第3話【大和家】
人の顔や性格が一人ひとり違うように、家族にもそれぞれ違いがある。人数はもちろん生活する上でのルールなど、家族によってそれぞれ異なるものだ。
大和家では、休日は皆がバラバラに起床する。母の一葉は普段より少し遅く起きて皆の朝食を作るが、皆が揃って朝食をとることはほとんどない。
しかし、この日は日曜であるにもかかわらず平日と同じように皆が起床し、家族全員で朝食をとっていた。
前日から冴羅や雷武たちの祖父にあたる大和義蔵が泊りに来ているためだ。
休日に早く起こされて皆がふてくされていると思いきや、朝から和気あいあいとした感じで朝食をとっていた。
厳しい人だが、皆大和義蔵が大好きなのだ。
皆で楽しく食事をしているなかで、雷武が思い出したかのように義蔵に質問した。
「そうだ。おじいちゃんさ、昔の山放しは一か月間だったの?」
「そうじゃ。たしか一葉も一か月間じゃったな」
「そうなんだ・・・」
一葉は若干誇らしげに言った。
「ねぇ。言ったでしょ」
「ほんとだ。一か月ってすごいな・・・」
「そうよ~。夏休みのほとんどを山で過ごすんだから、宿題が大変だったわよ」
武が「そこじゃないと思うけど・・・」とボソッと言った。
大和家では十三歳になると男女問わず、夏休みに山に放たれることになっている。
ナイフ一本だけ持ち、山の中で二週間過ごして自力で帰ってこなければならない。
武も冴羅も雷武も経験しているが、皆二週間だった。昨日三人で二週間も山に入って大変だったと話していると母から「私は一か月だったわよ」と言われてにわかに信じがたく、雷武が義蔵に聞いたのだ。
雷武がふと疑問に思ったことを義蔵に聞いた。
「おじいちゃんは、どのくらいの期間山に入ったの?」
「わしか?わしは子どものころから戦場やらジャングルにいたから、特に山に入った期間ってのはありゃせんよ」
「あぁそうか・・・お父さんは・・・あっ婿養子だからやってないのか」
「はは、そうね」
聡司が気まずそうに言うと、義蔵が言った。
「雷武。聡司くんは山に入らんでも、十分に強さを持った男じゃぞ」
「え?そうなの?」
聡司は恥ずかしそうにしている。
時は二十一年前。一葉が大学生二年の春。
一葉は大学の最寄り駅近くの喫茶店で一人ホットミルクを目の前に、緊張した様子で誰かを待っていた。
しばらくすると、喫茶店の入り口からいかにも好青年的な男性が入ってきた。一葉とサークルが同じで二つ年上の岸谷聡司である。二人は一年前から付き合っている。
聡司は一葉を見つけると、一葉が座る席に来て言った。
「お待たせ。ちょっと卒論について教授に聞いてて、遅くなっちゃった」
「大丈夫。そんなに待ってないから」
聡司は一葉の若干の異変に気づきつつ、ウェイトレスにカフェオレを頼んで座った。
「で、話って何?ってあれ?何でホットミルク頼んでいるの?」
コーヒーが大好きで喫茶店ではブラックコーヒー以外は絶対に頼まない一葉がホットミルクを頼んでいるのに気づいた聡司は、何事かといった感じの表情になる。
「別に。今日はミルクって気分なの」
「いやいやいやいや、え?嘘でしょ?今までそんなことなかったじゃん。どこか具合でも悪いの?」
「悪くないよって、あっ・・・ん~そうか・・・」
一葉が曖昧な返事をすると、聡司は一層不安そうな表情になって言った。
「なに具合悪いの?え?大事な話ってなんか大きな病気になったって話?」
「違うよ」
「じゃなに?」
聡司が不安そうにしているなか、一葉は覚悟を決めたかのように明るく話した。
「なんかさ、妊娠しちゃったみたいなんだよね」
「え・・・」
聡司の時間が一瞬止まる。
