幼馴染の彼氏と運動会のリレーで戦うことになった。絶対に勝って、俺は幼馴染に長年の想いを伝える……。

kattern

第1話

 ゴールデンウィーク明けの校内運動会。

 全校生徒を二分して行われた紅白戦は、抜きつ抜かれつを繰り返し、決定的な差が開かぬまま、最後の種目――チーム対抗選抜リレーに突入した。


 紅組が僅差でリード。

 しかし、リレーの結果によっては白組が逆転可能。

 絵に描いたような大一番。


 そんな最終種目に備えての15分休憩。

 高校のグラウンドはなんとももどかしい静寂に包まれた。

 昼前までは見事な五月晴れだった空には、まるでこの展開を嗅ぎつけたように灰色の雲が忍び寄っている。


 微かに梅雨の気配を感じる午後。

 そんな大勝負のアンカーを務める俺は、体育館横の水飲み場で口を湿らせていた。水に唇を濡らしても決して口には含まない。たとえ記録に関係ない校内大会だとしても、舐めた戦い方はできなかった。


「頼んだわよ、里田! 河野なんて、アンタの脚でぶっちぎっちゃってよ!」


「あぁ、言われなくても分かってるよ」


 ショートボブの茶色い髪に差し色のように入った赤いはちまき。

 練習のユニフォームとは違う学校指定の運動服姿。だぼっとしたハーフパンツに鍛えた脚を隠した快活なスポーツ少女は、俺の胸に拳を当てると闘魂を注入した。


 彼女は陸上部仲間で同じ紅組の新居浜。


 陸上部女子長距離のエース。

 高校に入ってからの付き合いだが、持ち前の面倒見の良さで教室でも部活でも、彼女は頼んでもないのに俺に絡んできてくれた。今もこうして、最終競技を前に緊張している俺を励まそうと、わざわざ会いに来てくれたって訳。


 本当に頭の下がる部活仲間だ。

 俺なんかには勿体ない。


 なんて思って微笑むと、不満そうに新居浜が頬を膨らます。


「なにその気の抜けた顔は! 分かってんの里田! アンタにウチの陸上部のメンツがかかってるんだからね! 絶対に負けちゃダメだよ!」


「はいはい、分かってるよ」


「幅跳びやらせとくには勿体ないくらい、アンタのフォームは綺麗なんだから! 自信持って走ってこい!」


 おかわりの闘魂注入が俺の胸を襲う。

 中学までは砲丸投げをやっていたという新居浜のパンチはずしりと重かった。

 まだそっちも現役でやれるんじゃないだろうか。


 最終種目の開始5分前を告げるアナウンスが雨模様の空を飛び交った。

 給水や談笑に散った生徒達がそれに合わせて応援席へと戻り始める。

 

 そんなグラウンドへと向かう人の流れの中に、俺は見知った顔を見つけた。


「あれ、さくら?」


 体育館の裏庭の方から飛び出てきたのは黒いショートポニーの乙女。

 つり目気味で少しキツい印象の顔立ちに、年相応に出るところが出たシルエット。梅雨前の蒸し暑い季節だというのに、学校指定のジャージをきっちりと着こなしている。どんな時でも、凜とした雰囲気を崩さない美少女。


 俺の呼び声に気づいて彼女がこちらを振り向く。

 耳から零れた髪が微かに汗に濡れていた。


「雪春? あれ、芹夏も? どうしたのこんな所で?」


 彼女の名前は城野さくら。

 俺の幼馴染。同い年で女子硬式テニス部のエース。

 同じ紅組に所属している生徒だ。


 彼女は俺と新居浜を交互に見ると、体育会系女子のノリで「オッス!」と新居浜に手を挙げる。新居浜もいつものノリですぐに合わせたが、少しその表情が硬い。

 理由は、彼女の頭から外されたはちまきのせいだろう。


「どうしたのはこっちのセリフだよ。体育館の裏でなにしてたんだ?」


「えっ? あっ、あはは!」


「河野と会ってたのか? 敵のアンカーと逢い引きだなんて、とんでもねえ女だな」


「いいでしょ! 別に運動会とそれは関係ないじゃない!」


「そこは大人しく自分のチームを応援しとけよ。幼馴染も走るんだから」


 白組のアンカーの河野雅史はサッカー部の次期キャプテンだ。

 俺たちと小学校から一緒のクラスメイト。陸上部員も羨む脚力を持つ、サッカー部の司令塔にしてエースストライカー。年相応に押しの強い所もあるが――女子に黄色い声援を向けられるタイプの好青年だ。

