アイが欲しい

 

 家の中で俺は何してるんだ。


 『他人事』ながらにそう思いながらも、俺は彼女のエプロン姿に目を奪われていた。台所の設計上こちらに向けられているのは背中だけだが、その背中が官能的で、結果としてずっと眺める事になった。本人は気付いているのかいないのか、微かに鼻唄を歌いながらトントン拍子に一からハンバーグを作っていた。そして何の滞りもなく完成させてしまった。

「……うううううううううううううっ!」

「ええ。泣く程?」

「美味しいです……美味しい…………料理が………………うううううう」

「―――少々大袈裟だとは思うけど、心中お察しするよ。ヒメは確かに酷いから」

 マホさんがハンカチで涙を拭いてくれた。本気で感動する俺もどうかと思う。でも仕方ない。手料理にマイナスイメージしかなかったのだ。そりゃあクラスメイトにも料理が上手い人は居るが、明確に年上となると感覚的には姉が居る気分で……ああもう。何でもいいや。美味しいから。

「マホさんの……名前って何ですか?」

「名前? ヒメから聞いてないんだ。まあそういう呼び方してるならそうか。別に身内だったら隠さなくてもいいんだけど義理堅いっていうか……君の名前は?」

「ああ……草延匠悟です」

「……へえ。そういう事か。じゃあ匠悟君。やっぱり君もご褒美が欲しいだろうし、今から三つ提示するから好きな褒美を選んでくれる?」

 そう言って箸置きに箸をおくと、彼女は細長くも美しい指を三本立てて、俺の顔に近づけた。

「一つ。フルネームを教える。二つ。一日だけ私の身体を好きにしていい権利、三つ。両方。どれがいい?」

 何だその選択肢は。しかし彼女の表情におふざけや揶揄いと言った感情は見られず、恐らく本気で言っている事は確からしい。それにしても『匠悟君』と名前を呼ばれてから胸のドキドキが止まらない。身体に一体何が起きている。『他人事』という考え方が遂に身体にも浸透したのだろうか。

 普通に考えればいいとこ取りの三しかあり得ないが、何故こんな選択肢を用意したのかを考慮すべきだ。マホさんはきっと何かを試している。最後の選択肢は地雷だ。

「…………一で」

「理由は?」

「名前を知らないのは、ちょっと」

「家的に?」

 その返しに首を傾げると、「気にしないで」と付け加えられた。そんな理由じゃない。名前も知らないような人とそんな関係になるのは個人的に嫌なだけだ。名前を知らない人を愛したくない。好きになりたくない。だってそれは、とても誠意がない事だから。

 と言いつつ机に乗せられた大きな胸を凝視するのは誠意以前の問題な気がする。

「うん。君の考え方が大体分かったよ。こちらばかり質問するのも公平じゃないし、質問があるなら答えるよ」

「彼氏とか、居ますか?」

「居ないよ。ヒメの弟なら分かるだろう? それに、私は火遊びが好きじゃないんだ」

 オカルトライターの女子とか、幾ら容姿が良くても生涯の伴侶としてはあり得ない。そう思う男子は多いだろう。科学的ではない。姉貴が遭遇した少年の価値観を採用するなら、宗教観の違いで結ばれない人間も居るように、科学信仰に相反する態度は信者に歓迎されない。

 火遊びが好きじゃないというのはわざわざ説明の必要があるかも分からないが、身体目当ての男に許すモノはないと言いたいのだろう。俺は賭けに勝った。多分、プラスイメージだ。

「……ね、姉ちゃんとはどんな関係ですか?」

「大学に居た頃の友達。今でも月に一回くらいは遊ぶんじゃない? 数えてないけど」

「姉ちゃんから俺の事を自由にしていいって言われた件について、具体的に何か変な事するつもりは?」

 光を限りなく反射しない瞳がゆらりと動く。僅かに安定しないその視線は、鬼火に見つめられているようだった。

「家庭教師として呼ばれたから、それ以上は何も。でもヒメからは『私が居ない間の姉代わりになって欲しい』とも言われてるから、何かしてほしい事があるなら受け付けるけど」

 いやいやいやいや。

 姉貴の野郎、出かけた後に追加したのだろうが、妙な事を言ってくれたものだ。変な気を回していると言われても仕方あるまい。何処かの誰かと一緒に死地へ赴く自分の姉を、心の底から恨んで、感謝したり、困惑したり。

 どうせ姉代わりにしたいならもっと恋愛対象から外れた女性を用意してほしかった。それなら俺も遠慮なく頼れたのに、恋愛対象にしかなり得ない女性を出してどういうつもりだ。本当にとてつもない美人を出す奴があるか。そこは詐欺していい場所だ。

