循環小数を割り切ってよ
入江 怜悧
1 先生
永遠に続く数字の羅列を美しいと言う人がいる。割り切れないものを挙げるなら、彼はきっと循環小数と答え、俺は恋と答える。
二匹の犬の像が門の前に鎮座している。“狛犬門”とも呼ばれる
「マコちゃん、おはよ。」
学部棟へ向かう途中で、同じ学科の女子生徒から声をかけられた。ミズキとリサちゃんだ。総合教養学部現代コミュニケーション学科。俺たちが所属しているのは、通称・‘’
「おはよー。今日めっちゃ暑くない?」
俺は大袈裟に薄手の長袖Tシャツの胸元を摘んで、暑がるそぶりを見せる。オーバーな仕草に、女子二人は楽しそうに手を叩いて笑った。どこにでもいる明るい大学生だが、ここ桃野谷ではあまり見かけない光景だ。
「てかさ、さっき駅で他学部の男子とぶつかったんだけど、目合ったのに無視されたの。こっちは謝ってるのにさ。ありえなくない?」
中庭にほど近い学部棟の廊下を歩きながら、リサちゃんが思い出したかのように、今朝の出来事を愚痴り出す。
「メガネだったから多分理系学部の奴だよ。」
「リサが可愛いから緊張して喋れなかったんじゃない?慣れてないんだよ。」
明るい声でずいぶんなことを言う。俺は二人に合わせて頷きながら、一限目で使う講義室へ入った。空いている席に並んで腰を下ろすと、偶然後ろにも知り合いのリョウが座っていて、話に花が咲いた。
「まぁ、向こうからしたら邪魔者ってカンジなんだろうな。理系の名門とか言われてる桃野谷に文系学部が新設されて、その上他学部と比べて偏差値も高くないし。」
話を聞いていたリョウが、半笑いでリサちゃんを宥める。女子たちがあんまりなことを言うのを咎められないには、俺自身も思うところがあるからだ。
俺たちが在籍している総合教養学部とは、八年前、桃野谷大学に新設された学内唯一の文系学部だ。一般的に教養学部には文理の境は無いとされているが、ここでは主に、外国語や現代社会などを扱う為、進学情報誌などでは文系として紹介されている。理学部、工学部、情報学部からなる理系大学に新しい風を、という名目で作られた新学部は見事、嫌悪の対象となってしまった。
総合教養学部には、俺たちがいる現コと、国際コミュニケーション学科の二つがあり、そのどちらにも比較的明るく活発な若者が集まっている。身も蓋もない言い方をすれば、多くの理系学生とは対照的なポジションで生きていたタイプばかりなのだ。お互い積極的に親しくなろうとすることもなく、桃野谷の文理は犬猿の仲だと、大学の外でネタにされるまでになってしまった。俺も理系学生の冷たい視線や、あからさまに忌避する態度には辟易している。新設で、実績のある他学部と比べて偏差値が低いとはいえ、桃野谷に合格出来るだけの学力があったのは事実だ。“桃野谷の総教”と言えば世間の評判は良い。気にしないことが最善だ。
「他大の学生だと思ってスルーが一番じゃない?どうせ関わることなんてないんだし。」
そうまとめたところでチャイムが鳴った。学部間での交流がほとんどない、という結論で納得した俺たちは、来たる六月末に、とあるイベントがあることをまだ知らない。
梅雨の雨模様は、俺たちフットサルサークルにとって迷惑でしかない。芝生のグラウンドにも、しとしとと雨が降っている。俺たちは体育館でボールを転がしながら、空が暗くなるのを待っていた。今日はサークルの飲み会がある。サークル内で最高学年となった三年生が、嬉しそうに毎月開いている親睦会で、ここひと月くらいは、フットサルより飲み会がメインのサークルと化している。未成年も多いが、誰も何も言わないということは、暗黙の了解。体質的に飲めない人以外は、ほとんどのメンバーが思い思いの酒を頼んでいる。俺は別に酒が美味いから飲んでいるわけではなく、場の盛り上がりに酒が便利だから飲んでいるようなものだ。今日も、仲の良いメンバーと騒ぐことがメインだと思っている。
