3 告白
構内の木々から蝉の鳴き声が聞こえてくる。夏の始めは風物詩だな、なんて思っていたが、暑さが増してくると耳障りに感じてしまう。
「あちー……。」
「アイス食ったんだから大人しくなれよ。」
大学から駅までの道をリョウと連れ立って歩く。サークルが終わり帰路に着いているのだが、あまりの暑さに俺はへばっていた。暑い暑いと蝉の声より騒いでいたら、リョウがコンビニでアイスを買ってくれた。薄青の棒付きアイスを食べ終わってすぐはその冷たさに満足していたが、数分も歩けばまた汗が吹き出す。見た目重視で買ったサマーニットのベストを選んで着て来たのは間違いだった。
「さすがに大学生になれば夏休みの宿題、なんてのは無くなるんだな。絵日記とかあったらどうしようかと思った。」
隣でソフトクリームのコーンを齧るリョウが冗談を言う。絵日記なんて高校でも無かっただろ、とわざわざ指摘してやれば嬉しそうに笑った。夏休みと言えば楽しい反面、各教科でひと月分の課題が出されるので多少なりとも苦労はした。新学期前日に慌てて答えを写したり、友人とノートを貸し合ったりしていたのが懐かしい。この夏は、教授の著書を読んでレポートを書く課題が一つ出たのみである。今まで手に取ったこともない新書を買いに行くのは面倒だったが、これだけしかないと思えば気が楽だ。まだ目次にも目を通していないが、夏休みは始まったばかりなので問題はない。だろう。
「明後日どうする?やっぱプールは混んでそうだから九月に行くとして、買い物?飯?」
明後日はサークルもリョウのバイトもないので、前々から出かける予定を入れていた。テストが終わった日の放課後に作った夏休みにしたいことリストを頭の中に思い浮かべる。プール、海、バーベキュー、花火大会、夏らしい行き先の他にも、食べたい物や欲しい物なんかもたくさんあった。その中にはもちろん、会いたい人の顔も浮かんでいる。テスト期間に入ってから、先生の顔を見ていない。連絡は取っているが、用も無いのにメッセージを送ることは出来なくて、向こうの予定を聞くことくらいしか会話もなかった。
「あ、俺サンダル欲しいな。買い物行こうぜ。」
リョウは去年まで履いていたスポーツサンダルの留め具が壊れた経緯を面白く語った。豪快な壊れ方に笑っていると駅に着いた。使っている路線が違うので改札前で別れる。別れ際、定期入れを探す俺をリョウがじっと見ている。視線に気付いて顔を上げると目が合った。
「マコト、なんか元気なくない?」
そんなことない。今日だってこんなに暑いのに外でフットサルをしていたくらいだ。その証拠に、リュックの中には汗で湿った練習着が丸まって入っている。
「うそ、めっちゃ元気だけど。」
強いて言うなら暑さにやられているくらいのことで、中学高校とサッカー部だった俺からすれば夏は毎年こんな感じだ。
「ならいいけどさ。なんか覇気がないって言うか、遊んでもらえない犬みたいに見える。」
きょとんとしてリョウを見れば、その表情を笑われた。意外と鋭いリョウの目に感心しながら俺も笑ってみせる。
「なんだよそれ。リョウが遊んでくれるじゃん。明後日、楽しみにしてるわ。」
手を振って別れて、列車を待ちながらケータイを開く。リョウとミズキとリサちゃんのグループチャットに、リサちゃんが前に撮ってくれた写真を送ってくれたらしく、ロック画面にはその通知が来ていた。確認すると、俺とミズキがたまたま似たような服を着て来た日の写真だった。ふざけてカップルの真似事をして撮った写真がもう懐かしく感じる。俺と別れてケータイを見たらしいリョウがスタンプを送って反応していた。俺もお礼のメッセージとスタンプを送る。そして少し下の方に追いやられてしまった先生とのトークルームを開いて、呆気なく終わってしまった前回の会話を読み返した。会う約束を取り付けようにも、向こうが忙しくなかなか予定が合わない。空いてる日がわかったら連絡する、という旨のメッセージを最後に、先生からの返事はなかった。真面目を絵に描いたような人なのに、ところどころで使われる絵文字やゆるい輪郭線のスタンプが可愛い。特別ではないやり取りを読み返すなんて、我ながら少女漫画的で恥ずかしい。彼女がいた頃もこんなに夢中にはならなかった気がする。相手は男だというのに浮かれきっている自分に動揺しながら、漢字フルネームで登録されたアカウント名を何度も見てしまう。
「好き、ってわけじゃない……よなぁ。」
深々とついたため息に通知音が重なって、驚きで咽せそうになった。送られて来たメッセージに既読のマークが付いてしまう。送り主はたった今トークルームを開いていた先生だった。久しぶりの連絡なのに、既読が早過ぎて引かれやしないか。俺は慌てて画面を確認した。
『久しぶり』
何か言い訳をしなくては、と思い文字を入力する。
『お久しぶりです!』
『ちょうどケータイ触ってたんでめちゃめちゃ早く気付けました!』
最後に笑い泣きする絵文字をつけて誤魔化す。先生は文字を打っているようで既読はすぐに付いた。返信を緊張しながら待った。
『来週ならって言ってたけど、やっぱり無理そう。他大の研究室で作業するからほとんど大学行かないんだよね。』
はたから見てもわかりやすく肩を落とした。今週は実験で手が離せないから来週以降なら、という話だったのだ。先生は植物と細菌の研究をしているらしく、菌が死んだら実験にならないそうで、研究室に篭り切りになってしまう。ゼミ室は仮眠室状態だと言っていた。大学院に進むので卒論と並行して院試の対策もしている。俺みたいな後輩に構っている暇なんてない。わかってはいるがやはり寂しい。
