水鏡火神



 名前とは存在証明。


 存在証明とは、即ちその人間の外観。存在証明がなければそれは観測出来ない、生きるも死ぬも無く、そこには何もない。利用すれば死の現象を欺く事が出来る。存在証明を喪った存在を認識出来るのはナムシリ様だけだ。だからもし俺に医者としての力があれば、名前を奪っている間に治療してギリギリ一命をとりとめるという芸当も可能だったかもしれない。


「ごめんな、アクア君」


 名前を喪ったモノは誰にも見えない。俺に名前を貸してくれた管神の住人も今は無人も同然の状態だ。だから死体の後処理が出来るのも俺だけ。一人になる予定はないと思ったが前言撤回だ。名前を奪った俺には、彼を埋葬する義務がある。せめてそのくらいはさせてほしい。


「君の名前から、全部読ませてもらった。その情報、信じてもいいんだな」


 モノ言わぬ死体を背中に担いで、誰も居ない道を歩き続ける。そこら中で誰かの叫び声やら喘ぎ声やら断末魔やら。目の前を車が通り過ぎても、集団でリンチを加える人間を見つけても構わず歩いていく。


 彼の親がどんなつもりで名前をつけたかは分からないが、読みの通りにしてあげれば、少しは喜ぶかもしれない。それにここは、少しうるさいだろう。たくさんの生者とたくさんのゲンガーが争っていて静かに眠る事も出来やしない。その点、川や海は安全だ。わざわざ潜ろうとする人間も、今は居ない。深海なら特に誰も来ない筈。


 その前に水圧で肉体が潰れるだろうが、そこは気持ちの問題で。


「救世人教の教祖と犯罪者は同一人物だった。それでいいんだよな」


 歩いている内に、吊り橋が見えてきた。それ自体は既に機能を失っている。橋の半ばほどで何十台もの車が廃車確定の衝突事故を起こしたまま止まっているのだ。正常なドライバーがここを通りたくても、一体どうやって車のバリケードを突破するつもりか。


「…………冷たいな』


 つり橋の端まで歩き、背中を川の方へと向ける。後は力を抜いてこの荷物を離せば取り敢えず沈んではくれるだろう。


「詠姫が俺を背負っていった時もこんな気持ちだったのかもしれないな』



『感傷に浸っておられる所申し訳ございませんが、敵が近くに接近しております』



「そうですか」


 死体から手を離すと、重力に従ってそれは落下。ボチャンという水音と共に、川底へと沈んでいった。


「……で、敵ってのは何処に居るんですかね?」





「敵って、何の事?」





 疑問の声には、狂おしいほどの親愛に満ちていた。



 黒で統一されたベル袖のニットとレザーのプリーツスカート。背中の半ば程まで伸びたセミロングの黒髪は闇より黒く、夜より暗く。収縮色で統一されたファッションには体型が隠しにくいという問題が残るものの、女性のスタイルはケチのつけようもなく完璧で。この異常な世界でも尚、彼女に浮世離れした空気を纏わせる。


「……マホさん」


 水鏡幻花は後ろ手を汲んで、首を傾げながらゆっくり近づいてきた。


「もしかして敵ってのは私の事かな? なら戦ってもいいけど」


「……水鏡幻花。我が問いに答えよ。お前はどちら側だ?』


「―――そういう尋ね方は感心しないけれど。記憶が戻ったなら何よりだよ。いいよ、答えてあげる。私は君達の味方だよ。火翠千歳と黄泉ノ山羊を送っただろう? 何となく、一押し足りないかなと思ってね。私があげた紙が有効活用されてるんだとしても、あそこは事情が入り組んでるから」


 凶器を隠す気もなく手元に握り込んでいるのに、彼女は少しも臆する事なく近づいて、横に並んだ。心なしか家庭教師をしてくれた時よりも距離が近い。息が蕩けて詰まってしまいそうだ。


「―――無事に戻って来たようで何より。私としては恋人として接したかったから、そこが少し残念かな」


「え?」


「冗談だよ。残念なのは本当だけど。こうなったら私も水鏡家の人間として答えなくちゃいけないからさ。本人はもうとっくに死んでるのに、何が面白くて今更偽物っぽい振る舞いをしなきゃいけないのかなんて。クフッ」


「マホさんもやっぱりゲンガーなんですか?」


「世間一般に蔓延るあれとは違うと思うよ。私は水鏡幻花として生きるように本人に命じられたからね。だから本当の名前なんてものはないし人類も憎んでない。彼女は窮屈な立場にあったから。私が代わりに人生を謳歌してるんだよ。何の意味があるのか分からないけど、自分に頼まれちゃね」


 マホは優しい。お姉ちゃんはそう言ったが、本当にその通りだ。普通の人間以上に親切と言っても過言じゃない。水鏡幻花が生きていたのは百年以上も前の話だ。そこから数えて今に至るまで、ずっと本人の願いを叶える為に生き続ける。時代の生き証人がどんなに生き辛いかは想像に難くない。