 

 そして、さくらの彼氏。


 自分が所属するチームの勝利よりも恋人の勝利を取ったようだ。

 大一番に向かう恋人を励まそうと体育館裏で密会していたという所だろう。


 気恥ずかしそうに揺れるポーニーテール。

 彼女に似合わぬその乱れ具合が動かぬ証拠だった。


「お熱いことで。出走前に恋人からキスしてもらったら、そりゃ元気が出るわな」


「ちょっ! 雪春、なんてことを言うのよ!」


「なんだ、してねーの?」


「するわけないでしょ! ここ学校だよ!」


 学校じゃなかったらするのだろうか。

 茶化し方をちょっと間違えた。


 疲れた心臓が嫌な音を立てて軋む。


 笑う俺の前で頬を膨らませて視線を逸らしたさくら。

 嫌なことがあると、そうやってふてくされるのは昔からだ。そんな些細な癖も知り尽くした幼馴染の肩に手を載せると、「冗談だよ」と俺はいつものように慰めた。


「酷いよ、雪春。芹夏の前で」


「紅組を真面目に応援しないお前が悪い」


「それは悪いと思ってるけれど」


「だったら、俺にキスしてくれるかい勝利の女神様?」


「調子に乗るな! バカ雪春!」


 急に元気になったかと思えばさくらが俺の脛を蹴る。

 リレーを前にした出場選手だ、もちろん戯れの優しいものだった。


 一撃離脱という感じに、さくらが水飲み場から離れる。ふんと息巻いてポニーテールを振る姿が、曇り空の下だというのにやけに眩しい。


 幼馴染の後ろ姿を苦笑いと共に見送ると、土に汚れたジャージを俺は払った。


 赤土の湿っぽい匂いが俺の鼻を突く。

 不安定な心に、嗅ぎ馴れたその匂いは少しありがたかった。


「……いいの里田?」


 新居浜のどこか寂しげな問いかけを俺は無視した。


◇ ◇ ◇ ◇


 選抜リレーは今年の運動会を象徴するような接戦となった。

 抜いたかと思えば抜き返し、一度も決定的な差が生まれることなく、ほぼほぼ横並びという終始熱い展開。

 そんなレースもいよいよ終りだ。


 コースの反対側で一年生からバトンを受け取る三年生。

 それを見届けて俺と河野がコースへと入った。


 こんな時だというのに涼しげな顔をする河野。汗一つ掻いていやしない。メンタルバケモノめと舌打ちしつつ、俺は瞳を閉じてコンディションの最終調整に入る。

 中高と陸上部に所属して心の処し方はよく学んだ。


 小学校の時のように狼狽えたりなんかしない。


 カーブを曲がり駆け込んでくる三年生。

 掲げられるバトン。テイク・オーバー・ゾーンのラインを土にまみれたスニーカーの先が踏みにじる。それに合わせてゆっくりと俺は駆け出した。


 先頭は――紅組。


「……負けねえからな」


「何か言ったか里田?」


「負けねえって言ったんだよ」


 俺の呟きを河野が拾うとは思っていなかった。もしかすると、爽やかクソ野郎な河野の、ちょっとした作戦だったのかもしれない。

 けれどもその言葉を無視して俺は駆けだした。


 小学四年生の運動会。

 河野はチーム対抗リレーで上級生を差し置いてアンカーを任された。

 急な大役にきっちりと応えて、河野はチームを勝利に導いた。


 そして、一人の女の子の心を奪った。

 つまり、脚の速い男はモテるって話。


 ただ悲しいかな、青臭い恋に人生を絡め取られたのは彼女だけじゃなかった。

 男勝りな幼馴染に密か想いを寄せていたバカなガキの青春も一緒に狂わせた。

 クラスの人気者に想い人を奪われたそいつは、彼女をまた自分に振り向かせようと、ついには陸上部員にまでなったのだ。


 才能が無いとトラック競技から外された。

 それでも、幅跳びなら走ることができると自分を誤魔化して続けた。


 少しでも速く。

 昨日の自分より速く。

 あの日の自分より速くなりたい。


