幻に手を伸ばす
「…………マホさんって、どれくらいゲンガーの事を知ってるんですか?」
化学の家庭授業中、コーヒーを片手に勉強をみるマホさんにそんな疑問をぶつけてみた。それは人類にとっての死活問題。有識者と思わしき人物の言葉を聞き逃す筈がなかった。
『そっちじゃゲンガーって言うんだっけ。まあ、私はあんなのどうでもいいから周りに害がなければ放っておくけど。もし情報が必要なら、協力するよ』
大切なのは最初だ。そっちとは何処だろう。朱莉と最初に出会った時彼女に協力者が居る風には見えなかったし、既に共犯者という関係になった俺に隠し事……それも仲間を隠しているとは考えにくい。例えば俺がその前に同じ事をしているなら話は別だが、まだそんな不義理を働いた覚えはない。
「……勉強は?」
「気になって集中出来ません」
「なら、仕方ないか。流石に全部は知らないよ、興味がないしね。でも君達よりはずっと知ってると思う。だから……具体的なラインを示すなら根本的な部分は知らないくらい。ゲンガーってそもそも何なのかと言われても知らないよ」
「ゲンガーの正式名称を教えてください」
そんなものが存在するかどうかは分からない。正式名称とは言葉の通り正しい呼び方の意味だが、人間に認知されていない物体に、通じる名称が用意されているなんておかしいからだ。しかしマホさんはゲンガーを知っている。
それに、気になるのは大神幸人ゲンガー。
情けなくも返り討ちに遭い殺される直前。土壇場の騙りが致命の一撃を刹那の間、止めた。ゲンガーという言葉は朱莉が独自に設定した単語ではなく、何か意味を持つ単語である事が分かる。そうでなければ思考は先行せず、動きは鈍らない。
ゲンガーの正式名称がゲンガーならそれでいい。それはそれで、朱莉が何処から知ったのかという問題が生まれるだけで。
「あれに言われてすぐ通用する正式名称なんてないけれど、私達はヒトカタって呼んでる」
「ヒトカタ? 人形?」
「残念。人を模すで人模。大衆的にはもっと別の俗称もあるけれど、君が尋ねているのはそういう意味じゃないよね?」
「……察しが良いですね」
「ならヒトカタが一番近い。事情を知っているならそれで通じる。そのゲンガーという呼び方はヒトカタのもう一段階先の姿だ。誰からその言葉を聞いたのかは知らないけど、断片的に拾ったせいで間違えているか、敢えて区別する為に呼んでいるんじゃないかと私は思うね」
敢えて区別する?
それは一体、どういう意味だろう。ゲンガーを危険視していない女性からの言葉だ、あまり鵜呑みにするのも危険かもしれないが、心の片隅には留めておこうか。マホさんは空になったマグカップを机に置いて、つまらなそうに頷いた。
「思惑に水を差すところ悪いけど、呼び方を正す必要はないよ。ゲンガーならゲンガーと呼べばいい。それはかえって君の動きをおかしくさせる。ゲンガーを見分けられる人間は非常に少ないから、精々隣の人にも気を付けないと」
「ヒトカタとゲンガーの違いは?」
「ウツす前がヒトカタ、ウツした後がゲンガー。君達は今の所それをひっくるめているだけ。ああ、そうそう。因みにゲンガーは現に我の当て字が採用されているよ。和名はウツシガ」
隣人に気を付けろと言われた直後で何だが、マホさんは偽物ではないだろう。あまりにも自分達に不利な情報ばかり与え過ぎだ。これでゲンガーなら役者も役者。速やかに負けを認めて自殺してやろう。
「この辺りでいいでしょ? さ、勉強の続きだ」
「うーん。本当はもっと知りたいんですけど」
「過ぎたるは猶及ばざるが如し。知りすぎるのは結構だけど、物事には順序がある。段階を踏んで情報を集めないと、何処かで身を亡ぼすよ」
「含蓄がありますね」
「…………ふふ」
これ以上は踏み込み過ぎ、という警告か。ならやめておこう。『他人事』と言えども警告に耳を貸すくらいの素直さはある。どんな発言にも人物そのものの印象はつきものだが、そういう意味ではマホさんが最強だ。
彼女は普通の人と何かが違う。
類は友を呼ぶのか。姉貴の友達の作り方が不思議である。
「じゃあ、続きね」
「はい」
授業の最中、マホさんはメモを作ってくれた。「どう使うかは君次第だよ」と表紙に書かれている。未来でも見ているみたいに意味深な言葉を残すではないか。メモ帳には先程の発言がまとめられているだけで、本当にそれ以外の細工が無い。『どう』使うかは俺次第。
・人を乗っ取る前がヒトカタ。
・人を乗っ取った後が現我。
・俺達はそれをゲンガーと一括りに呼んでいる。
・発信者(この場合朱莉)は専門家ではないので間違えて覚えたか、知っていて統一している可能性?