「マコちゃん、今日も一年生の幹事お願いしていい?」
現コの友人とパスを出し合っていたところへ、三年生の先輩から声をかけられた。国際コミュニケーション学科、略して‘’
「お疲れさまです。いいすっよ。任せてください!」
ふざけて凛々しい顔で承諾すれば、優しく肩のあたりを叩かれた。ボディタッチだ。視界の隅で友人が苦笑いしている。サトミさんが俺のことを気に入ってくれているのは痛いほどよくわかっていた。彼女が有名なのは顔がキレイなだけじゃない。それもわかっている。こんな美人さん、俺みたいな年下にはもったいないし、俺はもっとこう、一途な感じのちょっと控えめでかわいらしい子がタイプと言いますか。それに、サトミさんが狙っているのは俺だけではないようで、同じく一年のユウキ、二年生の神田さん、ヨッシーさんあたりもそわそわしているらしい。俺はサトミさんの新しいネイルを褒めながら、彼女の奥の暗い茶髪をちらちらと見てしまう。現コの同級生で、別のクラスの女の子だ。大学デビューで染めた髪色に慣れていないところとか、男の先輩と話すときに顔が赤くなってしまうところが可愛い。以前、合同授業でグループワークをした際に同じ班になった。どこに惚れたわけでもないけれど、彼女にするならあの子みたいな大人しい子がいい。受験期に当時付き合っていた彼女と別れてから、今に至るまで浮いた話が何もないので、そろそろ恋人がほしい。ハッピーな大学生活に可愛い彼女は必須だろう。リョウに相談して、今日の飲み会は彼女の隣に座れるようにしてもらおう。
駅前の居酒屋では年齢確認も行わない。今日の参加者は九人。常にこれくらいの人数が揃う。俺の所属しているサークルは文系学部の生徒のみで構成された小規模な集まりで、もっと大きいところだと、こんなにも頻繁に飲みに行ったりは出来ないそうだ。俺もリョウも新入生勧誘期間中に、飲み会が多いとだけ聞いて今のサークルに決めた。フットサルも野球も音楽系も、学内には大小様々なサークルがあるが、そのどれもが文理で分かれている。学生全員が嫌い合っているわけではないので、文理の生徒が混在している団体もあるらしいが、数は少ない。仲の悪さはこんなところにも表れている。
「ハイ、じゃあ乾杯!」
サークル長の杉山さん掛け声でジョッキがぶつかり合い、宴開始の音が響いた。俺はリョウの協力も合って、かわいいあの子の隣をキープしている。授業の話から始まって、地元トークや恋の話、時計の長針が一周する頃には、ずいぶん親しくなれたように思う。お酒が回って頬がほんのりピンク色だ。今度二人で会う約束でもしてしまおうか。
「あれ、辻さんじゃん!」
自分のスケジュールを確認していたら、突然杉山さんが嬉しそうな声を上げた。声のする方を見れば、別の学生が数名、来店したようだった。杉山さんの目線の先には、深い赤色の髪が目を引く一人の男が立っていた。俺も百七十センチ後半の長身だが、そんな俺から見ても背が高い。百八十はあるだろう。杉山さんの大きな声にはにかむ様子は眩しく、俳優のようにかっこ良かった。
「サークル飲み?」
「そうっす!辻さんは?何の集まりっすか?」
「特に何でもないよ、仲良くて都合ついた人飲み?」
明るい声で笑う姿が、大衆居酒屋だというのに映画のワンシーンみたいだ。二つ離れた席に座っていたサトミさんは仕切りに前髪を直している。
「サトミさん、あの人誰ですか?国コの四年生?」
三年生の杉山さんが敬語を使うということは四年生で、親しげな様子を見るに同じ学科のように思える。
「辻さん。学内では結構有名人だよ。
聞いたことのない名前だ。それに彼は理学部だという。
