第二夜 若草色の夢~ホウレンソウ・パニック~

 

 さあて、どうしようか?



 時計の針は、今10時。


 おかしいな、さっきまで8時だったのに。




 別に寝ぼけているわけでも、居眠りしているわけでもないさ。


 右向いて、左向いて、時計を見れば。




 おやまあ、今度は11時?


 惜しい! 10時40分だ。中途半端だな。




 ともかくも、ともかくも。


 大遅刻には違いない。




 さあて、どうしようか?




 まずは、連絡。ああ、社会人だからね。


 報・連・相は大切だ。タイミングとしてはもうだいぶ遅いがね。




 だけど、不思議だ。


 電話機を取り出そうとカバンをあさる。出てくる出てくる、関係ないもの。


 国語辞典に掛け時計、本棚まで出てきたよ。一体全体、なんでこんなものがカバンに?




 そういうものだから。誰かが言った。


 そういうものなのか。納得した。




 なぜって思う端から、消えていく疑問符。


 そんなことより、連絡しなきゃ。




 ホウレンソウは大切だ。


 緑黄色野菜は大切だ。




 なのに、なんだ、このほうれん草は?


 黄ばんでちっとも新鮮じゃない。


 こんなんじゃロクな栄養もない。




 だって、そういうものだから。


 いやいや、いくらなんでも、これはまずかろう。




 だって、すっかり時間は過ぎて。


 食べごろはとっくに過ぎ去って。




 なるほど、それなら仕方ない。


 野菜は新鮮第一だ。


 遅れてしまった連絡は、すっかり役に立たなくなった。


 だから仕方ないだろう。


 もう忘れてしまえばいいさ。








「いやいや、たとえ遅れても、気付いたその時に、必ず報告するんだよ」




 不意に、天から光明がさす。




 若草色の、ちっとも栄養が足りていないほうれん草。



「今からでも、きちんとしなくちゃ、ホウレンソウ」




 ぎゅっと握った、そのしおれた葉っぱが、みるみる力を取り戻す。


 どんどん濃くなる緑色。




 ああ、生き返った。いやいや、みごとに育った。


 みずみずしく新鮮な、青々としたほうれん草に。




 たとえ、時計の針は12時を指していても。




 今からしなくちゃ、ホウレンソウ。


 もさっと伸びる、葉っぱの陰から、なぜか出てくるスマートフォン。




 勝手に鳴り出す、スマートフォン。












「…………ああ、よかった」




 私は目覚まし代わりのスマートフォンを握りしめ、時刻を確認しました。


 いつも通りの時間。


 まだ心臓がドキドキしています。




 スマートフォンを置いて、代わりに空っぽの小瓶を握りしめます。


 みずみずしく青々とした、ほうれん草みたいな深緑色。


 小瓶の中身を朝日に透かして、ホッとしてから、私は朝の支度を始めました。

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