呪われた男
大神君の家は学校の裏側にあった。徒歩五分くらいだろうか。学校生活の上でこんな理想的な立地はないだろう。警察署は正反対の方向にあるのでまた随分時間がかかってしまったが、どうにか陽が落ちる前に到着した。
「綺麗な家だな」
「築五年くらいですよ」
綺麗に見えるのは真っ白い外壁のせいだろうか。それにしても土汚れや落書き、罅割れや剥落が見当たらない。築五年ならば多少汚れていても不思議はない。白亜の壁を余程気に入っているのか。俺にはそういう執着がないので理解が及ばない。
「そういえば息子が逮捕されたって言うのに親は飛んでかないんだな」
「……それは、連絡が行ってなかったんじゃ?」
「ないな。警察から電話が入らなくても学校からは入るだろ。まあもしかしたら拳を構えて玄関待機中かもしれないから俺が先に入るぞ」
「……守ってくれるんですか?」
「目の前で後輩が殴られるのは後味が悪い」
それだけの理由だ。インターホンを押して扉の前に立つ。第三者の俺が居る限り親と言えども身内に手は出しにくい筈だ。この程度で盾になれるなら幾らでも引き受けよう。
…………。
一分経ったが、誰も応対しない。
「…………あれ」
「すみません。鍵あるんでこれで入ります」
「君の家は居留守をするタイプか?」
「まさか。やましい事とかありませんよ」
鞄から合鍵を取り出すと、使い慣れていないのか鍵の向きを間違える初歩的なミスを挟みつつ開錠。扉を開けると大神君の両親が拳を構えて待機―――という事もない。誰も居なかった。両親は共働きらしいが母親は昼には帰ると彼は言っている。言っているのだが、人の気配というものが全くしない。大神君が同伴していなければ絶賛不法侵入中だ。何でもいいからさっさと出てこい。
「…………お父さん! お母さん!?」
愛すべき息子の声にも返事は無し。玄関で座り込む俺を気に留める余裕もなく、彼は奥へ奥へと進みながら狼狽し始めた。
「し、匠悟さん。すみませんがちょっと待っててもらえますか? ちょっと、心配になって来たので!」
「一つ聞いておきたいんだけど、どんな理由で返事がないと思う?」
「………………」
口に出す事を憚っている。口は災いの元だ。彼にとって一番最悪の未来を実現させない為に、誘導されようとも決して言葉にはしない。賢明な考え方だが、少しばかり遅かった。もうとっくに『落ちている』。誘導するまでもない。本人が語るまでもない。
その沈黙が何よりも、雄弁に結末を物語っている。
腰を持ち上げると、彼と共にリビングに入る。そこには誰も居なかったが、机の上に零れたお茶とコップが転がっている。さっきまで誰かが居た証拠だ。なのにここから繋がる全ての扉が閉め切られているのは妙だ。私室はともかくリビングに地続きな和室まで閉め切られているのが不自然さをにおわせている。
「大神君。あっちは?」
「父の書斎です」
「そうか」
一足早く近づいて、扉を開く。
いつぞや感じた、血の臭い。
まだ腐敗もそこまで進行していない新鮮な臓腑の香り。顔が見えないのが幸いだ。だってそんなものはない。死体は緑色のソファによって、胸から上を叩き潰されているのだから。
力任せで、暴力的で、破壊的で、徹底的なその光景は。目の裏に焼き付かんばかりの輝きを放ち、日常を根本から覆さんとしてくる。
「……大神君。君のお父さんは部屋着として甚平を着ているのか?」
「………………………………はい」
「そうか。じゃあまた通報だな。さっき靴を見てたんだが、君のお母さんは毎日違う靴を履いたりするか?」
「……………………いえ。スニーカーを履いていたと思います」
「そうか」
言わずとも、この沈黙が全てを表している。俺もわざわざ口に出そうとは思わなかった。『他人事』であっても空気くらいは読む。大神君が家の電話を使って通報するまでの間、現場を弄るみたいで申し訳ないが少し書斎を物色させてもらう…………
「通報は、母親を見つけてからの方が良いんじゃないかー!」
警察の到着時間を舐める所だった。声が届けば時間稼ぎは成功だ。
書斎と言っても、目立つような物がある訳ではない。
情報がありそうなのはパソコンくらいだが機械には詳しくないので下手な痕跡を残しそうだ。触りたくない。横の本棚を流し気味に見つめていると、気になる本を見つけた。柳注しているものではないだろう。赤い装丁の本にはタイトルも著者もない。指紋が残ると面倒なので、壁にかけてあった孫の手を使って引っ張り出した。この孫の手は持ち帰ればいいだろう。
「…………」
開幕の一文には、こう綴られていた。
我々は『おおかみ』の一族であると。
大神家は中間が曖昧という不思議な家系だ。最古の記録は問題なく、その途中までも問題ないが、五百年前から四五〇年前までが明らかに人の言葉ではない言語で記されている。一つずつ辿っていこう。大神家の始まりは猟師だった。大層腕の立ったご先祖様は自給自足と言わず、周りにも分け与えられる程の腕前であった。記録によると肉食の禁忌を命じられた時も構わず続けていたようだ。
さて、そんな家系であったが、五百年を境に文章がおかしくなっている。これは後の記録を読めば分かるが人狼にしか通用しない人狼語であり、禁じられても尚狩猟をやめなかった事で獣の呪いを身体に宿し、遂には人狼になってしまったとの考え方がされている。
明治時代の頃にはこの血筋は獣に穢されているのだと自虐している。時代が現代へ近づく度、当時の長が残した記録は次第に自虐を強め、大神君から三つ前の世代に至っては『跡形もなく途絶えるべき』とまで書かれている。
読み流したのでもう一度遡ってみると、この記録に手をつけた家長は最終的に自刎している。自死こそ誉れであるとばかりに死の連鎖は続き、百年前を境にぴったりと止んでしまった。
―――これが自殺とは考えられない。
ならば誰が殺したのか。明白だ。この本棚は最早飾りで殆どの本の前に埃がかかっているが、この本だけは俺が触るよりも前に埃が消えていた。誰かが読んだのだ。この―――呪いの本を。
もう一度言おう。
『誰か』は、明白だ。
本にはこう書いてもあった。獣に呪われた我々が幸せに生きる方法はない。一時の幸せを感じた後、その身に宿る獣達の怒りが自らの手で全てを破壊するだろうと。
こんな科学的根拠のない妄言だらけのノート、信用に値しないと思うだろうが……残念ながら科学とは信仰であり、呪いもまた信仰だ。科学が科学として認められるようになった数百年と千年以上も受け継がれてきた一族に掛かったとされる呪い。どちらが信じられるかは―――前者だと思うならそれは『他人事』である証拠。後者だと思うなら―――残念ながら、その人は『おおかみ』だ。
例えば。妄言に一瞬でも現実味を帯びさせる事が出来たら。
例えば、もう一人の自分というあり得ない存在と出会ってしまったら?
書斎からリビングへ戻ると、大神君が消沈した面持ちで電話を掛けようとしていた。
「……大丈夫かい?」
「…………………………ひとりに してく だ さい」
「―――なら外で待機していよう。何かあったら呼んで」
捜査を欺く方法を考えてみたが指紋も足跡も検出されそうだったのでいっそ開き直って待つ事にした。その方が印象も良いだろう。さっきの今で怒られたばかりだし。
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