2 運命とか奇跡とか


 うん-めい 【運命】

 人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく。めぐりあわせ。転じて将来のなりゆき。


 き-せき 【奇跡・奇蹟】

(miracle)常識では考えられない神秘的な出来事、既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的心理の徴と見なされるもの。


 引用:広辞苑 第六版 岩波書店


「……河野くん。そろそろ俺の電子辞書返してくれない?」

 午後の授業は始まっているが、木曜五限は何も履修していないので空いている。理学部棟西館一階のカフェテラスで優雅にコーヒーを飲むことだって出来る。

「俺、高校卒業したときに後輩にあげちゃったんすよ。電子辞書ってこんなに便利だったんですね。」

 そして俺の向かいに座っている白衣のお兄さんは、なんとあの平井先生だ。サークル飲みの夜、必修授業の大教室、ランチタイムの学食、運命と奇跡に導かれ出会った俺たちは、一緒にお茶をするくらいに親しくなった。


 食堂で自己紹介をした後、どうしても先生との会話を続けたかった俺は、その日の授業でわからない点があると嘯いて、別日に解説をしてほしいと、初対面の先輩相手に無理なわがままを言ったのだ。突然のことに驚いた様子の先生だったが、俺の表情を見て予定を確認してくれた。おそらく捨てられた子犬のような目をしていたはずだ。俺のこの顔は、頼み事に効果がある。明日の放課後が空いていたので、約束をこじ付ける。後先や深いことを考えずに勢いだけで行動してしまう性格が吉と出た。

「それと、連絡先交換してもらってもいいですか?」

 そんなことまであっさりと口に出せるのが俺のいいところ。だって気になるし、仲良くなりたいし。先生も迷ったり渋ったりすることなく、すんなりとメッセージアプリのアカウントを教えてくれた。アイコンはホワイトボードに描かれた簡易な花のイラストだ。

「先生のアイコン可愛いっすね。」

「あぁ、これ?学科の友達が描いてくれたヒマワリ。河野くんのアイコンは自分?髪、綺麗な色だね。」

 画面と俺自身を交互に眺めては、目を細めて笑う。褒められたことが嬉しくて、かえって落ち着かない。

「アッシュベージュっていうんですよ。」

「へぇ、おしゃれな色。似合ってるよ。」

 ミズキやリサちゃんやリョウや、今まさに席で待たせているあの子にも褒めてもらったけれど、先生から言われた似合ってる、が何故か一番嬉しかった。

「じゃあまた明日。場所とかは追って連絡するね。午後も授業あるのかな?頑張ってね。」

「はい!先生もエビバーガー食べて頑張ってください!」

 向こうは四年生なので、もう授業は無いかもしれない。しかし昼食を買ったということは、まだ構内に残るつもりなのだろう。理系の学生が何をやっているのかさっぱり見当もつかないが、研究やら実験やらがあると予想してエールを送り返した。先生は戻ろうと俺に背を向けたものの、少し立ち止まり今一度振り向いた。

「その……俺って“先生”なの?」

 自分でも意識せずに使っていた。そう呼ぶことに違和感が無いほどしっくり来ている。

「はい!」

「元気な学生だなぁ。」

 大きな声で返事をしたところ、先生はしっかり苦笑いを見せてくれた。


「河野くんは人と仲良くなるのが上手いよね。」

 夏が始まったというのにきちんと白衣を着込んだ先生は、カフェラテの濁りを、グラスを回して混ぜている。

「ほとんど勢いでしたけどね。先生ともっと喋りたいっていう気持ちだけ。」

 元来、楽しいことが大好きで、ややこしいことが苦手な性格だ。気になる人には近付いていくし、合わないと思ったらそっと離れる。今のところ先生への興味は続いているので、こうして馴染みのない理学部棟までのこのことやって来た。