「理系っぽくないよね。辻さんは特別だよ。学部関係なく仲良くしてるし、まぁ学生部の副部長だったからっていうのもあるのかな。」
学生課学生部。新入生オリエンテーションで説明があった。ちゃんと聞いていなかったのでよく覚えていないが、高校までの生徒会のような団体だったはずだ。学生同士の会議を取り仕切ったりするので、各学部から数名ずつ選出される。面倒事だが就活に活かせるとか謳っていたような気がする。
「杉山、去年学生部だったからお世話になったみたい。一時期、辻さん信仰がすごくて、その頃金髪だった辻さんの真似してブリーチしてたよ。」
想像上の杉山さんの髪色を金にしてみたら失礼ながら似合っていなくて笑ってしまいそうになる。
「でも信仰したくなるのはわかる。本当カッコイイもんね。彼女いるのかなぁ。」
いたところで奪い取りそうな目付きでじっと辻さんを見つめるサトミさんは狼のようでいっそ格好良い。
「あ、フジ。席あっち。みんな揃ってるから。あとそこ、足元気を付けて。」
杉山さんとの会話の途中、遅れて来たらしい連れに声を掛けた辻さんは優しく微笑んでいる。これは彼女に見せる顔なのでは。そんな緊張は、返事の声の低さに打ち砕かれた。声の主は、黒髪に眼鏡の華奢な男だった。派手な柄シャツを着た辻さんとは対照的に、ブルーグレーの開襟シャツを羽織った、いかにも理系学生らしい彼は、杉山さんと目を合わせ少しだけ笑顔を見せた。
「えっ!
「俺がいたら大体フジもいるよ。」
「俺の行くところに蒼太が着いて来てるんだよ。…杉山くん、久しぶり。もう日焼けしてるね。」
前髪に隠れているので見えないが、眉が優しく垂れていそうな柔らかい笑い方が、男子大学生のものとは思えない。保育園の先生や看護師さんを思わせる穏やかさだ。
「邪魔してごめんね。楽しんで。」
一言二言会話を交わし、辻さんたちは去って行った。眼鏡の男は、振り向いて小さく頭を下げた。
「あの人は誰?って顔してるね。」
サトミさんがクスクスと笑い、俺の表情に声を当てた。
「……あの人は誰ですか?」
同じことを口にすると、サトミさんは思っていたより大きな声で笑った。
「眼鏡の人は平井さん。名前は藤臣?だったっけ。理学部の四年生で、辻さんと同じ学生部に入ってたの。杉山は平井さんもお気に入りらしいよ。あの人も地味な感じだけど知り合い多いのよね。」
辻さんのときほど熱意のない説明だったが、俺としては平井さんの方が気になっている。
「理系の人だけど、何かイメージと違うね。」
すぐ隣から話しかけられ、ピンク色が濃くなった頬を見つめた。やっぱり俺は、ちょっと控えめな人がタイプらしい。
もうすぐ夏が始まるようだ。梅雨明け間近の晴れの日は湿度と温度が最悪で、授業へのやる気は失われていく一方である。ただでさえ気乗りしないというのに、今日の一、二限は必修科目なので落とせない。しかも今日の授業は“文理合同基礎”。一年のうち、今日か来週の同じ曜日の二度しか履修のチャンスがない特殊な授業だ。
「ほんとに憂鬱……。でも落として春休みに補講とかもっとイヤだから……。」
ミズキは何度もため息をついては、恨めしそうに教壇を見ている。いつも一緒のリサちゃんは来週受けるそうで、今日はアカネちゃんが彼女の隣に座っていた。アカネちゃんの四、五列前の席には、同じサークルのあの子がいる。席に着く前に軽く手を振ったら、照れながら振り返してくれた。それだけでこの九十分は耐えられそうだ。
「俺、予備校でちょっとだけ数Ⅲやってたから、この中だったら一番理解出来る自信あるね。」
リョウは自慢げにそう言ったが、机の上には配布されたプリント以外に何も乗っていない。
「そもそも理解しようというやる気がないじゃん。」
