他人事



 次の日。


 いつもより早く家を出た俺は、事前準備をするべく駆け足で学校へと向かっていた。朱莉とは登校中に遭遇する事が滅多にない。家に泊まった時だけはその限りではないが、普段の付き合いならまず姿を見ない。来るのが早いのか遅いのかもいまいち把握していない。悪友とはそのくらいの距離感だ。欲を言えば事前に打ち合わせくらいはしておきたかったが、ゲンガーに俺達の共闘を悟られるのは不都合なのでこれもまたありだ。



 今日は、全てを決着させる。



 山本君についても美子についてもはっきりさせて、面倒事はこれっきりにしたい。俺だってひきずりたくて引きずっている訳ではないのだ。


「センパイ! おはようございマス!」


 非日常的な決心を揺らしたのは聞き覚えのある後輩の声。振り返ると、鱒の魚拓を前に突き出した千歳が嬉しそうに駆け寄ってきた。とても反応に困る挨拶の仕方だ。ますと鱒を掛けた事は明白だが、明確な答えがあるとも思えない。


「おはよウツボ」


 取り敢えず乗っておく。千歳は「有難うございます」と言って笑顔を浮かべながら、鞄を両手に提げて俺の横に並んだ。


「迷惑でなければ、一緒に行きませんか?」


「ん……いいぞ」


 予定が狂ったと言える程のズレはない。野球部は朝練中だろう。教室に帰ってくるのは七時半とかか。それまでに到着出来れば十分だ。ただ、手持無沙汰な時間は増やしたくなかったから急いだだけで、彼女が隣に居てくれるならそれもない。


「センパイってノリがいいですよねっ」


「いやあ、照れるな。いつもあんな感じ?」


「ああ……えっと。あはは。いえ。大体反応に困った顔をされますね」


「だろうな。魚拓突き出しながら挨拶してくるなんて前例にないし」


「挨拶にユーモアがあった方が返しやすいかなと思ったんですけど、考え直した方がいいですかね?」


 ゲンガー騒動の何にも関わっていない千歳後輩は只々可愛い。妙な所で一般とはズレているが、そのギャップがまたそこはかとないポンコツ感を醸して、非常に愛嬌がある。挨拶にユーモアがあった方が良いとは面白い考え方だ。考えてみれば俺も、三つか四つしかない挨拶なんて選択肢がなくてつまらないと思っていた。


 言葉とは自由であるべきだ。挨拶がコミュニケーションのきっかけなら、そこに堅苦しい作法や形式など必要ない……とは言わないが、強制される程ではない。『おばようございます』と言わなければ絶対に挨拶を返さない人よりも『あじゃーす』でも返してくれる人の方が返事は貰えるように。


「いや、面白い発想だと思うよ俺は。続ければいいんじゃないか?」


「センパイもそう思いますかッ? 同じ考え方の人が居て嬉しいです!」


 いちいち可愛い後輩に懐かれた事も加味して、やはりやってもいない罪の自白には収穫があったと言えよう。それにしても一回助けたくらいで心を開き過ぎだとも思うが、多分それは違う。


 トラウマがあるのだ。



 『俺』にはよく分かる。


 条件反射にも近いトラウマ。特定の状況下で大人数に囲まれる事を千歳は恐れている。それが何かは分からないし、分かった所で解決してやれない気がする。だから大切なのは、少しでも安らげる場所を作る事。俺との会話で嫌な記憶に霧をかけられるなら喜んで付き合おう。


「しかしうーん。あれだな。真実は違うとして、君のパンツを見た事になってる俺と一緒に登校なんて、度胸があるじゃないか」


「私は気にしませんよ。助けてくれた事、知ってますから」


 囲まれる事を嫌うという仮定はここでも辻褄が合う。俺みたいな知れ渡った変態が隣に居て誰が囲むというのだろう。やってもいない罪を自白したセンパイは人払いに丁度いい。彼女にそこまでの打算は無いと思うが、直感的にそこまで考慮した可能性はある。


「ところで、センパイはスイーツお好きですか?」


「人並みには好きだけど」


「じゃあ今度美味しいお店を紹介してあげますね! 実はそこ、学生割引があって―――」


 嬉しそうに早口で語る後輩の横顔を、昇降口で別れるまで俺はずっと見ていた。




















 時刻は七時十五分ジャストじゃない。二秒あまり。


「あ、山本君。ちょっと」


 七時半まで待つのが嫌で、つい野球場の方へ出向いてしまった。野球部の朝練自体は七時に終わっている。片付けやらなんやらかかって三〇分が加算されるのだ。完全な偏見だが野球部の顧問は大抵過激派で、一分のサボりも許さない。部室の裏に回って彼を呼ぶのさえ部員の協力がなければ成し得なかった。


「何だ?」



「ああ、実は……放課後。美子から話があるんだって。大切な話があるから来てって」



「旧校舎? ……そっか、分かったよ」


 これでこちらの方は終了。後は他ならぬ彼を呼び出したとされる美子だが―――それは朱莉がやってくれたようだ。携帯に『こっちも伝え終わった』との返事が残されている。部活が終わったら旧校舎に来てくれるらしい。吹奏楽部も大概練習時間が長いので、山本君と時間帯が被る事はない。


「それだけ。じゃあね」


 抜き足差し足と野球場を後に、今度は教室に戻る。家が近いのか元々早起きなのか、朱莉もとい朱斗を含めた何人かのクラスメイトが既に着席していた。


「朱斗。早いじゃねえか」


「ん、そうかな。そういう君も早いねえ。破局から立ち直れてなさそうだ」


 適当にきっかけを作りつつ、俺はクラスメイトの椅子を勝手に借りて朱斗と向かい合った。



『分かったの?』


『偽物は必ず旧校舎に来る』


『それは良かった。じゃあ、罠を悟られない為にも今日はあんまりイチャイチャ出来ないね』


『いつ俺達がイチャイチャしたんだ』



「人の恋愛事情をこれ以上弄るなあああああ!」


 面前の内緒話をごまかすべく朱斗の髪の毛を滅茶苦茶に搔き乱す。表の会話には繋げているので不自然さはない。朱斗には敢えて傷口に塩を塗ってもらった。俺が怒っても無理ないように。


「うぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ♪」



 演技下手かお前。


   

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