「・・・今なんて?妊娠したって言った?」
「うん・・・」
「そうかぁ!妊娠したかぁ!僕たちの子どもができたかぁ・・・ってあっ!」
「え・・・」
一葉は一気に不安そうな表情になった。
「僕はもう卒業だけど、君はまだ二年も大学があるね・・・」
「え?いや私は休学って手もあるし、別に辞めてもいいから・・・」
「あぁそうか休学すればいいね。って駄目だよ。大学は何年かかっても卒業した方がいい。僕も子育て手伝ってできるだけ力になるからさ」
「え・・・っていうか、ちょっと待って。生む感じでいいの?」
聡司は一葉の言っていることが理解できていないといった感じだ。
「は?何言ってんの?もしかして一葉は生みたくないとか?」
「いやいや私は生みたいけど、聡司はいいの?」
「いいも何も授かった命だよ?二人の愛の結晶だよ?いいも何もないでしょうが」
一葉は安心し、ホットミルクを一口飲んだ。聡司もちょうど来たカフェオレを飲んで一息つく。すると一葉が、急に焦った様子で言った。
「そうだ。どうしよう・・・」
「何?どうしたの?」
「お父さんに、なんて報告しよう」
聡司は一瞬深刻な顔つきになり、覚悟を決めた感じで言った。
「大丈夫。僕がちゃんと説明するよ」
「ヘタすると殺されるかも・・・」
「え?まさか・・・」
一葉は真顔で言葉をつないだ。
「前にも話したけど、うちのお父さんは新しい戦闘術を開発するほどなんていうか強くて、しかも古風な人間だから結婚前に子どもができたとか知ったら、どうなるかわからない・・・」
「そうか・・・わかった。こういうのは早い方はいいね。今から話しに行こう」
「え?今から?」
「うん。ちょっと連絡してみてよ」
「いやいやいや、え?話聞いてた?ほんとに殺されるかもしれないよ」
聡司は真剣な眼差しで一葉の目をまっすぐ見て言った。
「大丈夫だよ。殺されはしない。だって新しい命を授かったんだよ?一葉のお父さんがそんなことするわけないよ。まぁ殴られるかもしれないけど・・・それに、たとえ殺されそうになっても僕は父親になるんだから絶対に死なないよ」
「聡司・・・わかった。ちょっと連絡してみる」
一葉は席を立ちPHS(当時若者がよく使っていた簡易型携帯電話)を持って外に出て、五分ほどして戻り、若干不安げな様子で聡司に言った。
「何かちょうど空き時間ができたから、ちょっとなら大丈夫だって・・・」
「そうか、よかった。じゃ行こう」
聡司はカフェオレを一気に飲んで席を立ち、一葉もホットミルクを急いで飲んで会計して二人は外に出た。
道中聡司は一葉の体調ばかりを気にしていた。
一葉はこれから男として一世一代の挨拶に行くのに自分の体調ばかり気にしてくれる聡司を見て心強く思い、この人を選んで良かったと思いながら歩いている。
二人が向かうのは小さな道場が併設されている一葉の実家。到着し一葉の父である大和義蔵と対面すると、さすがに聡司は緊張した表情になった。
長い髪を後ろで結び、袴姿に背筋をピンと伸ばして座っている、いかにもサムライといった出で立ちの義蔵が静かに口を開いた。
「で、話とは?」
一葉が話そうとしたが、聡司がそれを遮り口火を切った。
「実はですね、一葉さんと結婚させてほしいと思いまして」
「は?君は何を言って・・・」
「ちょっと聡司。いきなり?順序が違うって・・・」
一葉が焦った様子で聡司を止めても聡司は止まらない。
「実はすでに一葉さんのお腹には、僕たちの赤ちゃんがいまして・・・」
「ちょっと待って聡司!違うのお父さん。いや違くもないんだけど・・・」
「え?ん?なに?」
明らかに驚き動揺している義蔵を前に、若い二人はちょっとした口論を始めた。