「バレた?」
授業態度が悪いように思えるが、教室内の空気は一律同じようなものだった。“文理合同基礎”とは、文理両学部の四年生が代表で二人、講師となって一年生に授業をする科目なのだ。しかも、文系学生は理系学部へ、そして逆も然り。犬が猿の棲む山へ行き、猿が犬の暮らす谷へ行くようなものだ。まだスレていない一年生を相手にするので波風立つようなことはまずないが、そもそも授業内容に興味がないので、友好的にもなれない。講師の先輩には申し訳ないが、これは寝てしまう予想がついた。形だけは、と机上にルーズリーフと筆記用具を並べて、始業のチャイムを聞く。見知った教授の挨拶も終わり、紹介があって教室のドアが開いた。斜め前に座るあの子が目を丸くしてこちらを振り向いた。後ろからはリョウが小声で何か話しかけて来る。
「本日、講師を務めさせていただきます、理学部物理学科四年の辻蒼太です。人前で話すの久しぶりで若干緊張していますが、お手柔らかにお願いします。」
ワイシャツにネクタイ、大学指定の白衣という正装に近い格好をしているので、真っ赤な髪だけが目立っている。あの日居酒屋で見たキレイな顔を思い出した。
「同じく講師の理学部生物学科四年、平井藤臣です。今日は楽しみながら勉強していきましょう。よろしくお願いします。」
辻さんとネクタイの色柄以外は同じような服装の平井さんは、細い身体のイメージよりもはっきりとした口調で話すので驚いた。初めて声を聞いたときは、もっと丸っこい声をしていたのに。
「前半四十分は、自分が宇宙についての授業を、後半は平井が数学の授業をします。」
宇宙はまだしも数学と聞いて学生たちはざわついた。そのどよめきに、講師二人は顔を合わせて笑う。
「いや待って、リアクションが正直すぎない?大丈夫、大丈夫!」
辻さんが笑いを堪えきれていない声で、教室中を安心させようとする。その隣で、マイクを両手で持ったまま楽しそうにしている平井さんはまるで他人事のようだ。
「お前からも何か言えって。」
「えぇと、今日やるのは数学というより、数字のお話だから。実際僕自身数学科じゃないしね。ちょっと話を聞いたら難しそうな式がスラスラ解けてカッコイイ……っていう、それだけの授業。」
くだけた話し方になると、声が柔らかく丸くなるようだ。文系を目の敵にしている理系の大先輩が来ると思っていた一年生たちは、明るい二人にだんだんと慣れていったようだった。辻さんの授業は言った通り、堅苦しくない教育番組のように進み、確実に睡眠時間だと決めつけていた俺がちゃんとノートを取っているのだからすごい。小説・『銀河鉄道の夜』の内容を織り交ぜながら、宇宙の不思議を解説する辻さんはかっこ良く、杉山さんが憧れから金髪にしてしまう気持ちもわからなくない。聞き馴染みのない専門用語の説明もわかりやすく、時折挟むプライベートな話では笑いが起きていた。
「はい、じゃあ宇宙の授業は以上になります。別に今日の話は忘れても全く困らないので、誰かに聞かせてへぇ〜って言ってもらってください。それでは、休憩!」
辻さんは学生からのまばらな拍手にはにかみながら、一段高くなった教壇から降りる。一番前の席に座っていた平井さんも拍手を送っているようで、辻さんはそれを止めさせようと、ふざけて手を掴んだ。くすくすと笑い合う二人は子供みたいだ。平井さんが席を立ち、二人で次の授業の準備を始める。特別面白い光景でもないのに見ていて飽きない。
「帰ったら妹に聞かせよ。」
「あ、私も彼氏に自慢しようと思ってた。」
始業前のテンションが嘘のように、ミズキとアカネちゃんが楽しそうに宇宙の話をしている。
「ちゃんと聞いてるっていうね。」
リョウを振り返れば、いつの間にかノートもペンも出していた。