 そこまで行けば、最早呪いだ。


 自分が自分に掛けた呪い。


「ゲンガーの正体を教えてください」


「知らない。どうでもいいって言っただろ。私と違うって分かるのは細かい点だよ。本人とは違う性格、本人とは違う名前、倫理観の欠如、人にあって人にあらずとは言わないまでも、本人じゃないのは間違いない……分かり辛かったかな? 私は不老不死の研究で生まれた結果なだけで、現我はそれを真似した欠陥。私は本人の記憶を全て持っているけど、あっちにはない。私には本人以上の能力は無いけど、あっちにはある」


 確認されているのは不自然な再生能力のみだが、それだけでも人間をやめるには充分だ。俺はそれを本物らしくある為だと思っていた。アイツも概ねそんな事を言っていた。マホさんはそれを最大の欠点と評している。人間らしさを追求するなら再生能力は要らない。確かにその通りだ。欠けているのかどうかは表現の問題。


「マホさん。明木朱莉の名前を書いたのに夢を見ませんでした。これはどういう事ですか? 偽名は駄目って事ですか?」


「あれは縁を見てるだけだからね。何も見えないなら縁がないって事になる」


「全然分からないです。お姉ちゃん連れてきてないので」


「人間じゃないって事だよ。管神から帰って来たんだ、それくらい分かってるんじゃないの?」


「…………」


 知っていた。確かに知っていたが、信じたくなかった。あの紙切れには配慮という概念がないのだ。直接的すぎる答えには大抵の人間が怯むだろう。建物と本音なんて概念で二分してしまう人間は特に。


「他に気になる事は?」


「……千歳と山羊さんを連れてきた理由は何ですか? どうでもいいって人なら、あの二人を連れてこようとは思わない筈です」」


「私は仮にも水鏡家の女だ。火翠の血は見れば分かる。死にたがりの血はまず確実にゲンガーじゃないから、じゃあついでに送っておくかという軽率な気持ちさ」


「ちょっと待って下さい。見れば分かるのはまあ……色々あるんでしょうけど、山羊さんに対する謎の信頼はどういう事ですか!?」





「現我は生きたいという願いが共通してる存在だ。死にたがりの、死ぬ宿命を背負った夜山羊の一族には近づきたいとも思わないだろうね」





 生きたいという願いが共通している?


 それは矛盾している。ならば黒幕の指示に従う道理はない筈だ。憎悪すべき人類と相打ちを取る理由なんてない筈だ。


「…………最後に一つだけ聞かせてください」


 向き直って、マホさんの瞳に視線を合わせる。アイリスとはまた違う、綺麗な瞳だ。今にも吸い込まれそうな深淵が心の闇の如く広がっている。


 水鏡幻花を、抱きしめた。


「…………!」


「実際、俺の家庭教師はどうでした? この際なんで、本音を聞かせて下さい」


「―――クフフ。それが最後の質問でいいの?」


「ゲンガーの正体は分かったので、大丈夫です」


 マホさんは驚いたように目を細めると、そっと優しい抱擁を返してくれた。


「―――楽しかったよ。とても」


「俺も楽しかったです」




「あれだけ勉強を頑張れたんだ。君なら出来るよ匠与君」




「……呼び捨てでいいですよ」


「じゃあ匠与。うん。匠与。いい名前だ。私は過去の後始末でここを離れないといけないけど、君なら必ず成功するさ。応援してるよ」


「また家庭教師お願いしても良いですか?」


「君、学校辞めたんでしょ――――――でも、ま。仕方ないから私のお家においでよ。今度は二人っきりで、朝からつきっきりでもいいよ?」


 



























「せ、センパ…………はぁ………………センパイ!」


 マホさんと別れたついでに自宅へ戻ると、千歳が息も絶え絶えな様子でズルズルと走ってきた。マラソンをした後のレイナが大体こんな感じの走り方をする。


「こ、これ、受け取って下さい!」


「お、おお?」


 挨拶も飛ばして押し付け気味に渡してきたのは匕首だ。プレゼントにしては物騒すぎるし、凶器ならアイリスから借りたナイフで間に合っているのだが……気になるのは、柄に記された『名夢識』という文字。


「…………これは?』


「そ、その。事情を話したらお父さんが渡してくれたんです! それでその……ああ、ちが……えっとぉ……あの…………ああその……」


「うん。お前が躊躇うって事は大体分かる。火翠の事情はちょっとだけ把握してるからな。それ以上は言わなくてもいいぞ」


 そして事情を話さず済む為には受け取らなくてはいけないので、取り敢えず受け取った。


「お前も色々大変だろうからな。自立出来る様になったら俺の家にでも来いよ。それくらいの世話はする」


「い、いいんですか!?」


「家に帰っても辛いだけだろ」


「お言葉に甘えさせていただきたいです!」



 ―――おお。



 こういう時は控えめな千歳が、最後まで元気いっぱいだ。心の底から喜んでいる事がこちらにも伝わってくる。火翠に対する応報が子孫にまで及び、その子孫こと千歳が割を食うシステムは個人的に許しがたい。だって彼女には何の罪もないのだ。事情を話したら云々と言っていたし、俺の傍に居れば取り敢えず火翠家が彼女に接触してくる事はないだろう。


「じゃあついでに仕事頼んでもいいか?」


「何でしょうッ?」








「アイリスにキスしてみてくれ」 

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