『既読早くてびっくりしたよ』
何故か文末にチューリップの絵文字が付いている。先生はよく何の脈略もなくこの絵文字を使った。今度会ったら理由をきこうと思い、その今度がいつになるのか考えて余計に悲しくなった。
『夏休みなのに忙しすぎません?俺のことはいいんで実験頑張ってください!』
『あとちゃんと寝てくださいね!』
先生は頭がいいのに生活力が皆無だ。清潔感のある見た目から潔癖な印象があったが、その実片付けは苦手らしい。最低限の掃除も面倒臭さを我慢してやっていると聞いたときは驚いた。しかも、自炊はおろか食事にもあまり興味がなく、好きな食べ物をきいても散々迷って答えを出せないでいたし、寝るのも後回しにしてしまうと言うから不安になる。こんなに忙しいということは、生活を疎かにしていると予想がついた。
『それでさ、もしまだ前に言ってた本に興味あったら俺の家来る?』
ホームに列車が入ってきて、ドアが開いたタイミングでの衝撃的な文章。思わず立ち止まってしまった。後ろに人がいなくて良かった。本というのは、先生が勧めてくれた数学のパズルの解説書のようなもので、大学の図書館にもあると聞いたが借りる機会を逃していた。それを先生が貸してくれるらしい。しかも先生の家にお招き頂いて。車内は空いているのに、動揺から席に着く動作がぎこちなくなる。俺は息を整えて、今一度先生からのメッセージを読み直した。誤読でないようだ。
『さすがに他大の研究室に泊まり込むわけにはいかないから帰ってくるんだけど、火曜か水曜ならそこまで遅くならないと思う』
『ピザでも取って夕飯一緒に食べない?』
『あ、河野くんが良かったらだけど』
嬉しい。嬉し過ぎる。柴犬のキャラクターが感涙するスタンプを連投した。
『おじゃましたいです!!!!!』
自分史上最速で文字を入力し、だらしなくにやけていたことを自覚して居住まいを正した。向かいに座るご婦人は本を読んでいる。多分俺のにやけ顔は見られていないはずだ。セーフ。
『嬉しすぎて電車の中でニヤニヤしてます』
『なんでよ』
先生の家に行ける、先生と夕飯が食べられる、何より先生に会える。それが一番嬉しかった。どうしてこんなに夢中になっているのかわからない。今まで好きになった相手や、付き合っていた彼女に対して抱いていた気持ちとは違う。例えば、可愛い、守ってあげたい、そばにいてほしい、キスがしたい、体に触れたい。今までの女の子に対してはそう思うのに、先生にはそんな感情微塵も湧かなかった。
「……知りたいだけ、なんだよなぁ。」
誰にも聞こえない小さな声で呟く。ケータイの画面を見下ろしてため息をついた。興味があるだけだ。面白そうだから近付いて、飽きたら離れていこうと思っていた。出会って半年も経っていないのに、いつの間にか深いところまで来てしまっていた。俺のサークルが休みの火曜に約束をして、先生の家の最寄り駅で待ち合わせをする。明後日の買い物で新しい服を買おうと思った。家に上がるので靴下まで気を抜けないし、汗の匂いなんかにも気を遣いたい。これが恋ではないにせよ、大切にしたい関係であることに間違いはない。久しぶりに先生と会えることを純粋に喜びながら、出来たらたわいのない話を続けたいと思った。
『楽しみにしてるね』
チューリップの絵文字付き。その後に、猫が手を振るスタンプが送られて来てしまった。先生は用のないやり取りはしないタイプらしく、いつも要件を伝え終わるとこうしてすぐに話を切り上げてしまう。わかってはいたが少しだけ寂しい。もっと仲良くなったら、時間を浪費するだけのくだらないやり取りを許してくれるだろうか。
『その倍、楽しみにしてます!』
柴犬が手ではなく尻尾を振るスタンプを送って会話が終わる。乗り換え駅に電車が着いた。早く来週になってほしいと思いながら、心のどこかに何か翳りが澱みのように留まっていた。
まだかまだかと待っていたのに、約束の日になってみるとあっという間だったように思うから不思議だ。俺は、先生から教えてもらった最寄り駅で細い背中を探している。リョウと買い物に行った際に一目惚れして手に入れた襟付きの黒いセットアップは、俺の私服の中では落ち着いた印象で、先生と会う為だけに買ったと言っても過言ではない。夏らしいハーフパンツに靴下とサンダルを合わせ、かっちりと決め過ぎないよう気を付けた。服装だけでなく、実は前日に美容室まで予約して、伸びてきた襟足を刈り上げ、色が抜けて派手に明るくなってしまった茶色を、きちんとアッシュベージュに染め直してもらった。美容師から「デートですか?」ときかれ、少し迷って頷いてしまった。何というか、もうそういうことにしておこうと思ったのだ。俺は先生のことが気になっているのでこうして毎日会いたいと思ってしまうし、会えるとなれば過剰なまでに身なりに気を遣ってしまう。恋愛的に好きかどうかは一旦置いておくとして、気になっているのは本心だから、一先ずはそこに着地するとしよう。長いこと悩み続けるのは苦手だ。
「遅くなってごめんね。久しぶり。」
楽観主義の俺の頭は、背後から聞こえてきた声によって、悩みの影すら残さず喜色で塗りつぶされた。
「先生!」