「いや、面白いわ。高校のときの理科の先生が辻さんだったら良かったのに。」
学科の必修授業でも書かない量の文字が紙の上に並んでいて、彼の集中力が伺える。
「本当に頭イイ人って説明も上手いって言うしね。」
「そしてイケメン。」
ミズキの強い口調に声を上げて笑ってしまう。真剣に板書する姿も、冗談を言う笑顔も、華がある。
「次は数学かぁ。」
アカネちゃんは不安そうな顔をしているが、実際俺は後半の授業の方に興味をそそられている。数学にではなく、平井さんが気になっていた。平井さんは教卓に置いたノートパソコンを操作し、準備を終えたようだ。辻さんは拳を見せてエールを送る。それに頷き、白衣の襟を正してから、穏やかな顔のまま平井さんはすうっと息を吸った。
「では、授業を始めます。」
先生、と呼びたくなるような真っ直ぐな声。少し早口なのに聞き取りやすい。
「今日みなさんに解いてもらうのは、これです。」
ホワイトボードにプロジェクターで投影されたのは、複雑な数式だった。数字だけでなく、日常で使う式では見かけない記号まで登場している。辻さんの話の後でリラックスした学生からは、わかりやすく不満の声が上がった。平井さんは楽しそうに笑っている。
「まぁそうなりますよね。」
気を悪くした様子もなく、ペンを持った平井さんが教室中をぐるりと見渡した。
「全部分解したら、中学校までの知識を使って解けるようになるんですよ。自分の授業も、別に何かの役に立つわけではありません。この難しそうな式が解けたという気持ち良さと、数学って意外と親しみやすいなってことだけ伝えることが出来たらいいな、と思っています。では、一緒に楽しんでいきましょう。」
そこから平井さんは、驚くほどわかりやすい説明と共に、数式をスラスラと解いていった。数Ⅲも習っていない俺だったが、説明の通りに公式を使えば、単純な計算で答えへと繋がる数字が導き出せた。平井さんがペンを動かす度に、鎖のように固まっていた式が解けていく。まるで魔法みたいだ。
「最後に、今まで求めた答えをこの式に当てはめると、もうおしまい。あとは掛け算をして、」
数字のゼロを書いて、ペンのキャップが閉められた。
「はい、解けた。」
俺の手元にも同じ数字が並んでいる。正直感動した。高校の授業以来数式すらまともに見ていなかった俺が、あんなに複雑だった式の答えを求められたなんて。隣でミズキも一人で微笑んでいる。
「どう?気持ち良かった?」
学生たちが嬉しそうに周りと話している様子を見て、より嬉しそうな顔をした平井さんが小首を傾げている。俺だけに問いかけたわけではないのに、つい頷いてしまった。本当に魔法使いの先生みたいだ。絵本か何かに出てくるような夢のある存在、おとぎ話に登場するにはちょっと地味な見た目だけど。聞き慣れや終業のチャイムが、こんなにも惜しく感じたことはなかった。
その日の昼は、あの子と二人で学食デートをした。リョウはバイト、ミズキとアカネちゃんはサークルへ行ってしまった。これを好機と捉え、前回の飲み会で連絡先を交換したあの子とランチの約束を取り付けて今に至る。ちょうど昼休みの時間なので、二人で座れる席を探すのに苦労した。何とか場所を確保して食券を買いに券売機へ向かう。俺と話をする度、上目遣いになるから可愛い。
「一限出てたよね。俺、久々にちゃんと起きて授業受けちゃった。」
宇宙の神秘を、数字の魅力を語りたかった。
「うーん。私、理系科目苦手だから、特に数学の話は退屈だったなぁ。」
あれ、俺の理想と違う。俺、彼女とは共通の話題で盛り上がって、二人でああだこうだ言い合って、大爆笑したいのだ。勝手ながら期待外れで肩を落としてしまう。
「あ、河野くん、カレーにするの?私は辛いのだめだからナポリタンにしよ。……学食のパスタって大盛りだっけ……。」
