ドッペルゲンガー



「わたしはいいけど」


「な、何でまたキスなんですかッ?」


「頼む」


「う、うう……………わ、わかり」


「まどろっこしい」


 青義医院で合流を果たすなり、やたらと強気なアイリスが壁に千歳を追い詰めてキスをした。彼女の性質を誰もが測りかねている節があるが、無感情な声音と変化しない表情に反して存外に感情は豊かである。ただしその俺も流石に自分からキスする所までは読めなかった。大抵は俺とのやり取りを経る必要があったので、そこは意外だ。


「ん……はぁ……んぐ…………」


 ゲンガーに関係する、致し方ない犠牲だ。実際に使われるようなコラテラルダメージよりも随分軽いとはいえ、一々キスしなければ力が使えないなんて不便極まっている。当人も明らかに乗り気ではない。口直しのキスなんて尻軽女が使いそうな言葉でさえ、千歳が言うと単純に痛ましい。泣きそうな顔でそう言われても、こいつは空気より尻が軽い女だとは思えないのだ。


 明らかにその接吻に戸惑っていた後輩だったが、不意にその様子が変化した。それとほぼ同時にアイリスがキスをやめて、とことこと俺の方に戻ってくる。


「…………げ、ゲンガー?」


「……正解だ』


 なにをさせたかったかは言うまでもない。『火』の力の有無を確かめただけだ。鳳先生の言う通り、その人物の正体について知る力を火翠は持ち合わせているらしい。条件がキスとは思わなかったし、今まで気が付かなかったのも納得だ。


「赫倉ちゃんってゲンガーだったのッ?」


「何となくそんな感じはしてたけどやっぱりそっかー。でも敵意がないよね」


「アイリスは特別なので。山羊さんもそんな反応してくれるって事は黙ってて正解か。とにかく、これでお手軽にゲンガーを判別する方法が手に入ったな」


「―――ちょ、ちょっとセンパイ!? も、もしかして手当たり次第にキスしろとか……い、嫌ですよ! 流石に嫌です! 良く知りもしない人とキスなんて!」


 彼女は俺を何だと思っているのだろうか。


 実際、その方法はありだ。まともな鏡ゑ戯びなら出来るだけ日数を稼いで『火』の試行回数を増やすというやり方もあるだろう。問題があるとすれば当人の感情が一切尊重されていないせいで負担がとてつもない大きさに膨らんでいる事。条件が条件だ、余程慣れてくれないと喜安くは使えない。


 それはそうと、先程からアイリスがじっとこちらを見つめているのは何だろう。視線を向けると、彼女は何度か瞬きしてずいっと近づいて来た。


「くちなおし」



 ―――こいつ、まさかこれがやりたかったのか?



 緊張感の欠片も無いゲンガーが居るらしい。最初は無視したが「したい」「したい」「したい」と人目も憚らず繰り返す彼女に根負けし、その要求に応えた。キスした所で表情は一切変わらないのだが、心なしか嬉しそうに身体を揺らしている。


「まんぞく」


「―――この場で一番軽率なのって間違いなく匠ちゃんだよね」


「は?」


「せ、センパイの浮気者……」


「いや、誤解なんだが!? 文句があるなら火翠に言え! 誰だよキスを条件にした奴は。誰も得してないぞ!」


「わたしはひすい」


「赫倉だろお前は!」


 冬の差しかかる十一月だが、アイリスはオーバーサイズ気味なトレーナーを着用している。ただしオーバーなのはサイズだけで その丈はショートであるので、腕を上げてもらえば分かるが相変わらずのヘソだしだ。お腹を撫で回すと、彼女は直ぐに身を捩らせた。


「くすぐったい」


「…………あはは。なーんか馬鹿馬鹿しいやり取り見てたら気が抜けちゃった。日常ってこういう事を言うんだろうね」


 一連のやり取りを微笑ましく眺めていたお姉ちゃんが呟く。そう言われると、今のやり取りにナムシリ様が介入する余地は無かった。俺は俺として。草延匠悟として。或は誰でもない誰かとして。或は単なる人間として、皆との交流を楽しんでいた気がする。


「ゲンガーとの戦いが終わったら、またこういう風景が見られるのかな」


「有難うお姉ちゃん。お蔭で話が本筋に戻りそうだ。千歳。お前にはこの力で重要な仕事をしてもらいたい。早い話がキスなんだが、一人分だけだ。それ次第で俺の行動は変わる。辛いだろうが、頼まれてくれるか?」