改札を出てきた先生に駆け寄る。夏休み前に会ったきり一度も顔を合わせていなかった先生が、目の前にいるということに喜びを隠し切れない。そんな俺の落ち着きの無さが顔に出ていたようで、先生は困ったように笑った。
「お久しぶりです!全然待ってないですよ!」
「院のゼミで飼ってるヤマトみたいだね。」
ヤマトというのはゼミ室で飼われている雑種の中型犬のことらしい。実際、俺に尻尾が生えていたら今頃千切れんばかりに振っていただろうから、ヤマトに似ていると言われても言い返すことが出来なかった。先生は淡いベージュのパンツの上に、ミントグリーンの半袖シャツを合わせた爽やかな色合いの服装で、優しい笑顔によく似合っていた。シャツのボタンは閉めているが、胸元と裾からレイヤードした白いTシャツが少しだけ覗いている。構内で会うときも思っていたことだが、先生は意外と服のセンスがいい。意外と、と言うのは失礼かもしれないが、食事も睡眠も疎かにするわりに、着ているものは小綺麗にまとまっていた。俺があまりにもまじまじと見つめていたので、先生は髪や顔に触れてから首を傾げた。
「なに?なんか変?」
「あ、いや、そのシャツいいなって……。先生っぽくてすごく似合ってます。」
隠すようなことでもないので正直に思っていたことを口に出した。先生は何度かわかりやすくまばたきをして、自分の服装を見ると、何かに気付いたようにハッとした。
「……これ、今日おろしたんだ。すっかり忘れてたけど。河野くんに会うから今朝ちょっとだけ悩んじゃって…。変じゃないなら良かった。」
一瞬目が合って、先生から逸らされた。何なのこの人。可愛くて困る。俺は大きな声で何か叫びたくなったが、どう考えてもそんなこと出来やしないので無駄に唾を飲み下した。
「俺も、先生と会うために服選びましたよ。大人っぽく見えませんか?」
我ながら意味もわからず張り合いたくなって、買ったばかりの服を見せびらかしてみる。スマートな大人は多分、こういうひけらかしはしない。
「モデルみたいでかっこいよ。髪も染め直した?ほんと、雑誌に載ってそう。」
リョウやミズキに言われていたら、過剰な褒め言葉を素直に受け取ることは出来なかったし、二人が俺を褒めるときは大体悪い笑顔がセットなので、馬鹿にされているとすぐ気付く。先生の声で、先生の顔で言われると、馬鹿みたいに全部信じてしまうのだ。背が高いだけの俺を、モデルだの雑誌だの言って褒める先生は、人の喜ばせ方を熟知しているようだった。
「家の近くにスーパーあるから、そこで買い物してから帰ろう。夕飯はピザにするとして、飲み物とかお菓子とかいるよね。」
先生に会えただけで喜んでいた俺だが、今からお宅へお邪魔して一緒に夕飯を食べるのだと思うと、もう遠足前の子供みたいに浮かれてしまう。先生の道案内に従って、見慣れぬ町を歩いた。いつもカフェや教室で待ち合わせをし、その場で解散することが多いので、こうして二人で会話をしながら歩いたことなんてなかった。もっと緊張するかと思ったが、いつもそうやって帰っていたみたいに自然と会話が続く。そんなことに気付いたのはスーパーに立ち寄るタイミングで、そこまでは心地の良さを不思議に思うことすらなかった。
「きっとサークルの飲み会でお酒は飲んでいるだろうけど、俺はあんまり良いと思ってないよ。だからといって、今日飲むなとは言わないけどね。」
俺が酒のコーナーで缶を選んでいるところへ、後ろから先生が咎めるでもない柔らかい声で言った。当たり前のように飲酒をしていたが、俺はまだ未成年だ。先生は怒っていないようだが、ここでお言葉に甘える勇気は無い。俺は手にしていたレモンサワーを棚に戻すと、隣の列からノンアルコールのサワーをいくつかカゴに入れた。何も言わないが満足そうな顔をした先生は、缶ビールを手に取った。酒が飲めないとは思っていなかったが、先生がジョッキでビールを飲む姿はあまり想像出来ない。オシャレなワイングラスが似合いそうで、銀色の缶ビールさえも、先生の姿に馴染んでいなかった。先輩だから、と会計を済ませようとする先生を何とか制して俺が全額支払うと、二人で袋を分け合って持って帰路に着いた。当たり付きの棒アイスを二本買ったので、それを咥えながらやっと暗くなった空の下を歩く。ふと、会話が途切れた。
「……先生って誰にでもこんなに優しいんですか?」
何でも思ったままを声に出してしまう俺にしては珍しく、少し迷ってから口にした問い。先生の方を見れば、少しだけ低い位置からこちらを見上げる眼鏡越しの瞳と目が合った。顔を傾けたことで、眼鏡が鼻筋を滑ってずれた。度数が高いのか、レンズの向こうに見える目は、実際よりも小さく見える。ずれた眼鏡のフレームの上から裸眼を見るのは初めてだ。レンズ越しではない瞳はいつも見るより大きくて幼い。白目が澄んでいて青白く、黒目には街灯の光が映り込んでいた。裸眼の視力では見えづらいようで、アイスを持った手の甲で器用にフレームを押し上げた。いつもの先生の目に見つめられる。
「優しい、かな。よくそう言ってもらえるけど、別にそうしようと思ってやってるわけじゃないんだよね。」
先生は前を向き直り、困ったように微笑んだ。空色のソーダ味がひとかけ、小さな口の中に消えた。俺はもう食べ切っていたので、木の棒片手に答えを聞いていた。
「でも、河野くんと他の知らない学生とでは、流石に接し方も話し方も違うし、知らない子を家に呼んだりはしないでしょ。そういう意味では誰にでもってわけじゃないよ。」
