最強最悪のテスト対策

 俺は、夢を見ない。

 眠りが深くなったからだと言われているが、どうだろう。確かに、姉貴に引き取られてから寝室の条件は上がった。では睡眠の質が明らかに低いと分かる寝落ちではどうだろう。そういう時も夢を見ない。記憶の整理と言われる現象が起きないなんて、そんな事があり得るのだろうか。


 ―――覚えてないだけ?


 夢を見た記憶自体忘れているならこの話はそれで終わりだ。ただの気にしすぎで終わる。終わりたいのだが、姉貴が離れてからというもの突如として出現した胸の楔がどうしても引っかかる。何かを忘れているのではないかと不安にさせる。

 一度膨れ上がった恐怖をなかった事にするのは難しい。夢の中に『他人』なんて存在しないから。きっとこの間は、『俺』が俺である時間。


 お姉ちゃん。


 みんなの事は好きだけど。お姉ちゃんの事はもっと好き。

 早く帰ってきてほしいなあ。

 死んだとか言わないよね。俺を残して死なないよね。お姉ちゃん。大切なオトウトなんだもんね。約束破らないでよ。約束ちゃんと守ってよ。俺はずっと信じてる―――


「かああああああああああ!」

 痛い。

 楔が奥に沈んでいく。その長さを考慮すればとうに身体を貫き、絶命させている。つまりこれは夢か、もしくは幻覚だ。白昼夢とか蜃気楼とかその類。ゲンガー何かと違って物理的に存在しない物体。そんなの菊理に会う前から分かっていただろう。ならばこの痛みは何だ。

「ああああああああッ―――」

 とうに死んでいる状況を敢えて生かしている。生殺しだ。この部屋に防音設備など無いので、拷問で使われる様な痛みが継続するようならマホさんにも、いつかは近隣住民にも迷惑を掛ける事になるか。その程度の良識で止まる痛みなら、とっくに止まっている!

「ああ、ごほッ、ガッ、ふ。ああ……」

 視界が充血に染まる。ブツっという音が聞こえてから耳がどんどん遠くなっているのが分かる。ゲンガーによる不可視の攻撃だと思いたいが心当たりはない。まだ俺達の正体は割れていない筈だ。

 痛いのは嫌だ。死にたくない。



 その全てを踏み躙るような暴力を止めたのは、マホさんだった。



「落ち着いて」

「…………縺セ縺サ縺輔s?」

 自分の声が聞こえないせいか、果たして正しく発音出来ているかもわからない。耳が聞こえないだけで実質的に会話も封じられるとは盲点だった。人は自分の声を聴いて初めて会話を成立させているらしい。

 では何故、彼女の声だけは言葉として理解出来る。

「……明日になれば引く痛みではあるけれど、きっと堪えられないんだろうね」

「縺薙l縺ッ荳?菴薙←繧薙↑逞帙∩縺ァ縺吶°」

「家庭教師として、その側面でしか関わらないつもりだったけれど。君には少し情が湧いた。このお詫びは後で必ずするよ。今は許せ」

 マホさんは楔を当たり前のように掴むと、念仏とは似ても似つかぬ言葉を唱え始める。

「かーれーねーそーりゃーゅいーえーのーきーさーてー」

「ゆめ まごうことなかれ そのなのよむは うたひめのつとめなり」

「いたみをしれば おのをしる われがしめそう みづもせの まぼろのはなの ひがんのさきに」

 一字一句も理解出来ない呪文が終わると、突き刺さっていた楔に罅が入り、それ自体も少し浅くなった。

「……匠悟君。まだ痛む?」

 首を振る。両手を伸ばす。

「……じゃあ一緒に寝よう。今日だけは私の身体に溺れても……ヒメには黙っておいてあげる」



















 

 昨日の記憶が途切れている。

 目覚めた頃には、マホさんは居なくなっていた。リビングに降りると相変わらずの無愛想と共に朝食を作っている最中で、とてもじゃないが昨日は何があったのかと尋ねられる雰囲気ではない。彼女は飽くまで家庭教師。俺のテストの点数が上がればそれ以上の望みはない。

「行ってきます」

「テスト三日前だね。体調は大丈夫?」

「はい。お蔭様で」

「ならいいよ。今日も一日頑張って」

 励ましを受けて外へ出ると、レイナと朱莉が腕を組んで佇んでいた。見るからに俺を待っていたようで、多分主導権は朱莉にある。レイナは無防備にも欠伸をしている最中だった。俺の顔を見てやめたが手遅れである。

「おお、朝一緒に登校しようと言った覚えはないぞ」

「テスト三日前だよ? 僕達は切磋琢磨し合うライバルだ。いがみ合う必要も距離を遠ざける理由もない。たまにはいいよね……って澪奈部長が言ってる」

「ん…………」

「めっちゃ眠そうだし、絶対嘘だ。まあいいけど、三日前だからって勉強会に参加したりはしないぞ」

「それは分かってる。ただ、ちょっと気になる事があって」

「何だ?」

「いっ君が最近、色んな先輩と親しい感じなの」

 普段ならば気にも留めないが、俺達は大神邦人がゲンガーなのを知っている。あの電話が狂言でない限りはだが、お世話になった先輩に狂言を仕掛けるような男ではなかった筈だ。暫定的に彼はゲンガー。

 本物らしさを追求した結果そういう行動を取っているなら、朱莉も異変を感知する事はなかった。わざわざ俺とレイナを連れてこの話をした時点で、それは『らしくない』。ゲンガーとして何か仕掛けようとしているのは明白だ。


 ―――あんまり放置するのも良くないのか?


 ゲンガー確定者よりも危ないのは未確定者。その理屈は間違っていないが、相手がバレていないと思っているならそれはまだ潜伏している状況と変わらない。それでも放置したのは俺達の動きをチェックしている可能性があるのと、風紀管理部の立場を危うくするからだ。結果的に冤罪だったので当時の大神君に非はないが、今度こそ何か関与しようものなら風紀委員会は容赦なく俺達を排除するだろう。それか、銀造先生が全員を追い出して新しくメンバーを選別するか。

 諸々の事情で動くに動けなかったが、凶行を見過ごす程俺達も甘くはない。

「具体的には?」

「いや、私も部分部分を目撃しただけだから詳細は分からない」

「そうか……ん? 全会一致が基本方針になってるけど、リーダーがなんか俺みたいな感じになってないか」

「まあ、僕は色々やんごとなき事情があるから」 

 そう言われると何も言えない。機密性皆無の薄い真実だが、これでも一応隠している情報だ。リーダーに隠し事があっては困るという理屈は信用の面で間違っていない。そこに問題があるとすれば俺には秘密なんか一つもないと思われているという事だが……秘密の存在そのものを知られていないなら有難い。精々有効活用させてもらおう。

「分かった。テストが終わってから考える」

「そんな悠長でいいのかな」

「本物ならアイツもテストを無視出来ないからな。そこまでは大丈夫だと思う」

 今はテストで争っている最中だ。ゲンガーの動向だろうと今は『他人事』として流す。テストに集中する方が大切だ。優先順位は間違えない。

「ん…………ふぁあ?」

 レイナが夢現の状態なので、奇しくもこれは二人きりの密談となった。

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