スケープ・スコア

山羊は自由に過ごしたい

 姉貴が何処ぞの危険地帯へと出かけて、一週間が経過している。いつ帰るのかという心配も毎回しているし、文句も言っているがそれでも彼女はいつ頃に帰るのかを明言しない。これからもきっと言う事はないだろう。三日かもしれないし一か月かもしれないし、一年、五年、十年…………因みに最長は二年間帰って来なかった。当時の姉貴は『私は三日くらいしか過ごしてないと思う』と言って憚らなかったが……今なら何となく分かる。

 姉貴が戦っているのはゲンガーではない。それとは全く別ベクトルの―――かつては共存し、畏れ、今では離別した存在。物理法則を自分達で決められるような、ある種の信仰にも近いモノ。俺なんかには到底理解出来ないので、姉貴が俺を助ける事は出来ても逆は不可能だ。

 携帯を起動して、スリープして、また起動して。

 心配だ。とても、とても心配だ。もともと授業は集中する人間じゃないが、今はその傾向が強すぎる。『他人事』ながらにそう自覚してもやめられない。


 すこしはかんがえなさい。


 誰かがそう言った。振り返っても、窓から外を見てもこちらに顔を向ける人物はいない。先生も黒板の方を見てチョークをせわしなく動かしている。今の時間は数学だったか。自分が受けている授業も分かっていなかったとは重症だ。


 すこしはかんがえなさい。


 お姉ちゃんの事を考えると、調子が狂う。自分が自分でなくなるような……いや、自分じゃない自分を見つけてしまう気がする。


 なんでわからないの。


 わからないの。

 すこしかんがえてもわからないの。

 胸の奥が痛くなった。それは体調不良ではないだろう。この痛みは安らぎだ。身体に打ち立てられた封印のような。糜爛した心をそれ以上崩すまいと抱きしめる温もりのような。


 ―――やめよう。


 何故こんなにも不安になるのだろう。姉貴は強い。俺の想像を遥かに超える修羅場と死地を潜り抜けている。だから今回の仕事に不安を持つ必要なんてないのだ。多少怪我しても必ず帰ってくる。帰って来た。今までは。

 不安なんて、杞憂に過ぎない。

「おーい匠悟。授業聞いてるか?」

「ああ、聞いてます」

「じゃあこの問題解けるか?」

 ふと手元に視線を落とすと、俺の指に一本一本杭が立てられていた。両手足のど真ん中。ご丁寧に靴まで貫いて、血が流れる。俺の身体に沿って、毛の一本一本を染め上げて、視界さえ真っ赤にして。

「おい! 匠悟! 匠悟!」

「ん?」

「ん? じゃない! やろう、こんな治安の悪い時にボーっと出来るとか凄いなお前。でも授業は集中しような。今のは見逃すが、次から平常点に響くぞ」

「あ、はい」

「…………体調が悪いなら無理はするなよ。保健室を使いたいなら使え。俺は怒らん」

「じゃあ、行きます」

 目に見えた異常は、すっかり消えていた。朱莉からの心配の目線を受けながら頼りない足取りで廊下に飛び出す。勿論これは演技だ。草延匠悟は元気である。ただあまりにも意識が散り過ぎて自分の意識さえどうかなってしまいそうだっただけ。

 本日からテスト一週間前だ。家に帰る頃には『マホ』という名の超絶美人家庭教師(姉貴談)が来てくれる。彼女の価値観に若干懐疑心を持ってはいるが、そう思うと学校帰りが待ち遠しいとさえいえる気がする。するだけ。

 俺は考え方が少しひねくれているだけで健全な男子高校生だ。レイナや朱莉と一緒に居る時も、度々それは感じている。朱莉は男を演じている時も美少年だし、レイナは平常時が寡黙系美人で部活中か『俺達の活動』をしている時は弱気系美人。千歳は可愛いとか以前に小動物か何かを相手してる気分になる。ちょいちょい闇は見えるが、基本的には明るいので相手していると元気になる。


 ―――新たな恋を始めるには、土壌も十分なんだけどな。


 何か、気が滅入っているのか? 一週間前に大神幸人のゲンガーを殺したが、それは正直言ってどうでもいい。殺したからなんだ。『他人事』の、それも一週間前の出来事なんて引きずるにしても無理がある。

 大神君が自殺してゲンガーと替わった状態で引き続き部活に参加してきたのは驚いたが、それが原因か? 違う。驚いただけだ。これ以外はさして特別なイベントなどもなく皆目見当がつかないとはこの事だ。

 何はともあれ気が滅入っているのは確かなので、とにかく休みたい。だから演技をしてでも保健室に向かいたかった。サボリ場の代表格のような言い方だが、基本的にそのような使い方は好まれない。本当に体調不良が出た時にスペースを圧迫するからだ。特に最近の治安の悪さと来たら世界全体が混乱に陥っており、SNSのトレンドにはいつも誰かの誤報が乗っている。



 保健室の扉を開けると、女子が一人、ゲームで遊んでいた。



 扉を開けた音に振り向き、俺と眼が合う。

「……あ、やっべ」

「…………」

 ウェーブのかかったセミロングの黒髪と、口を開けば見える八重歯。何処かで見た気がするが思い出せない。いや、制服を着ているからこの高校の生徒だというのは分かるが、そんなの見れば分かるし分からなかったら俺はいよいよ何らかの末期症状に陥っている。