「結局、勉強教えてくださいっていうのも嘘だったし。」

「かわいい嘘じゃないですか。」

 約束した日、本当はこれといった質問は無く、ただ話がしたかっただけだと白状した。穏やかな表情から一変、怪訝な顔を見せた先生は、僅かに警戒しているようだった。何も脅して金品を巻き上げようだとか、憂さ晴らしに暴力を振るおうだとか、ましてや取って喰おうだなんて思っていない。必死の訴えが言い訳に聞こえないよう、どうにか信じてもらおうとした。仲良くなりたいだけ、という幼児のような泣き言を、明るい髪色のまあまあデカい男子大学生がほざいている。その滑稽さに呆れたのか、おそらく違うだろうけど、俺の熱弁に胸を打たれたのか、交換したばかりの連絡先は消さないでいてくれた。その日は図々しくも、先生に数学の話を強請り、素数の魅力について語ってもらった。9は素数っぽいけどそうじゃない、という点で共感し二人で笑っているとき、自分まで賢くなった気がした。

「まぁ、河野くんと話してるの楽しいからいいんだけどさ。」

 先生と親しくなって一ヶ月。たったひと月だが、わかったことがある。彼は本当に優しい。最初は、先生の微笑みが俺だけに向けられた特別なものだと勘違いしそうになったが、彼の笑顔は陽光のようなもので、誰にでも分け隔てなく降り注ぐ。そして彼は、人を不快にさせるようなことは口にしない。色々な言葉の柔らかい表現を知り尽くしているかのように会話が上手かった。俺が女の子だったらとっくに落ちている。

「毎日会ってくれてもいいんですよ。」

 先生が同じ学科だったら、と思うが、俺がここの理学部に合格するなんて想像上でも不可能だし、逆に先生が総教にいたら、魔法のような授業には出会えていない。それでも、もっと先生と話していたかった。

「俺の数学トークにも限界があるからね。それに今週末からテスト期間でしょ。再来週泣きたくなかったら、この一週間で対策するんだよ。」

 なるべく考えないようにしていたテストの話題を持ち出され、黙り込んでしまう。大学のテストは、高校までの期末考査などとは違って、わざわざ勉強するものではないと思っていた。まさか大学にも試験前という期間があり、補講等が無い授業は休講、つまりは自習をしなければいけない。一週間ほとんど休講になって、真面目に試験勉強に励む大学生がどれくらいいるのか。少なくとも俺は該当しない。

「一緒に勉強してくださいよ。」

「俺に教えられること無いでしょ。ほら、リョウ君?に声かけて二人で頑張りな。」

 テーブルに突っ伏して駄々をこねる姿にも、先生は笑ってくれる。何でもない会話の中でリョウの名前を出しているので、先生は見たこともない俺の友人の名前を知っている。リョウと二人で真剣にテスト勉強をしている光景は、人を笑わせようとふざけているようにしか見えない。

「テスト終わったらまた会ってくださいね。」

「テスト終わったら夏休みだよ。」

「夏休みでも会ってくださいよ。」

 テストが返されたら、七月の終わりから九月の半ばまで夏休みなのだ。いくつになっても心が踊る響き、夏休み。理系学生は研究や実験で登校することが多いが、俺たちはサークルの活動日にしか来ないだろう。会える頻度は減ってしまうが、俺は先生の連絡先を知っている。約束をすればこうして会えるのだ。

「先生が夏休み会ってくれるならテスト頑張れる。」

「俺が鼻先のニンジンってこと?」

 くすくすと笑う顔は、男の先輩なのに赤ちゃんみたいで可愛い。こんなにも興味が湧いてくる人に出会ったことがなかった。

「じゃあ、次会ったときのために面白い話考えておくね。」

 俺にとっては特別だけど、先生にとっての俺はたまたま懐いて来ただけの後輩にすぎないんだろうな。同じ学部、同じ学科の後輩の方がもっと親しく、もっと近い距離にいるかもしれない。それでも俺の為に何かをしてくれることを特別だと勘違いしておきたくなる。勉強なんて受験期以来ほとんどしていないので、テスト対策への自信はないが、先生の微笑みだけで不思議とやる気が満ちて来るのだった。