・その時点で知りすぎるのは得策ではない
……これだけじゃ分からないな。
俺が知りたかったのは身内同士でも一般の呼び方でもない。ゲンガー同士の呼び方だ。否、ゲンガーに通用する呼び方だ。ゲンガーがそれを聞いて自分たちの事だと思えるなら何でも良い。殺されかけた時に出た言葉は、一瞬だけ大神幸人ゲンガーを止めた。しかしほんの一瞬だけ。
つまりゲンガーという言葉は彼等にとって何かしら意味は持つが、決して自分たちの事ではないと考えられる。
まあ、単純に発言行為そのものに怯んだ(死ぬ間際の自己紹介に意味を求めたとか)可能性は否めない。それ以前に死ぬ瞬間はスローモーションになるとも言うし、単に俺の気のせいだったという考えもある。
勘違いはしないでおきたいが、別にこれ自体はどちらでもいい。ゲンガー達にとって自分を指す言葉さえ判明すればあの違和感は解決しなくて問題ない。単にそれを考えるきっかけになったというだけで十分だ。
―――国語はこういう深読みが出来るから好きなんだけどな。
好きこそものの上手なれとも言うが、点数が高いとは言っていない。でも今までよりは格段に基礎力がついた気もする。メモを枕の下に隠した所で、マホさんが部屋に入って来た。
「夜食が出来たよ。要らないなら今の内に」
「いえ、いただきます」
彼女の背後に立つと後ろから胸を鷲掴みしたくなる衝動に駆られるので一足先にリビングへ。悪戯のしすぎて身体に染みついている。そして悪戯の限度を超えている。『他人事』で申し訳ないがかなり深刻な問題だ。面倒なの伝治す気はない。
―――今日は和食か。
基本的には一汁三菜の配置になっている。因みに姉貴はそんなの知らなかったし、そもそも和食なんて作ろうとしたら和食というより腐食になる。物理的に胃が腐る感覚を味わえるのは姉貴の料理だけだ。マホさんは『栄養は特別考えてなくて、作りたいと思った物を作っている』らしいが、俺にはそれだけで十分だったりする。本当に、まともな料理が食べられるだけで。
豚の角煮とか、具材ましましの味噌汁とか。最高。
「俺、結婚するんだったら料理が上手い人がいいなと思いました」
「突然のナンパだね。私は気にしないけど、控えなよ」
「……マホさん。ずっと気になってた事があるんですけど、姉貴との馴れ初めを教えてくれませんか?」
これならゲンガーには関わらないので尋ね放題だ。最初からもっと聞いておくんだったと後悔する。最早言うまでもなく、マホさんはぶっきらぼうな態度とは裏腹にかなり温厚で融通が利くので、多少の無理は通せてしまう。箸を進めつつ尋ねると、彼女は少々考え込みながら言った。
「また随分唐突な…………ああ料理か。大したものでもないよ。ヒメは好奇心旺盛だから何でも知りたがるの。それで、一体何処で情報を手に入れたのか私に色々聞いて来た。当時追ってた都市伝説について、かな」
「都市伝説……」
「超常現象スポットみたいな感じで認識して。一応言っておくと『千年村』ね。何でそんなに知りたいのかって聞いたら……いや、これは秘密ね。本人の問題だから」
千年村。
それは姉が界隈で一躍有名人となったきっかけの場所。確かそんな名前だった。血は繋がっていても俺には興味がないのでもしかしたら違うかもしれない。
「まあ、私の事を知ってて近づいてきたからさ。そういう人にはどうしても色々してあげたくなるってだけ。やっぱり死んでほしくないし。それに……」
「それに?」
「一緒に居て、心地良かったから」
会話の終わりを示すようにマホさんも食事に手を突ける。その言葉の意味を知る事になるのは、多分ずっと先の話だ。今は、この人を気にする余裕なんてない。
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