その音楽は死んだ野良犬の目を覚ます
柴田 恭太朗
1話完結
「工藤クン、ちゃんと寝てる?」
深夜1時の撮影スタジオ。ヒゲ面カメラマンの
床の上で、スライムみたいに溶け崩れている俺に向けてだ。
ありがたい。その気づかいが嬉しい。
しかし、あいにく雑誌はお盆進行中。編集作業が溜まりに溜まり、すでに三日目の完徹に突入していた。徹夜に弱い俺の体は、塩をふられ念入りにもみ込まれた菜っ葉のようにクタクタで「へあぁぁ」みたいな声がでただけだった。
いまは地下のスタジオへ撮影の立ち合いに来ているけど、自分の席に戻れば、そこには次号の再校と色校、次々号の初校がバッサバッサと積み上がっている。進行の女子がにこやかに乗せていった校正の山だ。それを明け方までに校正して、印刷所へ戻さなければならない。
しかも、明日の午前中には取材アポイントがあり、加えてライターさんへの確認事項もリストにぎっしり。さらに恐ろしいことに、まだネタすら思いついていない自筆原稿が残っている。
――まったく寝るヒマがない。
とっくに体力の限界を超えて心臓がバクバクし、片足棺桶状態になっていることは自分でもわかっている。わかってはいるけれど、自分がやらなければ白紙のページができる。
いや白紙になるだけならまだいい。俺のページを含む『
なぜなら、俺ら編集者は本が好きなのだ。愛しちゃってるのだ。その本に疵をつけるなんてことは、死んでもできないことだった。実際、他の編集部では、仕事中に昏倒し救急搬送されて、そのまま亡くなったヤツもいる。仕事中に死んで本望かと問われれば、たぶん微妙だろうな。なんせ作りたい本も読みたい本も、この世には、まだまだたくさんあるのだから。
「いいよいいよ、そこで寝てな。ここにあるグッズの『
尾高さんはどこまでも優しい。見た目は小柄でやせたヒゲ面のタダのオッサンなのだが、心の深さはマリアナ海溝に匹敵するんじゃなかろうか。ウワサでは、元・戦場カメラマンだったらしい。そのせいか、いつも着ているカモフラージュ柄のベストがよく似合う。
元・戦場、いまは平時専門のベテランカメラマン尾高さんは、押さえておかなければいけないポイントをちゃんと理解している。ブツ撮りは、商品の特徴をとらえ、アピールポイントがはっきり見えるように、また魅力的に写るように気を配らなければならない。
本来なら、その指定やらチェックやらをするのが編集者である俺の役目なんだけど、今回は幸い、かつて撮影したことがあるジャンルのブツだった。そこで安心して、すべて尾高さんにおまかせすることにした。
俺はすべすべしたリノリウムの床で横倒しになり、野良犬がするように『ヒ』の字になって両手両足をそろえたまま、順調に撮影が進んでいく様子をながめていた。冷えた床が頬に触れて、気持ちいい。舌こそ出さないが、俺の気分は完全に野良犬だった。
――ボッ ピュピピピピ……
ストロボが音を立てて放電し、続いてジェネレーターが発するチャージ完了の電子音がスタジオ内に響く。
尾高さんは黙々とリズミカルに撮影を進めていく。
気のせいか電子音は哀調をおびて聞こえた。単調な音の繰り返しに、俺の意識は混濁していく。
ああ、このまま野良犬になってしまえばラクになれるかな。
そうすれば、もうエンドレスな校正をしなくていいし、企画書も原稿も書かなくて済む。
街中いたるところにあるコンビニを順ぐりにあいさつして、押し倒したゴミ箱からファミチキやらアメリカンドッグの食べ残しを漁ったり、巡回ルートの電信柱へ、これ見よがしに高々と足を上げてマーキングしながら自由気ままに生きる。さびしい夜は、ウォウと月に向かって遠吠えしてみるのも一興だろう。
人間というものは充分に寝ていないと、自分の体力が削られていることは実感できる。しかし狂気の
野良犬の恰好で床にのびたまま、いっこうに眠りに落ちない俺を見て、尾高さんはCDラジカセの再生ボタンを押した。
今まで俺が寝られるようにと、音楽を遠慮していたらしい。
ああ尾高さん、あなたが神々しく見える。
それはストロボを仕込んだ巨大な箱状のソフトボックスがまぶしいからではない。じつに心優しい配慮の行き届いたヒトだ。俺はじんわり感動した。シッポがあったなら、千切れるようにブンブン振っただろう。なんならハァハァいいながら尾高さんのヒゲ面をなめ回してもいい。彼はイヤがるだろうけど。
なかば犬と同化した俺の耳に、ラジカセの音楽が聴こえてきた。
――バンドミュージック。
男性ボーカルの高く、ややかすれた声が体に染みる。
耳を傾けたくなる不思議な声質。