「これ、答え出せんの?」

 現代社会Ⅰのテスト二日前。俺は学部棟の空き教室で、ノートと教科書を交互に睨み付けながら嘆いてばかりいた。向かいに座ったリョウも息抜きと言ってケータイを触り出してから、しばらくペンを持っていない。

「記述問題なんて答えひとつじゃないじゃん。なんて書いたら正解なんだよ。」

 必修で受講者も多い科目なのだから、全問四択にすれば採点も楽だろうに。俺は先輩からもらった去年の問題を見つめて、最後の問いにため息をついた。

「グラフから読み取れることをテキトーに書いたらいいんだって。」

「なんでここで文章書かせるかね。最後まで選択肢にしてほしい。」

 文句を言う暇があったら対策をすればいいだけの話だが、どうにも気が乗らない。今日はここだけ終わらせて、帰りにラーメンでも食べに行こう。テスト期間はサークルの集まりも減っている。

「あ、マコちゃんとリョウじゃん。」

「勉強してたの?」

 開けっ放しだった教室のドアから、ミズキとリサちゃんが顔を覗かせた。

「おつかれ。うん、現社やってた。」

「ウチらも図書館でレポートやる?って話してたところ。ここで一緒にやってもいい?」

 ミズキはトートバッグを肩から下ろし、寮の隣の席に置いた。リサちゃんもリュックからファイルを出している。

「俺ら帰るつもりだったんだけど……。集中力切れてもうムリ!」

 完璧とは言えないが、テストは何とかなりそうだ。他にも英語の対策が残っているが、今日はこれ以上頑張れる気がしない。

「えー、じゃあ普通に喋ろう。授業無いと全然会わないからさ。」

 ミズキは開きかけた教科書をすぐに閉じ、帰る準備をする俺たちを引き留める。リサちゃんも筆記具を出しただけで、ペンケースを開ける様子はない。確かに授業が無いこの頃、二人とは会っていなかったので、久しぶりといえばその通りだ。ほぼ毎日顔を合わせていたのだから、この機会に無駄話をするのも無駄ではないだろう。

「勉強いいの?」

 今更ノートに向かうとも思えなかったが、一応確認を取ると、全員が肩から力を抜いた。

「あ、ウチお菓子持ってるよ。」

「俺もチョコ買って来たからみんなで食べよ。」

 ミズキとリョウの差し入れをつまみながら、テストへの愚痴やバイト、サークルについて思い思いに話した。俺は高校時代、サッカー部に所属し、強豪校ではなかったもののそれなりに忙しくしていた。大学生になったら絶対アルバイトをするんだ、と意気込んでいたが探すのが億劫で、いつの間にか夏休み直前になってしまった。

「みんなどこでバイトしてるの?俺もそろそろ始めたいんだけど。」

 リョウは受験を終えてから家の近くのスポーツジムでバイトを始め、今もそこで働いている。

「ウチら一緒に居酒屋でバイトしてるよ。……マコちゃんも来たら?」

 そういえば二人は同じところで働いていると聞いた覚えがある。居酒屋だったら髪色やピアスにも寛容そうだ。

「ほら、隣のクラスのあの子もいるしね?」

「そうだよ!マコちゃん入ってくれたらあの子も嬉しいんじゃない?」

 女子二人は向かい合って楽しそうにしている。俺はしばらくフリーズして、頭の中で二人の言葉を繰り返した。

「あれ?もういいの……?」

 振ったか振られたか、どちらにせよタブーな話題だと思ったのか、リサちゃんは声をひそめて尋ねてきた。俺はそこまで聞いてようやく思い出した。

「あぁ!あの子ね!」

 少し前までは親しくなろうと、リョウに根回しまで頼んだあの子。大人しくて控えめで笑顔が可愛らしい小柄な彼女を思い浮かべる。そういえば最近はこまめに連絡を取ることもなくなった。