「ちょっと一葉は黙っててよ。こういう話は男である僕がちゃんと話さないと・・・」
「いや、でも順序ってのがあるじゃん。いきなり結婚とか、妊娠とか言ったらダメじゃん」
「いやいやいや、こういうことは回りくどく言うよりも単刀直入に言ったほうが男としていいんだよ。」
「でもお父さんは私たちが付き合っていることも知らないし、なんなら私はこれまで一度も男性と付き合ったことがないと思っているんだよ」
「え・・・」
義蔵、一葉、聡司が居るこの空間全体の時間が止まった。
何分経ったか、義蔵がやっとの思いといった感じで口を開く。
「と、とりあえず今日のところは解散。一葉、この方を送ったら道場に来なさい。話がある」
「え?じゃ、あの僕も・・・」
聡司が口を挟んだが一葉がそれを遮り、加えて義蔵も言った。
「君の気持ちもわかるが、まずは一葉としっかり話さなければならない。後日またちゃんと話を聞くから」
「あ、はい。わかりました」
聡司と一葉が家を出た。
駅までの道のり、二人とも言葉にならないといった感じで黙って歩いていた。
しばらくすると、聡司が申し訳なさそうに一葉に言った。
「何かごめん。事情をよく知らずに早とちりしちゃって・・・」
「大丈夫。私がちゃんと話してればよかっただけで、聡司は何も悪くないよ」
「このあとだけど、大丈夫?」
聡司は一葉のことが心配でならない。一葉もこのあとの義蔵との話し合いが道場ということで、若干の心配はしていた。
「道場に呼ばれたからあれだけど、多分大丈夫だと思うよ」
二人は駅に到着したが、聡司はくるりと振り向き真剣な面持ちで言った。
「やっぱり、僕も一緒に帰るよ」
「え?でも・・・」
「大丈夫。僕は外で待っているだけだから。それで、万が一だよ。何かあったらすぐに駆けつけて一葉と子どもを守る・・・って言っても盾になるくらいだけど・・・」
「聡司・・・」
二人は来た道を引き返し、一葉だけ道場の中に入って聡司はすぐに駆けつけられるよう外で待っていた。
道場では中央に義蔵と一葉が正座をして対面し、少々の沈黙のあと一葉が最初に言葉を発した。
「お父さん。いろいろ黙っててごめんなさい・・・」
義蔵は一つ大きな深呼吸をして、意外にも穏やかな感じで言った。
「で?さっき来た彼がお付き合いしている人で、まだ大学も卒業していない二十歳のお前が妊娠したと・・・」
言い終わる頃には穏やかな感じだった話し方に殺気が含まれていたので、一葉は本能的にお腹に手を当てて言った。
「はい・・・」
義蔵は大きくため息をついて目をつむり、長い沈黙が続いた。
張り詰めた時が流れる。その張り詰め空気感を打ち消すかのように義蔵の一番弟子である、浅田敏夫が道場に入ってきた。
浅田はすぐに中央にいる二人を見て異様な雰囲気を感じ道場から出ようとしたが、そのとき義蔵が目をあけて言った。
「浅田。ちょっといいか?」
浅田は「はい」とだけ言って、二人のもとにやってきて正座した。義蔵は浅田のことは見ずに一葉を見ながら浅田に言った。
「さっき一葉が突然男を連れてきて、妊娠したから結婚させて欲しいと言ってきたんだがどう思う」
「は?え?何がですか?」
浅田は師匠である義蔵が何を言っているのかまったく理解できずに聞き直したが、義蔵は二度同じことを言うのが嫌なのか一葉を見たまま黙っている。
それを察知した浅田は一葉に確認した。
「お嬢さん。えっと、誰か殿方とお付き合いしていたんですか?」
一葉は黙ってうなずく。
「え?で、その方との間にお子さんが出来て結婚がしたいと?」
「そう・・・」
一葉は今度は小さく返事をした。
浅田は驚きのあまり声が出ない様子だ。