そう言ってほしくてきいたくせに、予想外に嬉しくて口元が緩む。自覚がないことには驚いたが、こういう受け答えも含めて先生は優しいと思う。
「……じゃあ、俺はちょっとだけ特別ってことですか。」
さすがに押し付けがましい質問を、その優しさに賭けて投げかけてしまう。
「あたり。」
「え、」
笑って流されると思っていた。笑われて、それを俺がふざけながら問い詰めて、面倒になった先生が雑に肯定して、そうやって手に入れた答えに満足するだけだと思っていたのに。たった三文字で返ってきた答えは、喜びよりも驚きが勝る。
「アイス、当たった。」
先生は垂れ目を丸くして、アイスの棒を俺の眼前に突き付けた。木の棒には“あたり”の三文字が焼き入れてあり、俺はそれを確認して肩を落とした。アイスのことだったのね。
「……良かったですね。」
俺の質問は聞こえていなかったようで、先生はアイスの棒をまじまじと見ては嬉しそうな顔をしていた。
「自分がはずれたから落ち込んでるの?」
いつも落ち着いていて大人しい先生が、無邪気に笑いながら俺のことを茶化している。ちょっと抜けているところも可愛い。小さな口を横に開いて笑うと白い歯が少しだけ見えるのも可愛いし、笑い声は話し声より高いところも可愛い。質問を聞き逃されたことなんてどうでもよくなり、つられて笑ってしまった。その後、一番好きなアイスの話に花を咲かせていたのだが、先生は突然足を止めた。周りに学生向けのアパートらしき建物は見当たらない。忘れ物にでも気付いたのだろうか。
「着いたよ。重たい方の袋持ってくれてありがとう。」
先生は門扉のある一軒家の前で立ち止まり、背負ったリュックのポケットから鍵を探し出していた。俺は、古い住宅街に馴染む戸建ての外観を、間抜けにも口を開けたまま見上げていた。
「はは、びっくりした?」
「一人暮らしじゃなかったんですか?」
実家から通っている俺が高校生の妹と喧嘩した、という話をした際に、確か先生は一人暮らしをしていると言っていたはずだ。俺は混乱して、意味もなく表札を探した。石で出来た立派な表札には、先生の苗字が彫られている。実家に帰って来ているということだったら、俺は今から先生の家族と会うことになる。夏の暑さのせいではない汗が背中を伝った。
「一人暮らしだよ。ここが実家でもあるんだけど。」
まぁ入って、と説明の途中で門と玄関を開け、先生は俺を家の中へ入れた。広い玄関にはサンダル以外の靴は無く、電気の付いていない廊下は少し怖かった。緊張しながら靴を揃えて家の中へ上がらせてもらう。電気のスイッチを入れながら歩く先生の後ろに着いていくと、リビングに到着した。キッチンとはカウンターで仕切られていて、そこへ買い物袋を置くよう言われたので、なるべくそっと袋から手を離した。人の気配はない。
「今、飲み物出すからソファ座ってて。」
言われるがまま、大きなソファに腰を下ろす。背筋を伸ばしたままリビングを見渡した。一人では持て余す大きさのダイニングテーブルと、四脚の椅子。俺の座ったソファの前にはテレビとスピーカーが置かれ、その横には本棚が並んでいる。足元には何も敷かれていないが、長い間絨毯があったのか、フローリングの劣化具合には差があった。
「麦茶でいい?」
今しがた買ってきた麦茶のペットボトルの口をぱきりと開けて、先生がグラスに注いでいる。ソファとテレビの間に置かれたローテーブルに、麦茶の入ったグラスが並べられた。先生は向かいに座るか迷って、結局俺の隣に腰掛けた。
「色々と話したいんだけど、先にピザ取らない?」
「えぇ……今ですか……。」
俺としてはピザの到着が遅くなってもいいから先生の話を聞きたい。こんな心持ちでエビマヨだのてりやきチキンだの選べるわけがない。
「大丈夫、ピザ食べながらでも出来る話だから。ホラ、何にするか一緒に選ぼう?」
ピザ屋のアプリを開いて一人分空いたスペースを詰めた先生は、俺の意見を取り入れる気はさらさら無いようである。俺は気乗りしないまま先生のケータイを覗き込んでいたが、画面いっぱいに広がるたくさんのピザを見ていたらお腹が空いてきた。結局俺の方がわがままを言う形で二種類に決めたのに、先生がカードで決済してしまった。せめて割り勘にしてもらおうと財布を出したが受け取ってはもらえなかった。ポイント貯まるから、なんてそれっぽいことを言われてしまっては引き下がるしかない。先生のケータイにはファストフードや飲食店のデリバリーアプリが多く並んでいて、支払いに慣れているのが窺えた。
「デリバリー、便利っすよね。気分によって色々選べるのもいいですし。」
食に興味がないと言っていたが、店を選ぼうという気持ちはあるようで安心した。しかし先生はきょとんと首を傾げている。ケータイの画面に視線を落として、一人で勝手に納得するとはにかんだ。
「アプリはいっぱい入ってるけど、基本的にはコンビニとスーパーで出来合いのもの買って来て済ませちゃう。蒼太……あ、友達ね。……俺と一緒に講師やってた背の高い赤髪。蒼太が勝手に色々インストールするんだよ。俺がいつも何でもいいって言うから、食に興味を持たせようとしてるの。効果はイマイチだけどこういうときに便利だから残してあるんだ。今度来たときはお寿司とか取ってみる?」