「あんなにガツガツ行ってたのに、急に冷めたよな。」

 常に行動を共にしているリョウは気付いていたようで、ここぞとばかりに身を乗り出してくる。

「いやいや、今でもめちゃめちゃかわいいな、とは思ってるよ。」

 その感情は事実だ。思い出したら恋しくなるなんて単純過ぎる。

「マコちゃんってもっと派手でギャルっぽい感じの女の子がタイプなんだと思ってた。なんか意外だな。」

 ミズキの言わんとしていることはわかる。自分自身がそれなりに目立つ身なりをしているので、同じようなタイプの女の子が隣にいる方がイメージしやすいのだろう。それでも、高校のときに数人いた彼女はみんな、明るいグループの中でも落ち着いていて、守ってあげたくなるような子ばかりだった。

「ギャル好きなのはリョウの方。」

「やめろって。」

 突然の被弾に慌てるリョウを三人で笑う。

「彼女ほしいって言い合ってたのに、コイツ最近全然言わなくなってさ。……俺に黙って彼女作った?」

 笑われて不貞腐れたリョウは、チクチクとこちらを攻撃してくる。大学生活に必要なのは、友情と恋愛と酒。そんなことを言いながら二人で理想を語り合っていた。思い返せばその場のノリでダウンロードしたマッチングアプリもしばらく開いていない。

「……もしかして彼女って、理系の子だったりしない?」

 意を決した様子で小さく挙手して発言するリサちゃんは、探偵のような顔付きだ。俺は首を傾げ、続く言葉を促した。

「写真サークルの友達がよく学食のあたりで撮影してるんだけど、何度か理系の学部棟へ向かうマコちゃんを見かけてるんだって。ミズキ、リョウくん、これは怪しいですよねぇ?」

 リサちゃんの友達が誰なのかはわからないが、向こうは俺のことを知っているらしい。前にサークルのサトミさんから、俺が密かに人気だと聞かされた。アプローチを受けることも、そんな空気すら感じることもなかったので実感はなかったが、案外目立っているようだった。

「リサちゃん、これは怪しい恋の匂いがしますねぇ。」

「コイツは確実に理系清楚女子と何かありますよ!」

 先ほどとは立場が打って変わり、俺以外の三人が下手な茶番で笑っている。話と期待が大きくなってきたので、この辺でちゃんと説明した方が良さそうだ。

「盛り上がってるところ大変申し訳ないんだけど、俺が会ってるのは男の先輩です。」

 チョコレートを一つつまんで三人を見れば、あからさまに熱の冷めた目で見つめ返された。

「……新しい恋じゃなかった。」

 リサちゃんは興味をなくし、まるで俺が悪いとでも言うかのようにため息をついた。いやいや、俺のせいじゃないでしょう。リョウに笑いかけてみたものの、こっちも面白くないと言わんばかりの表情を浮かべている。

「俺は何も言ってないじゃん!」

「楽しみにしてたのになぁ。」

 ミズキは揶揄うようにわざとらしく肩を落とした。

「男の先輩って?」

 恋の話ではなくなった途端に口数が減ったリサちゃんに変わって、リョウによる質問が始まった。

「ほら、六月に理学部の四年生が授業してくれたじゃん。」

「えっ!あの赤髪のイケメン?」

 ガタリと椅子を鳴らして驚いたミズキは、教壇に立つ長身の男を思い出しているようだった。

「あ、いや、黒髪で眼鏡の方……。」

 確かにあの赤い髪の先輩の方が印象には残っているだろう。なんせ顔が良い。立ち上がらんばかりに食い付いたミズキには残念な返事かと思われたが、思っていたよりキラキラとした目のままだ。