「ね、ねえ匠しょうちゃん。あたしがゲームやってたって、内緒にしてくれない?」

「……条件がある」

「アイヤー。うーんそう来ますか。エッチなのと犯罪以外だったら従いましょう」

「自己紹介してくれ」

 悪ノリだけで生きてる様な男子は、一応全員の名前を言える。女子とは特別仲良くもないが、レイナを助けた一件で何故か存在していた警戒心が緩んだのか、たまに話しかけてくるようにはなった。それは嬉しいのだが、警戒させるような事はした覚えがない。


 ―――二年前のあれかな。


 入学当初、俺はイジメのターゲットになった。現代にしては珍しい直情的なイジメで殴る蹴るの暴行を加えられたが、『他人事』なので無視―――する訳ないだろう。痛いのは嫌いだ。俺はイジメっ子に最大限復讐する為にイジメの規模そのものをわざと大きくさせて最終的に彼等を破滅させたのだが……あれで警戒されるのは色々と筋が通らない。

 同年代と思われる女子は「へ?」と間抜けな返事を返した後、朗らかに笑って胸に手を置いた。

「覚えてないんだ。まあクラス替えあったし仕方ないか。ほら、あたしだよあたし」

「土壇場でオレオレ詐欺掛けられても困る」

夜山羊菊理ややぎくくり! 夜に山羊、菊の理で夜山羊菊理!」

「…………山羊。ああ、山羊」


 ………………………………………… 


「思い出した」

「結構時間掛かったねっ」

 大体『他人事』なので一々覚えてられない。しかしヤギというワードで記憶の扉が開錠された。彼女は俺が虐められる原因を作った……物凄く悪い言い方をすればそうなる。事実を順に話すなら、元々虐められていたのは彼女の方だ。それをたまたま見かけた俺が助けた。女子トイレでのイジメに男の俺が割り込んでくるとは思わなかったようで、気が付いたら泥沼化していた。いじめっ子女子が割と美人な方だったので好感度稼ぎに利用したい男子が俺をイジメるようになって……今思うと、カオスな状態だ。

 何で助けたかと問われると単純で、イジメは見ていて気分の良いものじゃないからだ。自分も巻き込まれるかもなんて考えはなかった。『他人事』だからと言って、イコールそれは見捨てるではない。むしろ『他人事』だから助けたというか、もし『自分事』の様に考えたら逆に見捨てていただろう。俺の性根は腐っているらしいから。

「えー。菊理さん」

「急に固いなー。同じ学年なんだしもう少しフランクに呼び合わない?」

「じゃあ山羊さんで」

「敬語はフランクなんだっけ。まあいいか。自己紹介したんだし秘密にしてよ? 匠ちゃんはどったの。具合悪い?」

「気が滅入ってる」

「テスト前だから萎えてる男子は知ってるけど」

「……よく分からないんだ、原因が。山羊さんこそゲームを内緒とは言うが……授業中はともかく、休み時間や放課後は割と黙認されてるのに何故秘密に?」

「『他人事』みたいに言わないでよー。なんか最近変じゃん? みーんな怖がってるっていうかピリついてるっていうかさ。そんな場所でゲームやってても面白くないし、後なんか、圧力がヤバい」

「同調圧力みたいな奴だな」

「何それ? まあ座って座って」

 ベッドの端に身体を動かしてから隣をポンポンと叩く菊理。保健室を私物化しているのは風紀管理部的にも微妙に問題なのだが、いじめられっ子のよしみだろう。最初から距離感が近いのは助けてくれた恩もあるからか。いや、あれは助ける気持ちもあったが、厳密には女子トイレという聖域でねちっこい真似をしてる奴等にちょっかいかけて、そのあほ面を眺めたかっただけ。

 やめよう。だから銀造先生に心が腐っているなんて言われるのだ。言われるがままにベッドに座ると、肩を寄せてきた。

「うちの高校ってフリーダムな奴等が多いからゲームを自粛するってのは相当だろ。その中で山羊さんが馬鹿みたいにゲームやってたらどう思う?」

「馬鹿は余計だ! けど……うーん」

「一般論でいうとな、学校みたいな閉鎖コミュニティの中じゃ少数派は排斥されやすい。早い話が俺が苦労したんだからお前も苦労しろとか。同じ体験の強要だな。それが圧力の正体」

「あー、成程ね。うんうん。確かにそんな感じするわ。先生も変な目で見てくるしねー」

 馬鹿騒ぎしていた生徒達が少し真面目になる中で一人だけ従来のノリが続いていたら奇異の目で見たくもなる。


 ―――ゲームか。


 ゲーセン経験が中学からの俺だが、ゲームはそれなりにやってきた方だ。勿論中学以降の話……詳しく言うなら姉貴に引き取られて引っ越してから。プレイ時間の密度が違う。

「お、匠ちゃんはゲームに興味がおあり?」

「おありというか好きだ。特に今はよく分からないまま気が滅入ってるし、なんかスッキリしたい」

「おーおーそういう感じなのかー。じゃあ一緒にやろうよ、一人用の飽きたとは言わないけど、ローカルで協力するタイプのゲームとかは、やっぱりもう一人居た方が楽しいし!」

「すると俺達は保健室を悪用したちょい悪仲間か。保健室の先生何処行ったんだよ」

「なんか、用事があるって。先生達も大変だよね~」


 ―――なんか、気が滅入ってる原因が分かった気がするぞ。



 つまり、あれだ。













 興奮が足りないのだ。

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