ヨミ返る犠牲

俺達に違いはない

 全ての答案用紙が返ってきたのは一週間後の事。テストは終わり、既に部活も再開しているが、答案を彼女に見せるまで俺は直帰を貫いた。ゲンガー騒動よりも何よりも、一度本気で臨んだ挑戦には結果をもたらさなければならない。それはもたらされるだけでは駄目だ。教えないといけない。

 今回、俺の為に一番頑張ってくれた人に。

「…………全教科満点は、無理だったか」

「んー自信はあったんですけどね……」

 机の上に答案を全て広げて、俯瞰するように点数を見つめる女性が居た。マホさんはこの一週間俺の為に身を粉にして尽くして……大袈裟か。それでも彼女がいなければこんな点数は取れなかった。ひねくれ者な俺の言葉なんて信用出来ないかもしれないが心の底から感謝している。

「勝ったの?」

「勝ちました。貴方のお蔭です」

 親しき中にも礼儀ありと頭を下げる。何の反応も出さないのが不安で数秒数えてから顔を上げると、マホさんは艶やかにほほ笑んでいた。『自分事』であるかのように嬉しく、またそれを隠しきれていない。

「匠悟君」

「は、はい」

「おいで」

 改まって名前を呼ばれ、立ち上がってしまう。それ自体に特別な力などない筈が、言霊に導かれ宝だか引き寄せられるように彼女の胸の中へ。優しく抱き留められると、全身の力が瞬く間に抜けていく。

 子宮に回帰しているかのような暖かさ。柔らかさ。人が生きているだけで餓えて忘れていく筈の、蕩けるような快楽が身体を包む。心までも丸裸に、俺は何も考えられなくなった。

「ここまで本当に、よく頑張ったね。嬉しいよ」

 それは彼女の口を借りて、彼女ではない何者かが言っている気がした。

「こうして、いつまでもいつまでも、君を抱きしめて止まっていたい。本当に良い子だ、君は。どうやら自分の事をひねくれていると思っているみたいだけど、そんな事はないよ。君は純粋過ぎただけ。ひねくれざるを得なかっただけ。たとえそれが法を逸脱するようなものでも、私は君を肯定する」

「…………ンフ。フー……」

「私とは一旦お別れだけど、また会う時も来るだろう。その時は……そうだね。君が望むなら一人の女性として接してもいいかな」

 深すぎる谷間から顔をあげて、俺は力なく尋ねた。

「名前。教えてください」

「ん。そういう約束だったね。私のフルネームは水鏡幻花みかがみまほか。呼びにくいなら幻花ゲンガと呼んでも結構。名前に質問が無ければ、そろそろ帰る準備をしたいんだけど」


 ……名前に質問?


 どういう状況だ、それは。

「…………あの」

「ん?」




「姉ちゃんと結婚する気ありませんか?」




 突拍子もない発言は、確実にお別れムードを台無しにしていた。幻花―――マホさんは目を白黒させながら俺を見つめ返してくる。

「……な、何言ってんの?」

「いや、姉ちゃんと結婚してくれたらマホさん家に残ってくれるかなって」

「―――またとんでもない発想をするね。ヒメとそういうのは……考えた事もなかったな。私は同性愛者じゃないから。そしてそういう発想も無かった。婚姻関係を結べるかはさておき、それなら滞在しても問題ないね」

「でしょ?」

「それはそれとして空気読んでくれって感じだけど」

「すみません」

「やはり君は愉快だなあ。愉しませてくれたお礼と言ってはなんだけど、幾らかウツシガとの戦いに役立つ物をあげよう」

 身体からマホさんの感触が離れると、本能的な寂しさが心の中心から外側へ、錆のように広がっていくのを感じる。あの瞬間だけはあらゆる痛みが無痛だった。

 返る準備をしたいと言いつつも、そう言えば家に来た時も手荷物などは無かった。身の着だけが全てだ。玄関前まで足早に移動する彼女に追従すると、振り返った彼女の手には幾束の紙が握りしめられていた。

「名前を言っても分からないだろうから使い方だけ。気になる人の名前を書いて枕元に入れて寝て」

「それで何が分かるんですか?」

「その子の未来、または末路が見える。未来はそれまでの選択や行動で変化してるから、もし死体が映ったら死ぬって事だし、君と良い感じになるようなら一緒に居る姿が見えるね。あげるのは二〇枚だからご利用は計画的に。使用した後は燃やして処分してね。使い方は君に任せるよ」