辻さんの名前が出てきて、そういえばいつも一緒にいるな、と思い出した。派手な見た目の辻さんと大人しそうな先生との接点がどこなのかを予想するのは難しいが、それは俺と先生の関係にも同じことが言える。辻さんも、俺と先生が仲良くしていることに疑問を抱いたりしているのだろうか。その後、辻さんの名前が話題に上がることはなく、盛り上がりに欠ける食事の話をしていた。どんな料理の名前を挙げても大好物が思い付かない先生に呆れていたら、ピザが届いた。飲み物の準備をしてダイニングテーブルへと席を移る。
「河野くん、まだ食べてないのに美味しそうな顔してる。」
箱を開けて広がったシーフードの匂いに腹の虫が鳴いた。その音を聞いた先生は嬉しそうに笑っていた。息子を見る母親のような眼差しに、胸が高鳴ってしまう。先生にはそうやって笑っていてほしい。俺のことで、俺に向かって、その笑顔を見せて。
「じゃあ、いただきます。」
二人で声を揃えて、切り分けられたピザを頬張った。エビとトマトソースの風味が口いっぱいに広がる。先生は伸びるチーズと戦っていた。ふた切れ目に手を伸ばしたところで、先生が缶ビールを一口飲むと、話を切り出した。
「それでさ、さっきの話なんだけど。」
俺から切り出していいのかわからず黙っていたので、先生から言ってもらえてほっとした。俺は返事をする為に口の中のピザ生地を飲み込む。先生は特別真剣な様子でもなく、いつもと同じ調子だ。
「学生の一人暮らしでこんな戸建て想像出来ないよね。驚いたでしょ。」
「俺、アパートだと思ってたんで……周りの友達とかみんなそうだから……。」
ミズキは地方出身で大学進学で上京して来た。何度か遊びに行かせてもらったが、大学近くのこじんまりとしたアパートで、部屋もワンルームだった。ドラマや漫画に登場する大学生の一人暮らしは大体、ミズキの部屋のようなところばかりだ。
「生家じゃないけど、ここ実家なんだ。俺、祖父母に預けられて育ったの。高校でばあちゃん、大学入学してすぐにじいちゃんが死んじゃって、今は俺しか住んでないんだ。この辺は割愛するけど、この家の相続は俺がすることになってる。だから一人暮らしだし実家だし俺の家でもあるの。ややこしいけど、わかりやすいでしょ。」
確かに疑問は解消されたが、思ってもいなかった事実を告げられて動揺してしまう。それに、新たな疑問が浮かんでくる。俺はそれを尋ねていいのか迷い、アルコールの入っていないレモンサワーの缶に口を付けた。
「その……なんで預けられたとかって、きいてもいいですか……。」
それでもここで何もきかずに話を終えるのはかえって不自然だと思い直し、恐る恐る質問した。先生はもう俺の性格なんて知っているだろうから、ここで黙り込むとも思っていないはずだ。人任せな策を掲げながら、先生の返事を待った。
「家の事情?親の仕事の都合?ちょっと説明難しいんだけど、まぁ……俺が小さい頃に母親が病死しちゃって、父は仕事に追われてたから……何やかんやあって預けられたって感じかな。」
両親との死別、という理由は予想していたが、先生の答えは俺の予想の半分しか当たっていない。どんなに難しい数式でも一般的に知られていない植物学の用語でも、本物の教師よりもわかりやすい説明を澱みなくこなす先生にしては抽象的で曖昧な答えだった。多分、何かを隠している。俺に聞かせたくない、知られたくない事実を、あんなに賢い先生が下手くそに隠していた。俺はもちろんその秘密を聞き出したくなったが、喉元まで出て来た声を、炭酸飲料で押し込める。この人を傷付けたくなかったから。俺は口を噤んだ。
「別に重い話じゃないからね。ピザほどハッピーな料理なんてなかなか無いんだから、暗い顔して食べないでよ。」
この話はおしまい、と先生は缶ビールをあおった。俺は先生が隠していることを、見えてないのだから無いのと同じだ、ということにして気にしないことにした。根に持たないことに関しては自信がある。俺も先生を真似てノンアルコールのサワーを飲み干した。
夕飯を食べ終えてからは、リビングでテレビを見ながらだらだらと過ごしていた。俺はソファに凭れてバラエティ番組に笑いながら、時々ダイニングテーブルでパソコンを広げる先生を見ていた。メールの返信とちょっとしたレポートをまとめるだけだから気にしないで、と言う先生は言葉の通り、テレビの内容に笑ったり、俺に話しかけてきたりと、リラックスした様子だ。同じ部屋でそれぞれが別のことをしながら過ごしている空気感が、親しい友人同士に許されたもののように思えて、俺は密かに喜んでいた。俺もテレビを見ながら、借りたばかりの本にも目を通す。沈黙と会話が半々くらいの夜は穏やかだった。文字を追っていたら瞼が重たくなってくる。初めて上がらせてもらった先輩の家で寝落ちするなんてこと、失礼にもほどがあるけど、漣のように寄り来る眠気さえも幸せに思えた。
「ねむたい?大丈夫?」
いつの間にか先生が隣に座っていた。缶ビールを数本空けていたが、酔いが回っている様子はない。意外と耐性があるようだ。辻さんと一緒に飲んでいたら強くなったのかな。辻さん、酒強そうだしな。俺はぼんやりした意識の中でどうでもいいことを考えていた。
「だいじょぶです……。」
「あはは、目がとろんってなってる。明日は早いの?俺と同じ時間に家出るのでもいいなら泊まっていく?」
半分も開いていなかっただろう目が驚きで丸くなる。驚く俺に驚いた先生と、同じような顔をしていたと思う。確かにこの家なら、男一人泊めるくらい余裕だろう。問題はそこじゃない。先生の家に泊まるという事実が、非現実的で理解が追いつかないのだ。
「い、いんですか……?」