 ぶっきらぼうな物言いとは裏腹にマホさんはかなり面倒見が良い。ハンカチで涙を拭われた時は本気で驚いた。このままだと、何かとんでもない過ちを犯す気がする。


『いいえ、弟です。そこまで拒否しなくてもいいでしょ。確か弟君現在彼女募集中だし、恋人関係になるようだったら応援しちゃうぞー』


 何が応援だ。

 マホさんも自分のスタイルについてもう少し考えてほしかった。単なる家庭教師にファッションなんて求められないから適当に黒いTシャツを着用してきたのは分かるが、それでは到底収まりがつかないくらい胸が突っ張っている。

 因みにスリーサイズを聞く勇気はない。どう考えても変態になる。

「ご馳走様でした」

 一足先にマホさんが食べ終わった。お椀にもお皿にも肉の残骸や米粒一つ残っていない。どんな食べ方をすればそうなるのだろう。箸を動かしていただけだった筈。



「もう一人の自分と戦ってるんだって?」



 日常的思考が停止する。

 俺は引き攣った表情で彼女を見つめた。

「そんな怖い顔しなくても大丈夫。別に君達だけの秘密じゃない。私だって遭遇した事あるし」

「えッ」

「そっちじゃゲンガーって言うんだっけ。まあ、私はあんなのどうでもいいから周りに害がなければ放っておくけど。もし情報が必要なら、協力するよ」

 朱莉以外の、有識者。

 頼るべきだろうか。


 それは裏切りにならないだろうか。


 全身を化石にしてでも悩む俺はどんな滑稽な姿であっただろう。マホさんがフっと口元を緩めて、俺のおでこを突いた。

「そこまで悩む必要はない。ゆっくり考えれば良いよ。当面はテストに集中しないといけないし」

 それもそうか。

 ゲンガーの事は考えても仕方がない。それはレイナの時から分かり切っていた話だ。切り替えて、一旦忘れよう。

『他人事』として。




















「じゃあこの問題、分かる? 公式はさっき教えた通り。取り敢えずやってみて」

 直前の剣呑な雰囲気とは打って変わって、和やかな空気で勉強が始まった。本当にどうでもいいようだ。流石にそこまで楽観視は出来ないが、今だけはゲンガーなんかよりマホさんのフルネームが知りたいので勉強を頑張っている。

 この時点で授業より集中しているのは言うまでもない。

 特殊能力とかではないと思うが、彼女の声を聴くと心が落ち着く。だからかもしれない、注意散漫と呼ぶのも温かった授業よりも耳に入って来た。

「楽する方法って何ですか?」

「それはテスト前に教える。大切なのはその前に基礎力を身に着けておく事。―――ん。使い方は合ってる。計算ミスだね」

 正しい計算を対面に居る状態で書いているが、俺としてはこっちの方が特殊能力だ。問題文も逆さ公式も逆さで良くスラスラと読める。普段から逆さに文字を書いているなら納得だが、そんな酔狂な人物でもなさそうだ。

 あっという間に一時間が過ぎた所で、マホさんが教科書を閉じた。

「初日はこんなものかな」

「もう終わりなんですか?」

「勉強が好きじゃないのに無理して長い時間やっても非効率だよ。私は質の方が重要だと思ってる。点数を取る時に大切なのは暗記じゃなくて、問題文を見た時に答えまでの筋道を思い出せるかだよ。特に数学は途中式で減点が抑えられる事もあるし」

 ほー。

 使う式が分からないから足し算と引き算だけでどうにか答えを出そうとするやり方は馬鹿だったという訳か。暗記が大切じゃないと言われると今までのやり方を否定されたみたいで微妙にムッと来たが、その程度のやり方で二人に勝てるとも思わない。勝つには攻略方法そのものを変える必要がある。新しいアプローチを教えてくれる事に感謝しかない。

 正直、むさくるしい教科担任に同じ事を言われたら聞く耳を持たなかった。容姿とそれに伴う第一印象は大切らしい。

「マホさんは何時に帰るんですか?」

「帰る?」

「家庭教師なんだから、帰るんじゃないんですか?」

「姉代わりと頼まれて、帰る選択肢は用意してないな」

「マジ?」

「うん」

 遂に敬語を忘れてしまった。不純異性交遊と言われても仕方のない状況に、俺は戸惑いを隠せない。同じ屋根の下に男女が一組。血縁も無ければ確執もない。あるのは不健全さだけ。くれぐれも注意しなければ……

「私は夜更かしするタイプじゃないからお風呂を使わせてもらうけど。一緒に入る?」


「是非」


 くれぐれも注意しなければ。

 いやいや、配慮しなければ。

 大丈夫。中学最初の一年間までは姉貴と一緒に入っていた。入らざるを得なかったのだ。その日まで俺は湯船に浸かった事もなければシャワーを浴びた事もない。知らない物は怖かった。




 だから、大丈夫。

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