一夜の幻想

 マホさんの裸体は眩し過ぎて見えなかった。自主規制のテープが見えたとかではなく、あれを直視したが最後道理を忘れて襲ってしまう確信があったので極力視界に入れず、入ったらとにかく目を逸らした。

 『他人事』という考え方は冷静になる時にはとても有効だが、目の前に女神が居ると容易く無効化されるらしい。レイナや千歳や菊理やらでも同様の反応が予測されるので、その時恋人でもない限り間違ってもあの三人とは一緒に入らないようにしたい。

 朱莉は例外だ。胸が貧相過ぎてとかではない。何らかの盛大な間違いで風呂に入ったが最後、俺達は性的な一線を越える。絶対に襲われる予感がある。道徳的に殺人の一線を超え、性的にその一線も超えたら俺達は人間じゃなくなる。

「いいお湯だったね」

「そうですね」

 お願いだから話しかけないでほしい。そのタンクトップは性の暴力だ。せっかく現実逃避に終始しているのに会話で以て一々現実に引き戻されてたまったものじゃない。姉貴の人選が段々恨めしく思えてきた。弟のタイプはよく分かっていると言わんばかりのチョイス。嬉しいし嬉しくない。

 取り敢えず姉貴は犬の糞でも踏めばいいと思う。

「そう言えば、寝る部屋とかって……」

「ヒメから自分の部屋を使っていいって言われてるから、そこで寝るけど。何かまずい? 友達を呼ぶとか」

「いや……」

 残念である筈がない。残念なものか。九死に一生を得たと言え。『他人事』でもこの状況は危険なのだ。ただでさえ『自分たにん』の事が良く分からないのに、こんな事って―――


 すこしはかんがえなさい。


 心臓に、楔が打ち立てられた。

 急速に思考が冷えて、寒気にも似た平静を取り戻す。この感覚は、全身の血管が破裂しそうな程に痛いが、それが安らぎを与えてくれる。きっと、俺の知らない苦しみを取り除いてくれる。

「…………」

 楔に、何者かの手が触れる。否、マホさんの手が明確に『それ』を認識している事は明らかだった。単なるイメージに過ぎなかった産物に触れている。『他人事』として眺めても、一見に理解出来る状況じゃない。

「……ヒメも、大変だったんだね」

「―――え?」

「何でもない。今の君は、その痛みをアイだと思ってる。だから何もしないよ。君のお姉さんも同じ状況ならそうするだろうからね」

「み。見えるものなんですか?」

 マホさんは答えなかった。立ち尽くして着替えが遅れる俺を尻目に階段を上って、姉の部屋に入っていく。扉が閉まる音が聞こえた。


 ―――アイって何だ?


 その言葉の意味を知る日は来るのだろうか。分からないし、分からないままで居た方がいい気がする。けれども知らないものは怖い。知りたい気もするが、今はテストの方が大事だ。組織名はまだ心の中でも決まっていないが、その権利だけでも一旦獲得しておきたい。きっとその名前は大義名分を作る上で、或は今後の方針を決定づけるかもしれない。

「寝よう」

 洗面所の鏡に向かって言ってみる。気の滅入りは何処かへ行ってしまった。いつもの『俺』が帰って来たと思う。


 ―――でも、今日は早めに寝よう。


 ゲンガーを見つけた訳でもなし、たまには生活リズムを改善したっていい筈だ。着替えを済ませて階段を上る。

「お休み」

「……お休みなさい」

 壁越しに聞こえる声に、半ば反射で返事をした。


 何で起きてるんだ。





















「ふゃあああああああああああああああああああああ!」

 その日の寝覚めは最悪が約束された。誰だって騒音で目覚めたくはない。どんな温厚な人間も流石に寝起きがこれなら文句の一つも言いたくなる。


「うるせえええええええええええええ!」


 犯人は分かっているので、寝起きのままリビングに突っ込んだ。見ると台所にはタンクトップにゴムの短パン姿のマホさんと、制服姿の朱斗が睨み合っていた……と思っているのは多分後者だけ。マホさんは意にも介してない。

「あ、ああ匠君! 君のお姉さん整形したのッ!? とてつもない美人に、何か」

「失礼な。姉ちゃんは元々美人だ。後この人は姉ちゃんじゃない。家庭教師の人だよ。一々騒ぐなって」

「いや、騒ぐよ!? え、え……あ、そういう関係に」

「なってない!」

「元気が良いね、二人共」

 『他人事』みたいに語るのはマホさんの特権だ。事実彼女は何も関係ない。そこに居ただけの落ち度を責めるのはお門違いだ。何事かと思って、来てみたらこのざまだ。緊急事態なら文句を抑えようと思ったが、こんな馬鹿馬鹿しい勘違いで気持ちの良い朝を迎え損ねた身にもなってほしい。

「痴話喧嘩を止めるつもりはないけど、あんまりうるさいと苦情を入れられるよ」

「痴話喧嘩なんてそんなッ。僕は男ですよ!」

「そういうの、いいから」

 朱斗の―――朱莉の表情が刹那の間硬直した。不意に俺の方へ向き直ると、廊下へ連れ出されて耳打ちされる。

「何者?」

「姉ちゃんに聞いてくれ。友達っぽい」

「名前は?」

「知らん」

「聞いてよ」

「そういう賭けの最中だから無理」

 こういう事が起きるから、マホさんの滞在中は友達を家に呼びたくない。作戦会議も控えた方が良いだろう。なのでゲンガーの皆々様には申し訳ないがテストが終わるまでどうか死滅してもらえないだろうか。無茶かもしれないが。

「…………私って、君のお姉さんに嫌われてるのかな」

「初対面すら果たしてないと思うんだけど」

「だってあんな美人連れてくるかねっ! あ、もしかして巨乳が嫌いとか?」

「至上の価値は置いてないが好きか嫌いかならだいす」

「あーもういいよ。くっそ。手を抜いてやろうかななんて思ったりしたけど私が馬鹿だった。こんな卑怯な手段に頼るなら本気で勝ちに行くからね。それでもいいんだね!」

 家庭教師が卑怯ってマジ?

 翻って他人に教わるのを禁止と言っているようなものだが、校則にそのようなルールは存在しない。生徒同士の助け合いを尊重する精神に相反している。朱莉の発言は滅茶苦茶だ。何より酷いのは手を抜いてやろうかという傲慢な発言。まるで手を抜かないと俺が負けるような言い草ではないか。

 それはフェアじゃない。

 彼女が何よりも重視していた価値観に基づき、俺は頷いた。

「全力で来い。叩き潰してやる」

「―――ッ!」

 勝てる筈のない勝負に勝つ為ならば。勉強だって真面目にしよう。ゲンガーを殺す時よりも真剣だ、俺は。奴等は流れ作業で殺せても、勉強だけはそうもいかない。

「なら、本気でやろう。それはそれとして、一緒に登校したい」

「そっちは断る理由がない。朝ごはん食べたら行くから待ってろよ」

「……抜いておくんだったな。君と一緒に食事出来たのに」

「そういうのは、もっと小声で言ってほしいな」

「真の陰謀は存外にバレやすいものさ」

 僅かに口を尖らせながら、朱莉が自嘲気味に笑った。

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