 何人分だろうとキスはキスなので、千歳も快諾はしない。顔を真っ赤に染め、手を後ろ手に組み、もじもじと身体を揺さぶり、しっかり俯いて。ようやく消えかかった声を絞り出した。




「………………………………い、一回なら」




「すまん。頼まれてくれ」


「匠ちゃん。あたし達にも何か出来る事あるかい?」


「お姉ちゃんと山羊さんには黒幕を追い詰める為の網になってもらう。囲んで逃げ場を無くしたいんだ」


 それは丁度、黒幕がかつて俺にやったように。


 今度は俺が、詰ませる番だ。


「わたしは」


「お前は見ててくれ」


 それぞれの行動方針がまとまった所で、レイナの携帯に電話を掛けてみる。青義先生の病院で合流しようという話だったのに、未だにどちらも来ないのはそういう意味だ。通話は繋がったが、先程とは違ってレイナの応答がない。


 それでも俺は、用件を手短に伝えた。



『悪いんだが、合流場所を変更しよう。ドッペル団として集まりたい。そうだな、俺とお前が通ってた中学の校庭なんてどうだ?』


『………………』


『ちゃんと来てくれよ。話したい事がいっぱいあるんだからさ』



 電話を切って、医院を後に。




























 俺達の関係は特別だった。


 初めて話しかけてきた奴と、初めて話しかけられた奴が一緒になった。草延匠悟が救われたのは奴のお陰で、悲しいかな、今もその感情は捨てきれていない。犯人についてその筋を知る者から正体を受けても、信じたくない。


 明木朱斗は単なる男の子だった筈だから。


 明木朱莉は普通の女の子だった筈だから。


 でも、信じないといけない事もある。ゲンガーと戦う理由や知った切っ掛けを最後まで話そうとしなかった奴には。プライベートな事情があると勝手に遠慮していた俺には。その義務と罪がある。



 ゲンガーに正攻法で勝つのは不可能。



 多勢に無勢。余程込み入った事情が無い限り、戦いを制するには数が有効だ。それはドッペル団として活動中、嫌という程感じてきた。今もそれは変わらない。誰が味方になっても数に対して質で潰すのは非常に難しいと。


 それでも、アイツくらいなら。


 校庭に足を運ぶと、日の照り付ける砂の香りが鼻を擽った。砂埃が目に痛い。何度か眼を擦って視界を正常にせんと努力する。





「やっほー、ネームレス♪」





「……久しぶりだな。デモン」


 彼は、立っていた。


 彼女は、立っていた。


 気を失ったままのレイナを脇に抱えて。そいつは立っていた。





「お前がゲンガーの頭領だな? 明鬼朱斗」


「それについて答える前にさ。僕の名前くらいちゃんと呼んでよ? 教えたでしょ?」


「朱莉じゃない。だってお前、男だろ?」


 喉仏はない。


 発育も未成熟で、骨格すらどちらとも取れる。それでも目の前の彼が男だというのは、ハッキリと分かる。


「正直な、納得は行ってなかったよ。男の制服着てるから男だと思う。それで何年も全員騙せるか?学校に何人いると思ってる。どれだけ行事があると思ってる。お前は陰謀論に出てきそうな無敵の闇組織じゃないんだ。まあでも今までバレてなかったからそうなんだろうって今までは流してたが。簡単な話だ。お前は男だった」


「言ってる意味が良く分からないな?」




「ゲンガーは自由に身体を作り変えられる。それが本物らしくないからやってこなかっただけで、らしくないことは幾らでも出来る。山本ゲンガーのようにな」




 だから、人体の知識に意味なんてない。ゲンガーの身体を構成する成分はその全てが計測不能の未知なる状態だ。性別を誤認させるくらい造作もないだろう。そう考えれば筋が通る。あれだけべたべたと激しいスキンシップをしておいて、性別を誤認していた筈がないのだから。


「……そこまで言うからには、ゲンガーの正体について聞かせてもらおうか。君は要するに僕をゲンガーだと言っている。そういう決めつけは対ゲンガーで一番よろしくない行為だ。正体を知ってるなら別だけど―――教えてもらおうか?」







「生まれなかったもう一つの人格だろ?」






    


 つまりゲンガーの正体はもう一人の自分―――ではなく。『自分』に選ばれなかった人格。ウツシは所詮ウツセミ様の手で再現されただけの死人だが、ゲンガーはそもそも生まれてすらいないだけの人間。