ずっと男子の方が多い大学なので、学食のメニューは量が多い。彼女のような小柄な女の子がランチで食べるには重そうだ。
「俺が手伝うよ。食べたいやつ選びな。」
効果音が付きそうな笑顔で俺を見上げる彼女はあまりにも可愛い。前言撤回。やっぱり可愛い。ナポリタンでもナポレオンでも俺が片付けるよ。不可能の文字はありませんとも。
「俺、めっちゃ食うから追加でパン買って来るね。」
自分で頼んだカレーライスと、あの子が食べきれないパスタ。満腹には足りているけれど、どうにも甘い物が欲しくなる。食堂内にある購買エリアで菓子パンを選ぶことにした。サクサクのメロンパンと、トロトロのチョココロネで迷っていた俺の横から真っ白な手が伸びてきて、エビバーガーを取り去っていった。狙ってはいなかったが、絶妙なチョイスに感動していると、店員とやり取りする声が耳に入った。長い時間をかけて川の水の中を泳いで来た石のような、角のない丸みを帯びた声。
「先生……、」
「えっ?」
振り返って声の主の姿を確認して口をついて出た言葉は、本人に聞こえてしまったようだ。白衣を脱いだだけのYシャツ姿が視界に飛び込んできた。担任の教師を誤って母と呼ぶ失敗談は古典的な笑い話だが、話したこともない年上の男性を、いきなり“先生”と呼んでしまった前例は聞いたことがない。なので対処法だって知る由もない。
「えっと、俺……現コ一年の河野真琴っていいます。実は今日、合同基礎の授業受けてて、めちゃめちゃ面白くて、あの、」
突拍子もない自己紹介の途中で、人違いという嘘を思い付いたが、利用するには遅過ぎた。こうなったらいっそのこと知り合いになってしまえ。騒がしい居酒屋、湿度の高い大教室、そして今。偶然で済ませてしまうにはもったいないが、運命と呼ぶにはキザが過ぎる。
「あぁ!面白かった?それなら俺も嬉しいよ。」
「ほんと、説明もわかりやすいし、話も上手くて飽きないし、俺、数学楽しいと思ったの初めてです。魔法使いみたいで、先生みたいで……。」
相手を喜ばせようなんて考えはどこにもなかった。ただ感想と感謝を伝えているだけ。パン売り場の前で熱弁する十八歳はシュールだ。
「だから先生って呼んだの?」
謎が解けたようで、平井さんもとい、先生が納得して頷いている。眼鏡の奥の垂れた目尻は、女の子が化粧に使うアイライナーで線を引いたみたいに長く伸びていた。奥二重と二重のあいだみたいな瞼は、笑うと閉じてしまう。ボリューム満点のエビバーガーに立ち向かえるとは思えない細い体は、周りの男子と比べても低くはない身長があるせいで折れてしまいそうだ。
「俺、あんまり購買って使わないんだけど、今日は何となくパンの気分でさ。買いに来て良かった。河野くんとも会えて、授業を褒めてもらえて、そのうえエビバーガーも買えた。」
無邪気に冗談を言った先生の、からころとした笑い声が耳に心地良い。
「実は前にも一回会ってるんです。こんなに学生がいる中で、俺たちが三度も出会う確率って相当低いと思いませんか?」
後のことを顧みない性格を勇敢と捉えるか、向こう水と非難するか。親しくなりたいという思いが全面に出た俺の質問を理解するのに、先生は数回まばたきの要した。
「それは数学的な計算の話?それとも、運命とか奇跡とか、そういう綺麗な言葉の類?」
後者の方が人間味に溢れているが、平井先生の生徒となってしまった俺は、数学的な回答も気になってしまう。俺は、食堂の席にあの子を待たせているというのに、自分の右手がメロンパンとチョココロネをずっと決めあぐねていてくれたらいいと、そんな馬鹿げた想像をしていた。
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