予想と期待を覆す特異な言いまわしのリリック。
懐かしいようでいて、これまでのどの歌にも似ないメロディ。
ボーカルを支えるのは、複雑で絶妙な転調を繰り返す厚いコーラス。
Aメロからサビに入ると、ボーカルの叫びがぐいぐいと心に押し入ってくる。刺さるのともまた違う。ペーパーナイフのような鈍い刃で弱った心の触れてほしくないところを探りだし、もっとも応える角度で
えぐられた心の痛みは、涙と化してあふれだし、
涙は、押し開けられた傷口をたちどころにケアする。
痛みから治癒にいたる過程は苦痛ではない、
むしろ反芻して楽しみたくなる愉楽。
アルコールが人体にとって毒そのものであるように。
毒でありながら同時に酩酊と高揚をもたらすように。
彼らの音楽は耳をとおして味わう美酒。
体中がカッと熱くなった。
――なんという
なんだこれ。
こんな音楽は聴いたことがない。
「あれ、工藤クン泣いてる?」、尾高さんがからかうような目で俺を見た。
「これ、なんというバンドですか?」、野良犬だった俺は涙をぬぐうのも忘れて、床から身を起こす。
「知らない。今日、音楽誌の取材に同行したとき、もらったんだ」
尾高さんはラジカセからカセットテープを取り出し、ていねいにケースへ入れると俺に差し出した。
「サンプル版。気に入ったなら、あげるよコレ」
手渡されたカセットは15分テープ。シール状のラベルが雑に貼られた、そっけないものだった。ラベルには『サヴァリプス』と印字されている。これがバンド名だろうか、聞いたことがない。いや、デビュー前だから知らなくて当然か。取材でサンプルがもらえるなら、音楽誌の編集もいいもんだなと、ヘロヘロの俺は場違いな感想をいだいた。
◇
それからというもの、サヴァリプスのテープは俺の宝物となった。
気分を高揚させたいときも、逆にいら立った神経を鎮めたいときも、常にサヴァリプスの歌が俺とともにあった。それこそもうテープが擦り切れるんじゃなかって思うほどリピートして聴いた。
残念なことに、サンプルのテープには一曲しか収められていない。彼らの曲をもっと聞きたくなった俺は、足しげくショップに通い、サヴァリプスのCDを探した。
しかしまったく見つからない。まだデビューしていないのだろうか?
そうこうするうち、俺はテープの異変に気がついた。音程が揺れているのだ。絶対音感は持ち合わせていないものの、大体音感がある俺の耳にはかなり気障りだった。
――テープが伸びはじめている。
何度も繰り返し聞いているのだから、はじめから予想できたことだ。もっと早く気がつけばよかった。テープを
テープがダメになりかけ、かといってCDも手に入らない俺は焦った。それほど彼らの音楽に支えられていたからだ。
一縷の望みをかけて、音楽誌の編集者にメールを送ってみた。面識はなかったが、メール文面にカメラマンの尾高さんからサンプル版をいただいたこと、それに俺がバンドに惚れ込んだ経緯を記載したところ、返事はすぐに返ってきた。
簡潔なメールだったが、それで充分だ。メールには、ざっとこんな内容が書かれていた。
『サヴァリプスはデビュー直前に解散しました。メンバーの一人が薬物乱用でパクられまして。実力のある、惜しいバンドでしたね。まぁこの業界では、ありがちな話です』
――デビュー前に解散……
俺は愕然とした。そしてひと花も咲かせることなく散っていったバンドを悼んだ。
彼らの音楽は皆の耳には届かなかったけれど、少なくとも俺の心に届いた。俺ひとりだけでも記憶に留めておきたい。
彼らの歌声は、
水面下に沈みかけた俺の冷たい魂を引き上げ、
暖めてくれたのだから。
Mr.children、スピッツ、Official髭男dism、ONE OK ROCK、B'z、back number……
心を揺さぶる名曲を生みだすバンド、いわゆる『エモいバンド』を挙げたらキリがない。そのいずれもが人々を癒し、号泣させ、また気持ちを高揚させてきた。
デビューしていれば、サヴァリプスも名だたるアーティストの一つとしてステージに登壇し、皆の人生に欠かせないグループになれたのかもしれない。
それもまた『ありがちな話』と一言で
――サヴァリプス
ミュージックシーンに名を残せなかったけれど、
君たちは、まぎれもなくヒーロー。
決して忘れない。
完
その音楽は死んだ野良犬の目を覚ます 柴田 恭太朗 @sofia_2020
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます