決意と離別

「素直に、まっすぐに生きて」

 かつて自身がそうされたように、優しく抱き寄せ耳元で囁くと、幼い歌姫を師匠に預けて旅人は再び扉をくぐった。




 朱く燃える夕日を横切って、鳥は巣を目指し羽ばたく。

 石畳の通路を東へ歩く。その足取りは、僅かに緊張しているようだった。

 遠くから歌が聞こえる。高く伸びやかに紡がれる歌声は、街に時間を知らせる役割もあるらしい。

 夕日の光を受けて、神殿の柱が輝く。

 胸にかけたペンダントの鍵を手の上で転がして、心を決めた強い瞳で前を見つめる。

 一歩踏み出し、神殿の扉に手をかけようとした時、背後から声をかけられた。

「そこで何をしている」

 アペリはゆっくりと振り返り、相手を見て息をのんだ。あまりに見知った顔だった。懐かしさと、僅かな恐怖心。動揺を悟られないよう、腹に力を込めて答えた。

「この国の守護神に――」

「ここは関係者以外が立ち入ることは禁じられている」

「……ええ、知ってます」

 若葉色の瞳と常盤色の瞳が互いを映す。風が橙色に輝く髪を揺らす。

 声に魔力を乗せて、一節を歌う。付近に漂っていた精霊が歌に応じて相手の動きを抑え込んだ。

「なっ!?」

「ごめんなさい。僕は、あなた達が……嫌いでした」

 自身に起きている現象とアペリの言葉の意味を把握出来ないまま、男は地に伏した。

 見下ろすアペリは静かに告げる。

「偽りの神と生贄の歌姫の因縁は、《無邪気な生贄》(アペレース・シシア)が終わらせる――おばあさまはそう言ったそうですね?」

「お前……まさか……っ待て! おい! 行くな!!」

 張り上げられる制止の声を背に、神殿の入り口を閉じてアペリは前を向く。

 静謐な空間。月明りと清らかな水の流れる音が満ちた大広間。鳥籠の中、花を模した寝台の上、カミサマと崇められる闇が目を覚ます。血を思わせる暗い赤色の瞳が、広間の入り口に立つアペリをとらえた。

 相手が言葉を発する前に、アペリは歌を紡いだ。波間に揺蕩うような旋律が空間を包み込む。

 起きようとしていた闇はゆっくりと、再び横たわり、目を閉じる。

 春の陽気のような軽やかな歌声は、蝶が舞うリズムで光の紋様を刻む。大広間の中が明るさを増した。

 異変に気付いた闇が起き上がり、術を組み上げているアペリを捕らえようとしていた。

 ひらりひらりと避けながら、ついに歌い切った魔術師は唱える。

「太陽と月の円舞曲。光の檻は牙となり刃となり、光の籠は花となり葉となり、闇を包む。――第四節月匣

 耳が痛くなるほどの高い金属音に、一瞬闇が動きを止めた。何かに気付いたらしい。口角が引き上げられる。

 カミサマの入っている籠がまばゆく輝き、内外を隔てる。

「ねえ、君でしょシシア……ボクのシシア!」

「ちがう! 僕はアペリティフだ。もう、無邪気な生贄じゃない」

「帰ってきたんだ。かわいいボクの歌姫」

「……戻ってきたのは、壊す為だよ。もう、終わらせたいんだ」

「何を望む? 願ってよ。叶えてあげる!!」

「――いらない。偽りのカミサマなんて要らない!! この国から……世界から消えろ!」

 例えそれが故郷を滅ぼすことになっても――。


 神殿の外がにわかに騒がしくなった。

 私はアペリの肩から明かり取りの窓枠に飛び移り、外の様子をうかがった。

 いくつもの灯りが入り口の扉の前に集まっている。アペリの術によって閉ざされた扉を開けようと苦戦しているようだ。

『アペリ、あまり時間がないみたい』

「分かってる」

 大きな容器に神殿内に流れる水を採取して鞄の中に収めたアペリは、胸元の鍵を入り口の扉にかざした。

「《三つの太陽、二つの月。

 閉ざされた匣、開かれた扇。

 空は誘う、繋がれた世界》」

 周囲の光がアペリの前に扉を形作る。壁とも思えるほど大きなそれは、鍵を持って命じるアペリの声に応じてゆっくりと開いた。向こう側からは馴染みのある風の匂いがする。

 風に髪を揺らしながら鍵を下ろし、私の方を見たアペリは「行くよ」と静かに告げて歩き出す。私も後を追って扉をくぐった。

 扉は静かに閉じられ、ようやく神殿の中に入れた人達の前で光に還る。

 誰かの叫びが聞こえた気がした。

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