浅田は義蔵の一番弟子で、義蔵より十二歳年下の独身。生涯にわたって義蔵に仕えようと決意しており、一葉が小学生のころ義蔵の妻であり一葉の母の葉子が亡くなってからは公私ともに大和家を支えている。一葉の面倒もよくみており、一葉も年の離れた兄のように慕っていた。ちなみに義蔵と葉子の間には一葉しか子どもはいない。
浅田は突然の話に驚き絶句したが、義蔵よりは話を飲み込むのが早かった。
「なるほど・・・」
この浅田の言葉に義蔵が反応した。
「・・・どう思う」
浅田は困惑した様子で口を開いた。
「そうですね・・・お付き合いしている段階であれば相手方について色々客観的に判断できたと思うのですが、すでにお子さんを授かってしまったということで、こうなるともう致し方ないかと・・・」
「・・・」
再び義蔵は黙り込んでしまった。それを見て浅田は、間をつなぐのと義蔵に情報を与える意味も含めて一葉に話しかけた。
「で、お嬢さん。相手方はどんなお人で?」
一葉は間違っても悪い印象を与えないようにと慎重に答えた。
「大学の先輩で、今四年生の人」
「四年生ってことは、就職は・・・」
「決まってる。コンピュータ関係の仕事」
最愛の一人娘の夫となる男の情報が耳に入るたびに、義蔵の眉がピクピクと動く。
「で、お嬢さんはまだ二年生ですが、大学はどうなさるおつもりで?」
「私は辞めてもいいと思ったんだけど、彼が大学は卒業した方がいいって。だからギリギリまで通って、生まれる時には休学しようかと。それで、落ち着いたら復学しようかなって思ってる」
「そうですか・・・」
浅田はふと、なぜこの大事な場面に一葉の旦那となる人物がいないのかと疑問に思った。
「あの、なぜこの大事な場面というか、この場に旦那となる方がいないのですか?先ほど先生は連れてきたとおっしゃいましたが、帰られたのですか?」
「あっ、それはお父さんがとりあえず私と二人で話がしたいってことで、帰らしたというか・・・」
「あぁ、なるほど・・・」
浅田はそれだけ言って沈黙し、義蔵の反応を待った。しばらくピンと張り詰めた空気が続き、ようやくといった感じで義蔵が口を開いた。
「・・・なぜ黙ってた」
静かながら言葉の奥に気迫がみなぎっている。
「え?」
「なぜ彼ができたことを私に黙ってた?」
一葉は義蔵の意外な質問と気迫に困惑した。
「えっと・・・それは・・・」
「別に彼が出来ることは恥ずかしいことではなかろうに」
「そうだけど・・・」
義蔵は、今度は悲しさを含んだ口調で言った。
「唯一の家族なのに、なんで内緒にするかな・・・」
「お父さん・・・」
二人とも黙ってしまい、再び沈黙が続くと思いきや、すぐに一葉が言葉を発した。
「お父さん、ごめんなさい。なんか彼氏ができたとか言うと、なんていうか寂しがるかなと思って・・・」
「寂しがる?」
「うん・・・」
「そうか・・・まぁ、まったく寂しくないというのは嘘になるけど、彼ができることはうれしいことだからな」
一葉にとって義蔵のこの言葉は意外だった。
「そうなんだ・・・なら始めから正直に話せばよかったね。ごめんね、お父さん」
「・・・まぁ、それはもういいとして、お腹の子どものことだが・・・」
「え・・・」
一葉の心に再び緊張感が走り、お腹に手をやった。
「今何か月だ?」
「さ、三か月・・・」
「そうか。授かった生命、もちろん生むことになると思うのだが、費用とかどうするんだ?向こうもまだ学生だろう?」
一葉は義蔵の言葉に安心したが、費用のことまで考えていなかった。
「あぁ、まだそこまでは、話し合ってない。」
「そうか・・・じゃちょっと彼を呼びなさい。外にいるんだろう?浅田!」