「うん。明日九時には家出るけど、それでもいいなら俺は構わないよ。パジャマは蒼太ので良ければ貸せるし、下着は近くのコンビニで買えるし。」
特別なことじゃない、というような口調で話を進めるので、俺は呆気に取られたまま頷くしかなかった。
「それじゃお風呂沸かしてくるね。」
先生が犬を撫でるみたいに、俺の髪に触れた。深い意味なんてないことは、その手付きからすぐにわかった。子供みたいに眠い目を擦る俺を揶揄っているだけだとわかっているのに、雷に打たれたような衝撃が体の真ん中を過ぎていく。この人誑しめ。胸が苦しくなって、心の中で悪態を吐いた。ここへ来てやっと、先生の優しさがみんなのものだということに不満を覚えた。柔らかく微笑むのも、髪を撫でるのも、優しくするのも、全部俺だけにしてほしい。初めての感情だった。可愛いとか、愛しいとか、今までの彼女に抱いてきた愛情とは違う。独占欲。俺の少ない語彙の中に、ちょうど当て嵌まる言葉を見つけてしまい納得する。
「……辻さん、よく泊まるんですか。」
風呂のスイッチを入れた先生の背中にかけた声は自分で思っていたより冷たい。先生は、寝ぼけた子供みたいだった声がはっきりしたことに気付いたようで、俺の隣に戻って来た。
「蒼太?うん、パジャマとか下着とか置いてくくらいにはよく来てるよ。高校の同級生なんだ。あ、蒼太のパジャマは勝手に使って大丈夫だからね。俺のでもいいけど、河野くん背高いからちょっと小さいかなって思って。」
さっきまでは辻さんの名前を聞いても何とも思わなかったのに、独占欲を自覚してからはささくれのように引っかかって気に障る。高校からの仲という二人の関係に微かな嫉妬を覚えた。なんだよこれ。自分の中でも解決出来ずに困惑する。でも俺は自問自答を繰り返せるタイプではない。
「……真琴。」
「え?」
「河野くんって、よそよそしくて嫌です。下の名前、真琴っていうんでそう呼んでください。」
とっくに眠気なんて去っていた。まつ毛が長いと褒められるつり目で、先生の垂れ目を見つめた。お互いの瞳にお互いが映り込んでいる。
「まこと、くん……?」
突拍子もないことを言ったのに、先生は少し微笑んで名前を呼んでくれた。俺がわかりやすく満足気な顔をしたらしく、先生は声を出して笑った。
「ワン。」
「ヤマトじゃん。」
先生を笑わせたくて犬の真似なんかしてみた。先生は楽しそうに笑いながら、俺の髪をヘアセットを乱さない力加減で撫でる。無意識に手のひらに擦り寄ってしまった。酒のせいにしようと思ったが、今日の俺はいい子なのでアルコールは摂取していない。急に恥ずかしくなって、それでも途中で止めるわけにもいかず、振り切ってふざけることにした。セットした髪が崩れるのも気にせず自ら撫でられに行った。細い指が髪に触れるのが心地良い。
「真琴くんは甘え上手だね。女の子が放っておかなさそう。」
先生の褒め言葉もあまり嬉しくない。先生は俺のこと放っておくんでしょ。面白くなくてぐっと力を込めて額を寄せると、思っていたより距離が縮まってしまった。
「ごめん……褒めたつもりだったんだけど、そういうこと言われるの嫌だった…?」
俺の顔色を伺ってそんなことを言うもんだから、この人の優しさにため息をついてしまう。俺が勝手に不満を抱いただけなのに、そんな申し訳なさそうな顔しないでよ。
「怒ってませんよ。そういう先生はどうなんですか。先生こそ甘やかし上手だからモテてるくせに。」
意地悪なんてされてないのに仕返しのつもりできいてみる。そういえば先生と恋愛の話をしたことはなかった。昔の彼女の話とかは別に聞きたくないけど、現状俺に勝算があるのかくらいは知っておきたい。勝算?この場合の勝ちってなんだ?
「どうかなぁ。俺、恋愛ってよくわからなくて。彼女だっていたことないよ。」
意外なような納得するような、そんな返答だった。先生の隣にどんな女性を思い浮かべても、なんだかしっくりこない。手のかかる年下の女の子も、落ち着いた年上女性も、先生のことを好きになるイメージは湧くが、先生がその人だけを特別に愛している姿は想像出来なかった。先生の隣にいる赤い髪の男を思い出して、一番お似合いだなと思ってしまうのが悔しい。
「好きなひとは?いませんか?」
自分できいておいて、俺は思わず息を呑んだ。先生の好きな人が俺だったらいいのに、なんて思っていた。知らない女の子の名前でも辻さんの名前でもなく、今さっき呼んでもらえるようになった、俺の名前を口にしてくれたら。そんなことを期待していた。こんな風に気が付く恋は初めてだ。俺、先生のこと好きなんだ。好きだから、先生の好きな人が俺であってほしいし、先生の全部が俺だけのものになったらいいと思う。この場合の勝ちとは、先生にも俺のことを好きになってもらうことなんだ。
「いないね。大切な人は周りにいるけど、恋愛の好きとは違うんだろうなって思う。真琴くんは?彼女とか、好きな人とかいるの?」
誰の名前も出なかったことに一先ずは安心した。大切な人、の中に俺も入れてもらえているのかな。入っていたいような、そことは違う別の何かでいたいような気持ちがもどかしい。
「俺はいますよ。好きな人。」
ソファに置かれた先生のもう片方の手を握って、俺の髪を両手で撫でるように導いた。お互いの間は頭ひとつ分あるか無いかの距離しか空いていないので、両手を頭に添えられるといっそう近くにいるような気分になる。先生は俺の手の誘導に従って、何もわかっていないような顔のまま、両方の手のひらで優しく頭を撫で続けている。軽率なんじゃなくて、思い切りがいいのだ。何事も良いように捉えるべきである。俺は先生の目を見てにっこりと笑った。
