悪が揺らいで正義を作る

 マホさんは魅力的な女性だ。その婉麗な容姿もさる事ながら、何よりもミステリアスで、一挙手一投足が蠱惑的で、本人にそのつもりがなくともこういう状況なら思春期真っ盛りの男子高校生は襲ってしまうのではないか。それとも下世話な予感はあまりにも常識というものを過小評価している?

 否、そう思った人間は常識を過大評価している。それは絶対的な秩序ではない。飽くまで多数派の中から生まれる漠然とした基準だ。全ての人間が程度の差はあれども常識を逸脱している。ど真ん中という人間が存在するなら、それは最早異端であると断言しよう。

「……勉強中だが、何故だろうね。私には君がそれ以外の要素で悩んでいるように見える」

「マホさんって、美人ですよね」

「ありがとう。でも褒めたって特別なサービスは何もしてあげられないよ。まあ……見るだけなら好きにすればいい」

 表面上は平熱気味の答えだが、わざわざポーズを取るのは恥ずかしいのだろう。少し視線を揺らしてから彼女は黒ストに包まれた足を軽く組んだ。


 多分、マホさんでなければ気にしなかった。


 以前、千歳はタイプが違うという話をしたが、分かりやすい例が目の前で生まれた。今みたいな行動をあの後輩気質な彼女が行っても俺は違和感しか覚えない。最悪、ゲンガーとさえ疑ってかかるだろう。一度偽物という疑念がこびりついてから俺達の世界はシビアだ。生殺与奪の四つを除き、あらゆる感情が排される。彼女に合うのは両者の想定しないハプニングでパンツが見えるだとか、ミニスカートを履いたまま座ったらもろ見えになって本人だけが気付いていないだとか。そういう受動的なシチュエーションで、これは逆も言える。千歳に合うシチュエーションはマホさんには似合わない。


 えー、俺は何を言っているのでしょう。


「恋って、何でしょう」

「おお。恋人と別れたらしいとは聞いていたけど、そこまで深刻に思い悩むかい」

「姉ちゃんに聞いたんですか?」

「まあ」

 だから恋人になるなら応援するとか何とか言いだしたのか。合点がいった。哲学的な問いを投げかけておいて節操もないが、マホさんが彼女だったらどんなに良いだろう。色々と柔らかそうだし、何より落ち着いている。俺は隣に居て気持ちの落ち着くような人物と一緒になりたい。その条件に該当する人物は、残念ながらほぼ全てと言わざるを得ないのだが。

「マホさんにだけぶっちゃけちゃいますけど、俺、皆好きなんですよね」

 朱莉も。

 レイナも。

 千歳も。

 菊理も。

 彼女達と一緒に居るだけで、何となく気が楽になる。意外と惚れっぽいのかもしれない。しかしそれは、恋なのだろうか。俺にはよく分からない。恋も、もう一つも。美子の事は好きだったし、あれは恋だったと言えるかもしれないが……今、振り返ると。良く分からない。

 恋に生きる男と俺は自分で言うが、一度でも本当に恋をした事があるのだろうか。


 考えようとすると、胸に楔が突き立てられる。


「……恋、ねえ。それは私みたいな厭世家に聞くよりも、もっと適任が居るよ。そういう人に聞かないと答えは得られないんじゃないかな」

「呼んでくださいよ」

「呼べるものか。でもそうだね。恋を知らない私ではなく、飽くまでアドバイスをしておくと―――嫌な事から目を背けない事だ。自分の我儘に反抗する精神を持てば、何か変わるんじゃない?」

「……自分に勝てと?」

「どうせ答えなんてない問題だ。気長に考えてみればいいさ。私に言えるのはそういう問題に直面した人間はいつか答えを出さなきゃいけなくなるって事。フフッ、精々面白い答えを期待してるよ。心が決まったなら是非教えてほしいね。家庭教師のよしみとして」

「じゃあマホさんに告白する時はどうすればいいんですか?」

「ん? ……ああ、そうだよね。でも本当にその気なら君が悩むまでもなく私達はそういう関係になってるから、心配しなくていいよ」

 唇に指を当てて秘密を求めんとする彼女の嬋媛として、一時は心を手放しその美貌に見惚れていた。やはり、マホさんは普通の人と何かが決定的に違う。みょうちきりんな場所に行く姉貴の友達なら仕方ないとも言えるが、それにしたって現実離れしている。

「そろそろ勉強の方に集中しようか。恋とは何ぞと知りたければ、単に知識を積むのも有効な戦略だよ」

「ん。頑張ります」

「よろしい。雑談に応じた甲斐があったね」

 楔は消えていた。

 俺は一体、何を恐れている?




















 鬼胎を抱いてしまうような心当たりなど見当たらない。多少気は散っていたが今までと比較すれば相対的に集中していた方だ。

「今日も一日お疲れ様。コーヒー飲むんだっけ」

「あんまり好きではないです」

 風呂も夜食も済ませて自由時間。後は就寝を残すのみとなり、俺達はリビングでのんびりくつろいでいた。誤報ばかりの報道ではなく、娯楽ばかりのバラエティを。脳を溶かして見続ける。人の死に無関心なのは俺達もだ。誤報が報じられた人間はもう殺せない。それは至極単純に、人を殺す結果に繋がってしまうから。

「マホさんはもし、ゲンガーに自分の大切な人が取られたらどうしますか?」

「目的によるよ。ウツシガに私利私欲しかないなら殺す。基本的にはあんなのどうでもいいから、実行する日は来ないと思うけれど」


「―――もし俺がゲンガーになったら、姉ちゃんは見抜けるんでしょうか」


 本物じゃないだけの偽物を相手に、俺は何て無茶ぶりを希望しているのだろう。しかもそれを本人にではなく、その友達に聞くなど。卑怯だ。つくづく心が腐っているとも思う。

「見抜けるさ」

 姉の友人は間髪入れずに答えた。

「アイツが普段どんな発言をしているかは知らないが、ヒメは君をとても大事にしている。世界にたった一人の大切な弟とまで言っていたよ」

「なんか、恥ずかしいですね」

「色々あるのさ。ヒメはどうも君以外の家族と折り合いが悪いみたいだから」


 ―――え?


 それはおかしい。

 家族の間柄は、基本的に良好だった筈だ。俺が妹と仲が悪いだけで、三者面談の時などは両親も出張ってくれる。妹以外は良好で何の変哲も無くて、普通だったという認識がおかしいのか?

「そんなに、悪いんですか?」

「さあ、でも会うのは嫌がってるから、中々確かに嫌いなんだなとは思う」

 そういえば。

 両親がこちらまで来る時、姉貴は必ずどこかへ外出してしまう。『ライターとしての仕事が』どうのこうの。有名人ならば致し方ないかとも思っていたが……そう言われると、かなりピンポイントな忙しさだ。そういう時は決まって深夜の三時くらいまで帰って来なくて、極稀に泥酔状態で戻ってくる事もあったっけ。

「…………聞いたら教えてくれると思いますか?」

「それは答えられない。私は君の姉じゃないからね」

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