 外見の違いなんてない訳だ。人類とゲンガーは紙一重を違えた存在なのだから。


「とある先生が言ってたんだが、あるカップルから固有の人格が生まれる確率は安く見ても五十兆分の一らしいな。だからたまたま生まれただけの奴呼ばわりもするし、自分が偽物なの一番良く分かってるくせにこっちを偽物呼ばわり。尋問記録は状況が良かったよな。あの状況じゃ本物と偽物の証明なんて関係ない。あの時の先生は機嫌悪そうだった、なのに齊藤大太郎という名前のゲンガーは最後までそこに拘ってた。そもそも―――固有の人格がなきゃ本物と違う性格になったり本物と違う名前になったりもしない」


 京太ゲンガーの名前は清志。それは母親へのインタビューにて、彼女が付けようと思っていた名前の候補であった。果たしてそれは偶然だろうか。人間には幼児期健忘というものがあるから、仮に本人の脳内を覗けてもその辺りを知るのは不可能だ。まして母親に自分の名前の候補を聞く機会なんてそうないし、母親だって忘れている事もある。


死者をウツす力に反するならば。生者を鏡に類似した存在を出すのも間違ってはいない。


「根本から間違ってた。全部な。本物らしくない能力があってもそれでいいじゃないか。人類を侵略したいなら、地球を乗っ取りたいなら強い方がいい。それでもアイツ等は、徹底して本物であろうとすることに重きを置いてた。ゲンガーはただ生まれたかっただけなんだろ? もしアイツ等に俺達を憎む理由があるなら、それは自分を差し置いて生まれた事だ」


「僕は正解だなんて一言も言ってないよ。人格形成期を知らないの? 人の人格は環境によって変わるんだよ?」


「かといってそこで全てが作られる訳じゃない。両親の影響だってあるさ。じゃなきゃ人格はここまで複雑にならない。俺の言った事、間違ってるか?」


「………………いいや。正解だよ。確かにその通りだけど、僕も納得いかないね。君はオカルトに疎い筈だ。それだけで気付いたとは思えない。そもそも何処に行ってたの?」




「鬼灯が昔住んでた場所だよ」




 朱斗はどうやら全てを知っている訳ではないようだ。知らないままこの力を使っていたと言うなら、猶更罪深い。


「簡単に言えば、ゲンガーの元ネタだな。お前がやらかしてるこれの大本。鏡ゑ戯びって言うんだけどな、それがここの状況と酷似してるんだよ」


「……というと?」


「人間の中に全く見分けがつかないに偽物が紛れました。話し合いで見つけて殺しましょう。偽物の方は、実はあなた以外全員偽物です。この地を守る為に殺しましょうと嘘を吹き込まれる。ゲンガーに転用するならこうか? 実は今いる本物は貴方を押しのけて強引に生まれた存在です。殺しましょう」


 朱斗は決して嘲笑わない。口を固く結んだまま難しい表情を貫いている。沈黙は時に雄弁だ、それが何を意味するかは本人が喋るよりも都合よく伝わってくる。鳳先生の考え方は何かとタメになる。


「お前の力で生まれる筈の無かった人格が生まれてたとして、そんな奴等が連絡を直接取り合うのはまあ不可能だろうな。出来たら詰んでるし。でもやろうと思えば出来るんだろ? ゲンガー同士じゃなくて、お前が統率する形ならさ」


「……どうしてそう思うの?」


「本格活動する前のドッペル団の情報が洩れてゲンガーに悪用されてるのがおかしいってのと。うちの故郷の因習が外で持ち出された挙句にこんな混乱を引き起こしてるって点だな。鬼の血を引いててドッペル団の存在を知ってる。消去法でお前しかいない」


 これが俺の導き出した結論。


 導き出せた結論がこれ。


 


 


 しかしそれは決して、全てではない。




「もしも全部合ってるなら、どうしても分からない事があるから教えて欲しい―――何でこんな事した?」


 明木朱斗は全ての事情を把握している訳ではなかった。管神の事も知らなければ鬼灯がどうのこうのという家のゴタゴタも知らない。俺がゲンガーの正体を特定するに至ったのは間違いなくその方向からで、結果的には一度名莚匠与に戻らなければ得られない情報だったのだが、同じ筋道を辿っていないなら全ての前提が正しいまま成立しなくなる。


 彼には人間を嫌う理由がない。それがあるなら俺を生かす理由もないし、俺にゲンガーの存在を教える必要もないだろう。過去を知らないならそこだけが引っかかる。


「お前達はそもそも、何なんだ?」 


 曖昧な質問で、返してみる。






 朱斗は哀しそうに微笑んで、開き直るように手を広げた。











「―――何って? ゲームだよ。僕と朱莉の全面戦争だ。またの名を、当たり前の恋の話」 





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