「先生のこと、好きになっちゃいました。」
髪を梳く指の動きがぴたりと止まった。声には出ていないが、先生の口は疑問を訴える形で薄く開いている。俺は笑顔のまま先生の手に髪を擦り付けた。先生はハッとして、なぜか髪を撫で始めた。珍しく動揺しているようだ。初めて見る先生の表情。先生が何か言うまでは黙っていることにした。
「……すきって……そういう、好き?」
「はい。先生の言う大切な人より、ちょっと特別な別の何かです。」
先生は言葉を探しながら喋るので会話のテンポが遅い。そのくせ俺の頭を撫でる手の動きは止まらないから面白かった。
「えっと、まずはありがとう……。」
別にここで先生から抱き締められて、同じ気持ちだったと告白してもらおうだなんて思っていなかったので、おそらく断られるだろうという前置きのセリフにも大したショックは受けない。先生は俺を傷付けないようにプリンを運ぶみたいな慎重さで言葉を選んでいた。眉間にシワを寄せる先生を愛おしく思っていたら、笑い声が漏れてしまった。
「あ、ごめんなさい。すごい真剣な顔してるから。……いいんですよ、はっきり断ってもらって。ただ、俺が一方的に先生のこと好きなだけなんで。初恋みたいに新鮮だったから、つい口走っちゃたんです。いきなりこんなこと言って、困らせてごめんなさい。」
いつまでも俺の髪に触れている手からそっと頭を引いたら、先生はハッとして両手を下ろした。しばらく指いじりをして恥ずかしさを誤魔化そうとしている先生になるべく優しく笑いかける。年上で賢くて自分よりもはるかに大人な先生の子供のような一面を、今日はたくさん見ることが出来た。もうそれだけだって十分なのだ。
「あぁ、でも……わがまま言うようだけど、これからもずっと仲良くしてほしいです。恋愛とか関係なく、先生の話面白いし、先生と話すの大好きなんです。無理って言うなら諦めますけど、別に手を出そうとか考えてないんで、まだ懐いててもいいですか。」
数年来の親しい仲でもない同性の先輩にいきなり告白しておいて図々しいお願いだとは自覚しているが、縋らずにはいられない。今後のことを何も考えずに言った“好き”に、現在の幸せを壊されたら元も子もないのだ。考えなしに告白してしまった俺が悪いのだが、先生に拒絶されたら立ち直れそうにない。
「……それって、真琴くんはしんどくないの?好きな人が、自分のことを好きじゃないのって……苦しくない?」
先生は顔中に疑問を浮かべている。恋というものをよく知らない子供の顔。先生が俺に勉強を教えてくれたみたいに、俺も先生に恋がどんなものなのか教えられたらいいのに。
「俺の考え方だけど、好きになってもらえないのは、嫌われるよりずっといいから。だから大丈夫。」
本当の本当は、先生が俺だけの先生になってくれたら嬉しいけど、今の俺と先生との間にそんな贅沢は望まない。ちょっと期待するくらいは許してほしいけど。俺は、深く考え込もうとする先生になるべく明るく笑いかけた。俺自身が悩むことを嫌う性格なので、先生にもそんな難しい顔をさせたくなかった。
「苦しくなったら俺の方から離れますから、先生はいつも通り忙しい中でたまに会ってくれたら、それでいいんです。」
「……真琴くんが離れていっちゃうのは、ちょっと寂しいかもね。」
散々悩んで出した言葉だから恐ろしい。そう言ってもらえるだけで今は十分だと思った。先生が続く言葉を探しているところで、軽快なリズムで風呂が沸いたと知らせが鳴った。
「明日早いんですよね?お風呂入って寝ましょう。」
人の家に上がり込んでおいて何を言っているんだと思いながらも、さっさとこの話を切り上げたくて話題を変える。先生もハッとして風呂場の方へ視線を移した。
「先に入って汚れてないか見てくるね。好きに寛いでて。」
ソファから立ち上がり小走りで脱衣所へと向かう先生の背中を見送った。風呂場の扉が閉まる音と流水音が聞こえてきたところで深く息をつく。酔ってもいないのにあれこれ言い過ぎた自覚があり、多少の後悔に襲われた。しかし遅かれ早かれこの気持ちは告げていただろうし、気が付いた今言ってしまったのは正解だったかもしれない。より親しくなってから想いを打ち明けた方が相手を困らせていたと思う。
「……かわいい、って思っちゃうじゃん……。」
叶わなかった恋なのに、なぜか悲しみに似た感情は一つもない。それどころか、見たことのない先生の表情を知って喜んでいる始末だ。今でもシャワーの音に少し居心地の悪さを感じている。風呂上がりの先生のパジャマが何色なのかを想像して頬を緩ませているなんて、なんて幸せな奴だろう。たった今フラれたとは思えないほど甘酸っぱい心を落ち着かせる為に、普段はほとんど見ないクイズ番組を真剣に見るなどしていた。
「真琴くん、お待たせ。ちょっと気になるところ掃除してたら色んなところが目について時間かかっちゃった。俺、湯船浸かってないから、気にせず入ってね。着替えとバスタオルは洗濯機の上にあるよ。下着も一つ新品があったから開けて使って。真琴くん出てくるまでリビングにいるから、何かあったら呼んでね。」