「面白い数学の授業してた人だ!」

「そう!」

 ミズキが先生のことを覚えていたのが嬉しくて、俺の声も大きくなる。自分が褒められたように誇らしい。

「いつの間に仲良くなったの?」

 同級生ですら接点のない理系学部の四年生と週に何度も会うようになったら、そりゃ疑問に思うのも無理はない。リサちゃんはまたも探偵の顔をしている。

「あの授業の後、偶然学食で会って、もっといろんな話聞きたかったから別日に会う約束して、ついでに連絡先も交換した!」

 先生の白い手に握られたエビバーガーを思い出し、まだ出会ってからひと月しか経っていないのだと、一人勝手にしみじみしてしまう。

「ナンパじゃん。」

「マコちゃんらしいね。」

 隣同士のリョウとミズキが感心と呆れの、ちょうど真ん中みたいな苦笑を浮かべている。ナンパのような声のかけ方を俺らしいと言われてしまうのは不本意だが、勢いで話を進めたことに違いはないので言い返す文言は思い浮かばない。

「その先輩とは仲良しなの?」

 リサちゃんからの問いかけに、すぐさま頷いてしまった。もう十分仲良いよね?俺と先生の仲を知る者はお互い以外にいないので、確かめようがない。約束したら会ってくれるし、話もしてくれるし、テストを控えた俺に頑張れと言ってくれる。唯一無二の後輩とまで言う図々しさはさすがに無いが、嫌われてるとも思えなかった。

「男の先輩ってことは、まだあの子に気はあるってことだよね?やっぱり同じとこでバイトしない?」

 目に輝きを取り戻したリサちゃんがスナック菓子を飲み込んで、そのキラキラした瞳で俺の顔を覗いてきた。リサちゃんは、青空に浮かぶ雲の写真にラブソングの歌詞を添えてSNSに投稿するような女の子だ。恋愛話には大変敏感である。眩しい眼差しに照らされながら、俺はあの子の上目遣いを思い出した。メッセージアプリでのやり取りや、すぐに赤く色付く頬が懐かしい。飽きてしまった。一言で言うならそれに尽きる。こんな言い方をしたら、あの子にではなくリサちゃんに怒鳴られそうだ。今でもあの子のことは可愛いと思うし、彼女にしたいとも思う。でも、あの子と会う為に空けていた放課後の時間は今、先生で埋まっている。あの子がにこにこしながら話す飼い犬のエピソードより、先生が自分の作業の片手間に聞かせてくれる数学や理科の話の方がよっぽど面白い。俺の興味が、あの子から先生に移ってしまった。

「うーん。バイトはもうちょっと考えてから決めようかなぁ。」

 あえて、あの子に対する気持ちは黙っておいた。何か言おうものなら、女の子から怒られてしまう。

「えぇ〜、マコちゃん入ってくれたら楽しくなりそうだし、あの子も喜ぶと思うのにな。」

 ミズキは頬杖をついて、俺がバイトの誘いを断ったことをを残念がっている。俺も、友人が多くいるバイト先の方が良いと思うが、あの子が働く居酒屋にはあまり惹かれない。

「……お前は本当に清楚で大人しくて控えめ、がタイプだよな。」

 女子二人にヘラヘラと笑顔を向ける俺に、リョウがぼそりと呟いた。その声は耳に届いていたがあえて聞こえないふりをした。多分リョウは、俺があの子への興味を失いつつあると気付いている。普段がさつでミズキから怒られているリョウのくせにこんなところで勘が鋭い。

「マコト、先に彼女が出来た方に飯奢るって約束、忘れるなよ?」

 リョウはもう勝ちを確信した顔で言い放った。

「……俺があの子に飽きても、向こうがまだ俺に気があるなら、全然勝ち目はあるけどね。」

 自信に満ちた顔が気に食わなくて、思っていたことを口に出してしまった。そこそこ声を張って。隣から害虫を見るような視線を感じたが、今リサちゃんを振り返る勇気は持ち合わせていない。俺の性格、よく言えば明るく楽観的。悪く言えば軽薄。今のは完全に悪い方だ。これをまさに軽薄と言う。電子辞書に今の俺をそのまま載せてほしい。リサちゃんのため息に責められながら、テスト終わりの夏休みに思いを馳せていた。