「はい」
一葉が驚きをみせるなか、浅田が外へ行き聡司を連れてきた。聡司は先ほどよりだいぶ緊張した様子だ。緊張したなかでも、聡司は道場に入るときには一礼をして入ってきた。
義蔵の前に一葉と聡司が並んで座り、浅田は義蔵の後ろで皆を見守るようにして座っている。緊張感が走るなか、義蔵が落ち着いた雰囲気で言葉を発した。
「で、君名前は?」
「あっ、申し遅れました。岸谷聡司と申します。一葉さんとは約一年前からお付き合いをさせてもらっています」
「一年前?」
「はい」
義蔵は一年も内緒にしていたのかといった表情で一葉に目を向けた。一葉は、ただただ申し訳なさそうにしている。
「そうか・・・で、子どもができたとのことだが?」
義蔵が若干殺気を込めて言ったので聡司は怯みながらも勇気を絞り出すといった感じで言った。
「はい。結婚前にもかかわらず、本当に申し訳ありませんでした。そこで先ほども言いましたが、お嬢さんと結婚させていただきたく思いまして・・・」
義蔵はゆっくりと目をつむり、腕を組んで瞑想に入った感じで動かなくなった。
何分経ったか、義蔵は目をあけて緊張が解けない聡司をまっすぐ見て言った。
「君は本当に生涯に渡って一葉を幸せにする覚悟はあるのか?」
「はい。もちろん」
聡司にはその覚悟があっての発言であったが、義蔵には何か軽く聞こえてしまった。
「口では何とでも言えるからな・・・」
その言葉を聞いた聡司はもっともだと思った。どうしたものだと考えた聡司は、ふと一葉が一人娘だということを思い出した。
「あの、できれば僕は、婿養子としてこの家の人間になりたいと思っています」
「はぁ?何言ってるの?聞いてないよ」
一葉が間髪入れずに言い、目を丸くして驚いている。
「僕は次男だし、うちの両親にはだいぶ前にそうなるかもしれないと話してある」
「え・・・」
一葉がさらに驚き、少々の沈黙のあとに義蔵が口を開いた。
「まぁ、婿養子については置いておくにしても、男としての覚悟を見せてもらわないと初対面の君に娘を預けるわけにはいかない・・・」
その言葉に聡司よりも先に一葉が反応した。
「私は絶対に聡司と結婚するし、子どもも生むよ!」
「ちょっと一葉は黙ってて」
聡司は一葉を制し、義蔵に向けて言った。
「お父さん。あっ、失礼ながらこう呼ばせてもらいますが、お父さんのおっしゃる通りです。認めてもらうためには、何をすればよろしいですか?」
義蔵は聡司の凛とした態度に驚いたが、それを表の表情などに出すことはなく言った。
「そうだな、じゃここにいる浅田と戦って勝ったら許そう」
「ちょっとお父さん!」
一葉が声を上げたが、聡司が制して言った。
「それは、なにで戦うんですか?殴り合いですか?」
「まぁ、そうだな」
義蔵が殺気を放って言ったが、聡司も負けずと強い意志を持って答えた。
「わかりました。構いませんが、僕は暴力が大嫌いですし暴力では人間の強さは計れないと思っています。それでもというなら、僕は何もしませんので好きに殴ってもらって構いません。どうぞお好きに」
聡司が浅田に向き合い正座をして、まっすぐ浅田の目を見た。
浅田は困惑した様子で、当然のごとく何もできない。義蔵も意表を突かれた表情をしている。
一葉が半分誇らしげに半分は申し訳なさそうに義蔵に言った。
「ごめんお父さん。この人はこういう人なんです」
一葉の言葉に義蔵は我に返り「そうか・・・」と一言だけ言って腕を組み黙ってしまった。浅田も一応聡司に目をやっているが、何もできずに困惑した様子。
そんななか、聡司が義蔵の方に向きを変えて口を開いた。