リビングに戻ってきた先生は、紺色のジャージにグレーの半袖Tシャツを着ていた。絵に描いたような男子大学生の寝間着だ。先生は一人になって落ち着いたのか、先ほどまでのやり取りなんて無かったかのように振る舞っている。嬉しいような寂しいような、複雑な感情を抱えて、上手く笑えていただろうか。
「ありがとうございます。じゃあお風呂借りますね。」
先生の横を通り過ぎたとき、濡れて少し癖が出ている黒髪からはさっぱりとしたシャンプーの香りがした。色が白いせいで、シャワーのお湯に温められた頬や腕はほんのりと桃色に染まり、そんな色をした果実のように瑞々しく見える。男子大学生としては当たり前だが、こんな姿を他の誰かに見せてきたのだと思うと、勝手に腹を立ててしまう。自分でも無意識な独占欲を、どうか悟られませんように。浴室は広々としていて、改めて先生の家庭環境が独特なことに気付かされる。もっと知りたい。先生があえて隠していることを、誰かには明かしているなら、その権利を俺も求めてしまう。俺は入浴剤で薄青に染まった湯に鼻まで浸かった。ゆっくり息を吐くとぶくぶくと泡が弾ける。今までしてきた恋が全部霞んでしまうくらい、今抱いている気持ちは大きくて重たくて、先生が話してくれるどんな問題よりも難しい。頭の中でぐるぐると回る思考を一旦止めようと、シャワーを浴びて頭を洗った。体まで洗い終えると心も少しはすっきりしたように感じる。貸してもらったパジャマは辻さんのものということで複雑ではあるが、嗅ぎ慣れない人の家の洗剤の香りには胸が躍った。
「お風呂、ありがとうございました。」
リビングに戻ると、先生はソファの背に体を預け、俯いたまま眠っていた。足音を立てないように静かに近付いて、息を潜めて寝顔を見つめる。眼鏡がずれて瞼とまつ毛がよく見えた。髭の跡もニキビも無いまっさらな頬は、風呂上がりの熱を忘れて雪のような白さに戻っている。薄い腹の上に乗った手は呼吸に合わせてゆっくりと上下し、先生が本当に眠っているのだとわからせてくれた。今さっき好意の告白をしてきた男の前で居眠りなんて無防備過ぎて不安になる。俺が無闇矢鱈と手を出さないと信用してくれているのだとしたら嬉しいけれど、やはり俺の頭の中では、先生に好意を寄せる知らない誰かの影を想像してしまう。
「……先生、お風呂上がりましたよ。ね、先生。」
そっと肩を揺らして起こす。先生は、鈍い動きで瞼を開けて二、三度まばたきをしてから、顔を上げた。焦点の結ばれない瞳が宙を彷徨った後、俺の姿を捉えて大きく見開かれた。慌てて口元を拭い、それから時計を見て、また俺の顔へと視線が戻る。涎が垂れていないか心配したのであろう動きが幼くて可愛かった。
「ごめん、ねちゃった。」
「毎日大学行って、そりゃ疲れてますよね。今日は俺のわがまま聞いてくれてありがとうございました。本当に楽しかったです。」
まだ微睡を背負っている先生の、いっそう垂れた目尻を撫でたいと思った。先生は優しいし、今は寝起きだからそんなことしても許してもらえそうだと思ったが、調子に乗るのはやめておく。
「おれも楽しかったよ。夏休みに入ってから、なかなか会えてなかったから……久しぶりに話が出来て良かった。」
この人は、自分が目の前の男から好かれているという事実を忘れているのでないだろうか。それくらい、俺を喜ばせるようなことばかり言う。わざとそんなことを宣ってこちらの反応を愉しんでいるのではないかと、意地悪な想像をしてしまうくらいに、先生の言葉も声も表情も、全部がずるい。先生は、ぐっと伸びをしてソファから起きた。人一人分の重さで凹んだソファの窪みが、先生の質量なのだと思うと不思議と愛おしい。白過ぎて季節感に迷う素足の美しさ、着古したTシャツから伸びる細い腕の儚さ、目に映る先生のすべてが、特別なもののように見えてくる。この人が俺のことを好きじゃないという、ただそれだけのことが、いきなり鋭利な刃物のように俺の心を突き刺した。鼓動がうるさい。胸が苦しい。
「……犬がじゃれてるだけだと、思ってください。」
俺の横を通り過ぎた先生を抱き止めた。薄い背中を後ろから抱き締め、まだ少し湿っている髪の冷たさを頬に感じた。手は出さないと言ったばかりなのに。先生が驚いて身を強張らせたのが、腕の中でありありとわかる。それでも離してやれなかった。
「……困らせないで。おねがい。」
突き飛ばされたって仕方ないのに、先生は俺の腕を無理に振り解こうともせず、弱々しい口調でそう言った。懇願までされて、俺は虚しくなって体を離した。先生は振り向かない。
「ごめんなさい。」
今まで、好きな人が出来たらどうしていたのかもよく思い出せない。好きって言ったら、その後はどうしていたんだっけ。先生は返事をせずに、俺を二階の客間へ案内した。どんな顔をしているのかもわからない。
「明日、七時半に起こすね。何かあったら奥の部屋にいるから、起こしていいよ。……じゃあ、また明日。おやすみ。」
最後に見た顔は、少し疲れが滲んでいるものの普段と変わりのない穏やかで優しい笑顔だった。
「おやすみなさい。」
程よく冷えた部屋の中でタオルケットを頭から被る。隣の部屋のドアが閉まって、ベッドの軋む音が聞こえた。
「ごめんなさい。」
俺は壁を挟んだ向こうにいる先生に、もう一度謝った。ごめんなさい、どうしても諦めきれません。先生が俺に恋をしてくれるまで、俺はずっと先生のことが好きです。
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