 理学部棟の入り口付近。共有スペースにいつものメンバーが揃っている。俺、平井藤臣と、隣には蒼太、向かいには同じ学科の柿田かきた、その横に似た顔の女性が二人、双子のルイちゃんとメイちゃんが座っている。放課後、蒼太と歩いていたら、柿田と双子姉妹がテーブルを囲んでいるのが目に入り、会話に混ぜてもらった。

「おい、藤臣。数学科の奴らから聞いたぞ。」

 席に着くや否や、柿田は俺を睨み付けた。俺は、彼からそんな鋭い視線を浴びせられるような覚えはなく、思わず蒼太に助けを求めた。

「お前、最近総教の後輩と仲良くしてるみたいじゃねぇか。」

 目が合った蒼太は耐え切れなくなって笑い出し、双子姉妹も呆れている。俺は思ってもいなかった指摘に、まばたきの回数が増えた。柿田は構わず続ける。

「コミュニケーション能力の高さが一周回って気味悪い。とうとう文系の学生までも懐柔するとは。お前、院進の目的はこの大学を手中に収めることじゃないだろうな?」

 常に仏頂面の柿田は、いっそう渋い顔で俺に言葉を投げつける。

「悪いけど、コイツは既に学生部での活動を利用して、総合教養学部の生徒を誑し込むことに成功してるけどな。」

 助け舟が泥舟だった。蒼太は、柿田の不満を助長するような発言をして満足気だ。

「やめてよ。利用してないし誑し込んでないし手中に収めようともしてないし。」

 柿田の一重瞼と三白眼は、俺への非難を止めない。蒼太は完全に面白がっている。

「柿田は一際、総教に苦手意識あるからね。フジくんの慈愛が総教にも分け与えられるのが嫌なんでしょ。」

 高宮たかみや姉妹の姉であるルイちゃんが、おしゃれな眼鏡の細いつるを、綺麗な色に塗られた爪の先で押し上げた。ルイちゃんは蒼太と同じゼミで宇宙の力学について研究している。ゼミ長を務めるしっかり者で、ショートカットに眼鏡の容姿も相まって学級委員長のような印象だ。そんなルイちゃんからの言葉に、柿田はぶつぶつと文句をこぼす。

「別にそういうんじゃないけどさ……。総教と仲良くなったって何の得も無いだろ?よく合ってるらしいけど、何か実りのある話してんの?成果は?」

 この柿田伊織かきたいおりという男、四年間を共に過ごしてきたのですっかり友人になったが、変わった奴なのだ。元々、一流国立大学への進学を目指していたのだが、現役時代には残念ながら合格出来ず二浪したものの、結果こうして桃野谷へ通うことになった。一年生の頃はもっとずっと尖っていて、私大の桃野谷に来たことをあからさまに嘆いては、周りに嫌な顔をされていた。俺たち、特に双子姉妹と知り合ってからは丸くなったが、たまにこうして彼らしい一面が顔を出す。

「またそんなこと言って。人付き合いって研究とか実験とは違うんだから。私たちだって損得勘定でいおりんと一緒にいるんじゃないよ。別にいおりんといても大して良いことないし。」

 はっきりとした物言いで柿田の反論を封じたのは、妹のメイちゃん。姉とは対照的に長い髪が肩の下で揺れている。眉間にシワを寄せた柿田を、下の名前からつけた愛称で呼べるほどに社交的な性格だ。

「メイちゃんの言う通りだよ。自分にとって都合が良いから仲良くするなんて、そんな器用なこと俺には出来ないしね。それに話してて楽しいっていうのは十分得してるんじゃないかな。」