「ぜってぇ負けねえ!」


 応援席から誰かが俺の名前を呼んだ。

 女の子の声だったように思う。

 けれども振り返りもせず俺はただ土を蹴った。


 あの日の後悔、あの日の憧れ、そして――ずっとなりたかったあの娘のヒーロー。

 それに勝ちたくて、俺は非力で頼りない二つの脚を震わせた。


◇ ◇ ◇ ◇


 運動会の終わりを夕立が襲った。閉会式は挨拶も早々に切り上げられ、生徒達はアリの群れのように校舎に戻り、そして雨空の下をそれぞれの帰路についた。


 午前中の五月晴れが嘘のような土砂降りの中を帰宅した俺は、自室に入ると濡れた制服を床に脱ぎ散らかし、着替えもそこそこにベッドに寝転がる。

 水気を吸ってひんやりとした掛け布団が疲れた身体に心地よい。


 そのまま眠りに落ちそうなのを堪えて、俺は通学鞄をまさぐると中からスマホを取りだした。表示するのは、幼馴染のLINEアカウント。


『話したいことがあるんだ』


 ずっと言いたかった。

 さくらに俺の気持ちを伝えたかった。

 けれど、他の男を想う幼馴染にどう伝えればいいのか、どう言えば振り向いてくれるのか。小学四年生の俺には分からなかった。


 だから、一番単純で簡単な解決策を選んだ。


 河野に勝てばさくらは俺を見てくれる。


「言った所でどうなるもんじゃないけれどな」


 いまさら気持ちを伝えた所で二人が別れる訳じゃない。

 自分のやろうとしていることが、ただの自己満足なのは理解している。

 けれども、俺はようやく悲願を達成したんだ。


 もう、この辛く切ない恋を終らせてもいいんじゃないか。


 送信ボタンを押せば軽快な音がスピーカーから暗い天井に昇った。

 用済みになったスマホをベッドの上に放り出すと、しとしとと街に降り注ぐ雨音に釣られて部屋の窓へと視線を向けた。


 鈍色のフレームの向こう側に水色のカーテンのかかった窓が見える。

 さくらという名前に似合わない色のチョイス。それをからかったこともあるが、今となっては彼女によく似合う色のように思える。


 締めきっているということは、まだ帰っていないのだろうか?


「そういえば、運動会の後に河野とデートするって言ってたな」


 この雨ではどこにも行けない。

 陸上部メンバーで計画していた打ち上げもこの雨のせいでお流れになった。

 きっと二人のデートも同じ結末になったに違いない。


 そう思って瞼を閉じようとした俺の視界で――。


「……え?」


 さくらの部屋のカーテンが微かに動いた。

 何が起こったのか。何が起こっているのか。

 考える暇もなく、しとしとという雨音の中に混ざって声が聞こえてくる。


 熱い獣のような息づかいが。


 泥のような眠りにつこうとしていた身体が強ばる。

 冷たい掛け布団を握りしめて、俺は窓の向こうに目をこらす。

 耳に届く息づかいに合わせて揺れる水色の布。光が灯っておらず暗い部屋だ、カーテンに遮られては中を確認することはできない。


 けれども水色の布の向こうに確かな人の気配を感じる。


 ふと、カーテンの隙間に汗が滲み桃色に火照った人の肌が見えた。

 汗に濡れた黒髪がまとわりついたそれは鎖骨。その肌の白さに息をのむ暇もなく、茶色く輝く何かが隙間の向こうの闇の中を泳いだ。


 まるで隣に住んでいる住人のことなど、気にかける素振りもなければ、どうでもいいようなその一瞬の邂逅に俺は悟った。

 もう何もかも取り返しが付かないほどに僕たちの関係は終っていたのだと。


 雨は日付をまたぐまで降り続いた。

 声は何度かの長い沈黙を交えて明け方まで続いた。


 さくらからの返信は来ない。


【了】

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