「あの、こういうのはどうでしょう。僕が一葉さんを幸せにできなかったらここで腹を切るなり、自害するということで・・・」
聡司の言葉に三人は驚きの表情を見せた。聡司はそのまま言葉をつづける。
「あっ、もちろん口だけはない証拠に一筆書かせていただきます」
そういうと聡司はカバンからA4のコピー用紙を出して、書き始めた。
畳の上のため、ペン先が歪んでしまい書きにくかったが、今の聡司にはそんなことどうでもいいことだった。書き終えると、大学の出席確認で使う印鑑を出して押した。そして、皆に向かって見せた。
そこには、歪んだ文字で『大和一葉さんを幸せにできなかった場合には(離婚や家庭内暴力など)ここ神聖なる道場にて自害することを誓います。』と書いてあり、日付と氏名もしっかりと書かれていた。
それを見た三人は、驚きと展開の速さにしばらく呆然とし戸惑っていた。そして、一葉が戸惑いながらも状況を理解して、ようやく口を開いた。
「お父さん。こ、これでどう?」
一葉の言葉にいまだ困惑していた義蔵は「え・・・うん」と答えた。聡司はその言葉を了承してもらったと思い込み、心から喜んだ。
「ありがとうございます!必ず一葉さんとお腹の子どもを幸せにします!」
「え・・・あぁ・・・」
「すみませんが、ちょっとこれから大学の方へ戻らないといけないので、これで失礼します。一葉、くれぐれも無理はしないで体を大事にね。あとでまた連絡する」
「え?あ、うん・・・」
こういうと聡司は意気揚々として道場から出て行った。
道場に残った三人は半ば呆然としながら聡司を見送った。
その後、二人は無事に結婚し、長男である武が生まれて幸せな生活がスタートした。
再び現在。
義蔵が昔の話を終えると、一葉がお茶を持ってきながら言った。
「感謝するのよ。雷武。山放しが二週間になったのは、お父さんのおかげなんだからね」
「そうなの?」
話によると武が生まれて義蔵は後継者ができると大いに喜んだが、聡司が子どもには子どもたちそれぞれの生き方をさせたいと言い義蔵にもそうして欲しいと直談判に行き、そこで伝統である山放しも二週間にして欲しいと頼みこんだ。
聡司は認めてもらうまでは断食と水抜きを慣行すると言い出し、三日目で倒れて救急車で運ばれたことで義蔵も認めざるを得なかったという。
この話を聞いて、雷武が若干不満そうに聡司に言った。
「っていうか、二週間でも本当にきつかったよ。どうせなら無くしてくれればよかったのに」
すると今ままであまり言葉を発しなかった聡司が言った。
「いやいや山放し自体は、お父さんは素晴らしいことだと思っているよ。科学が進歩するなかで、自然とだけに向き合う時期は本当に大事だ。あれがあったから精神的な強さが身に付き、それぞれ色んなことがあってもこうして皆が幸せに笑って生きていけるんだよ」
「そうよ。それに何かあったときにために、GPSを服に縫い付けていたのよ。武の時にはまだ流通が少なかったから、お父さんが自分のお小遣いをすべて過ぎこんでね」
「そうなんだ・・・」
一葉が片づけをしながら付け加えると、兄弟三人は初めて聞く話に驚き、改めて父親の愛の深さを感じた。
一家だんらんのひと時が終わり一息ついているところで義蔵が言った。
「そろそろわしは道場へ戻るが雷武はどうする?今日も道場行って稽古するか?」
「うん!」
雷武は同級生に色々教えていることもあり、頻繁に道場に行って稽古をするようになっていた。義蔵と雷武は支度をして出て行き、他の家族もそれぞれのやりたいことをするために散らばっていった。
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