「……死期が近い人を見つけてマークしろみたいな話ですか?」

「使い方を強制はしないよ。ただ、一つ言うなら……私と君で例えよう。それに私を記せば私の未来が見えるね。その未来で、例えば私が自分のスリーサイズを漏らしていたなら、君は教えてもない情報を先に知る事が出来る」

「例えが最悪!」

 ゲームで例えるなら攻略情報を少しだけ先取りするようなものか。かなりシビアな範囲だが有効に使えればそれに越した事はない。二〇枚『も』と言うべきか『しか』と言うべきかは分からない。尤も、数量の多寡については『ご利用は計画的に』という言葉に集約されている。俺次第だ。事が上手く運べば余るだろうし、明日から早速足りなくなるかもしれない。

「実物はこのくらいかな。後は―――目を閉じて」

 言われるがまま目を瞑ると、耳に柔らかい感触が当たった。それがキスだという事実を理解するのに二秒半。唇と頬以外のキスは初めてで、あり得ない場所とさえ思っていたせいで、呆気に取られてしまった。

「クフッ。ヒメには内緒。バイバイ」


















姉貴こと草延心姫が帰宅したのはマホさんが帰宅してから一時間後。

「ただいま~」

「姉ちゃん!」

 玄関まで迎えに行って、早速血の気が引いた。


 骨折していたのだ。


 ソファまで付き添ってから事情を尋ねた所、その理由は秘密裏の入院……否、個人的な治療を受けていたからだそうだ。怪我さえなければ後二日早く帰れたとは本人の談。何でも仕事が終わった時から帰ろうと思えばいつでも帰れる状態にあったのを、パートナーに引き留められていたそうな。

「御覧の有様だけど、心配しなくてもいいよー。私はこんなのぜんっぜん気にしてないから」

「いや、無理だろ! 本当に大丈夫なの!?」

「あっはは。全然大丈夫ですとも」

「姉ちゃんの嘘つき!」

「嘘じゃないもん!」

 それ以外の怪我は素人目には分からないが、それだけでも十分に重傷と断言出来る。日常生活にも少なからず支障を来すだろうし、寝る時もお風呂に入る時も不便そうだ。『他人事』でもそう思えてしまう。楽観的を通り越して阿呆な姉貴には分からないかもしれないが、流石にその怪我は悠長でいられる段階を越している。

 そんな健気な心配を一蹴するように、姉貴は景気よく笑った。

「弟君は心配性だなあ。お姉ちゃんがそんな柔い鍛え方してると思ったら大間違いなんだ……心配してくれるのはちょっと嬉しいけど、約束通りちゃんと帰ったから、それ以上の心配は無用ね。ね?」

「うーん……納得しづらいけど分かった。何かあったら手伝うよ。料理とかも出来なさそうだし。テロうりの上達機会が失われたのは痛いよな」

「あ、そっちの心配!? 出来れば私の方を心配してほしかったな……んにゃ、いいか。料理はコンビニでも外食でもどうにかなるし。どっちかってと弟君にはお風呂とか着替えとかを手伝ってもらいたいんだけども」

「それは駄目!」

「嫌、じゃなくて駄目なんだ? 一応理由聞かせてもらってもいい? 場合によっちゃ普通に傷つくよ?」

 倫理的に。

 または道徳的に。

「マホさんと風呂入ってから自分というものが信用出来なくなりました」

「え、風呂入ったの? マジ? 弟君から犯罪の臭いを感じます……でも別にいいじゃん。姉弟だし。昔は一緒に入ったし」

「昔は昔で今は今だよッ。とにかくそっちは知らないから。それ以外の……家事はするからッ、そっちは一人で頑張って……ていうかさ、骨折してるのに風呂とか入るの?」

「ん? ああ、これ家に帰るまではつけとけって言われたからしてるだけなんだよ。だから破壊しようと思ってる。これは手伝ってよ?」

「あ、うん。それはいいけど」




 ん?




「骨折治ってるなら今までの話なんだったんだよ!」

「骨折は治ったけど暫く腕が動かせないの!」

「どういう事なんだよ!」

「そういう事なんだって!」

 姉弟喧嘩とも呼べないやり取りが家内に響く。


 胸の楔は、跡形もなく消えてしまった。     

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