「……こんなに優しい論破があるかよ……。」

 言い負かすつもりはなかったので、大人しくなった柿田に謝罪の言葉をかけてしまう。ルイちゃんは、よくやったと言わんばかりに妹を褒めていた。

「まぁ、フジの優しさは施しだから。誰にでも等しく、優しい。」

 蒼太は物語を読み上げるみたいに芝居がかった口調で言った。

「ほぼ神じゃん。」

 柿田の素早い返答が面白くて、みんなで大笑いしてしまった。

「でもほら、フジくんの優しさは時に人を狂わすでしょ。今仲良くしてる後輩は男の子?女の子?」

 爆笑から一転、メイちゃんは思い出したかのように真面目なトーンに戻った。その実、こんな俺にも好意を抱いてくれる相手がいた。自分自身にはあまり自覚のない“優しさ”という付加価値を魅力だと思ってくれただけに過ぎないのだろうけれど、年に数回、想いを告げられることがある。それは異性が大半だったが、同性からの告白も数回体験した。全て断ったけれど、好意が歪んでしまう人もいて、ストーカーじみた行為に悩まされるようなこともあった。みんなには心配をかけたし、親しい異性の友人としてルイちゃんとメイちゃんは嫌がらせを受けたらしい。近頃は告白そのものや噂話も耳にしないので安心していたが、周りは本人以上に気にかけてくれているようだった。

「男の子だから大丈夫だと思うよ。素直な感じで……何て言ったらいいんだろう、コソコソ何かをするようなタイプではないんじゃないかな。もう既にだいぶ強引だし。あと女の子にモテそうだから、万が一にも俺のこと好きになったりはしないよ。」

 男の子だから、はこの際説得力に欠けるが、河野くんからは危険な予感はしない。偶然の出会いから相手のペースで親しくなり、俺にしては珍しく振り回されてばかりだが、相手に悪意が無いのは伝わってくるので一緒にいて面白かった。今までの友人にはいないタイプが新鮮で、先輩後輩としての立場もあってか無理なく受け入れている自分がいる。

「辻が目光らせておくのよ。フジくんに何かあって一番心配するの、あなたなんだから。」

「蒼ちゃんがパパで、お姉ちゃんがママだもんね。」

 蒼太に釘を刺すルイちゃんも、彼に負けじと俺の身の回りの心配をしてくれる。メイちゃんが言う冗談も言い得て妙だった。

「フジの交友関係にまで口出しし始めたら、それこそ狂ってるよ。俺はそっと見守るだけ。」

 ね?と同意を求められ思わず頷く。高校の同級生として知り合った蒼太との付き合いは長く、世話になっていると身に沁みて感じているが、過保護だと思ったことはない。

「とか言って、他大との研究発表の後、飲み会で酔った藤臣を迎えに来たこと、俺は忘れてないからな。」

 柿田は苦い顔で俺たちを交互に見た。スラングで“リア充”と呼ばれる事物をこれ見よがしに面白くないと思うタイプの柿田の目に、俺たちはどう映っているのやら。

「俺たちは家族みたいなもんだから。今更恋愛とかは考えられないよなぁ。それに、恋するならライバルの少ない高校のときにもう手に入れてる。」

「……お前、自分の顔が俳優並みに整ってることを自覚しろよ。セリフが様になってて腹立つわ。」

「出た、僻みの柿田。」

「違うよお姉ちゃん、嫉みの柿田だよ。」

 この四人が喋っているだけのラジオ番組があったらずっと聞いていられる自信があった。恋愛感情に疎い俺は、こうして友情で繋がった関係に居心地の良さを感じる。俺は、恋というものに答えが無いのはわかっていながら、解を求めてしまう。人の恋心に応えられる自信がないのだ。興味がない、と言えば話は早いが、実際のところは恋の実態を理解出来ていないというのが正確な表現だ。運命や奇跡を、確率の話ではなく、文学的な意味として信じることが出来たら、俺にも恋という問いの答えが出せるのだろうか。

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