本心まではわからないが、声を出して笑ってくれて嬉しかった。
「明日、髪染め直して来るんだ。ちょっとピンクっぽい色にする!それと爪、可愛いでしょ。私ね、サトミさんから妹みたいって言われたのが嬉しくて、絶対あんなイイ女!って感じのお姉さんになるんだ。後輩出来たら、今日までの野暮ったい私のことは秘密にしておいてね。」
彼女が自慢げに見せてくるネイルはとても綺麗で可愛らしかった。俺個人の好みはおとなしめな人だけど、目を細めて笑う彼女には、ピンクがかった髪の色がとても似合うと思った。
「カナエちゃんならきっとなれるよ。」
彼女に対する申し訳無さをこの先忘れることはないだろう。そして、感謝の気持ちも覚えている。人を好きになることの本当の意味を知ったから。
その後、先生に会いたくて仕方なかったけれど、論文と可愛い後輩を天秤にかけた、いやかけてもいない気がするが、先生は即答で論文を選んだ。メッセージアプリに涙を零す柴犬のスタンプを連投したら、最後の二つには既読すら付かなかった。そりゃ、四年後期が暇な学生なんてそうそういない。会えませんか、とメッセージを送ること自体控えるべきなのだ。仕方ない。俺はがっくりと肩を落としてバイト先へと向かった。
「あ、マコちゃん!」
開始の時間より少し早く着いたバイト先のバックヤードで、挨拶寄り先に名前を呼ばれた。三井さんが心配そうな顔で俺を出迎える。その奥で店長も神妙な顔をしていた。
「お、はようございます……?どうかしましたか?」
まだ店も開いていないので、急いで準備をする必要はない。俺は荷物を置いて、二人が口を開くのを待った。
「さっき、男の人が訪ねて来て、マコちゃんが今日出勤するか聞いてきたの。開店前で準備中の看板も出てたのに、入ってきてさ……。店長が体調不良で出勤出来るかまだ不明だって言ったら、帰っていったけど……マコちゃん心当たりある?なんか怖くて……。」
身に覚えはない。学科にもサークルにも知り合いは多く、俺がこのイタリアンバルでバイトを始めたことは、そこまで親しくない間柄でも話したことくらいはある。冷やかしに店に来そうな同級生の顔は何人か思い浮かぶが、開店前の飲食店に入ってまで俺の出勤をきくような真似はしないだろう。三井さんの不安が俺にもうつったのように、なんだか寒気がした。
「真琴と同じくらいか、もう少し年上か、どちらにせよ学生だったと思う。真琴の友達にしては暗い感じ。最初声が小さくて何て言ってるのか聞き取れなくて、聞き返したら突然大声になって……なんか不気味だったよ。」
一瞬、先生の方の知り合いを想像したが、店長が苦笑いで話す男の印象に当てはまる人はいない。誰かに憎まれるようなこと、逆に感謝されるようなことをした覚えもなくてもやもやする。
「今日は三井以外にも先輩いるから、真琴はなるべくキッチンにいろよ。出勤聞いてくるなんて危ねぇよ。」
店長にそう言われては頷くしかない。そこまで気にかけてもらわなくても、と思わないわけではないが、やはり心のどこかには不安の色がじわりと滲んでいる。
「なんかすみません……。」
「マコちゃんは何も悪くないでしょ。一応帰り道とかも気をつけてよ。」
まるでストーカーに悩まされる女の子みたいに心配されてしまい、俺は少し気まずく思ってしまう。その日は混雑時以外にホールに出ることはなく、キッチンで盛り付けばかりやっていた。おかげでサラダの綺麗な盛り付け方をマスターしてしまった。噂の男は現れなかったようだ。閉店後の店内で、店長から情報共有がされ、他の先輩たちも気味悪がっていた。俺はみんなの心配そうな顔に見守られながら、帰路に着く。男の先輩には送っていこうか、なんて言われてしまい、全力で首を振った。普段はケータイばかり見ている帰り道だったが、さすがに危機感がないと思い直してイヤホンも着けずに歩いた。待ち伏せや尾行のようなこともなく、無事に帰宅する。両親は既に寝ているようで、家の中は真っ暗だ。二階に上がると妹の部屋から相変わらず話し声が聞こえている。いつもなら煩わしく思うその笑い声に安心した。バイト先のみんなが優しいから大げさに心配しているだけのことだと、そう思って片付けてしまえば気が楽だ。俺に用があるならどこかしらで会うだろう。恨みの類ならいつしか落ち着いてくれるかもしれない。深刻な問題として捉えるから余計に不安になるのだ。俺は着替えの用意をしてシャワーを浴びた。寝る前にケータイをチェック。服屋からのセールのお知らせがあるだけだった。何の連絡も来ていないのに、先生とのトークルームを開いた。大した会話はないけれど、先生の素っ気ない返事を眺めているだけでも自然と頬が緩むなんて相当重症だ。今日のことを笑い話として先生に聞いてもらおうかな。用が無いのにメッセージを送ったりはしないので、次会ったときまで温めておこう。先生のアイコンがヒマワリからよくわからないネズミのような絵に変わっていた。きっとまた先生の友達が描いたものなんだろうな。これも、会ったらなんの動物かクイズにしてもらおう。どんなジャンルにもそこそこ詳しいから、きっとこのネズミモドキについても豆知識を披露してくれるかも。顔を合わせれば好きだという気持ちで溺れそうになって、会っていない時間は会いたいとしか思えなくて、誰に聞かせても笑われるような恋をしている。俺が初めて知った、恋をしている。
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