記憶の本
店の扉が静かに開いた。
「すみません……」
控えめな呼びかけをした客は、一度店の中を見回した。不思議な空間だ。何に使うのか、用途の不明な物も多い。
扉を半分開けた状態で店側からの返事を待っていると、頭上から人が降ってきた。
「さっさと閉めて下さい。店が機嫌を損ねます」
華麗に床に着地した彼はどうやらここの店員らしい。
店が機嫌を損ねるとはおかしな事を言うと思いながらも、客は素直に扉を閉めた。
目だけで確認をして、店員は口を開く。
「店主の――キルシュです。ご要望は何でしょうか」
名前を言うのに時間がかかったということは、偽名だろうか。表情、声の調子から、早く終わらせたい気持ちが伝わってくる。
「……すみません。もしかして、忙しかったです、か?」
「いいえ。貴女が気にする程の事でもないです」
「そう、ですか。
実は……過去を、買い取って頂きたいのです」
「は……」
店主の動きが一瞬止まった。しかしすぐに力無く頷いた。
「ええ。出来ますよ。しかし、それは貴女にとって苦痛になるかもしれません」
「良いのです」
客は俯き、胸元に当てた手を固く握った。
「忘れられない苦しみより、私は――」
「結構結構」
貴女の事情などどうでも良いといった風に、店主は客の話を遮った。棚から取り出した白い本を客に手渡し、消したい記憶をその中へ押し込むように言う。
客は目を閉じ、白い本を額に当てて念じた。嫌な記憶、嫌な感情、全て押し込めようとした。
「――もう、良いですよ」
声をかけられ、ゆっくりと目を開く。
外も中も真っ白だった本は、いつの間にか黒く変色していた。
「これで、終わりです」
「ありがとうございます! あのっ」
「この《記憶》はこちらで処理させていただきます」
店主は客から本を受け取ると、奥の本棚へ納めた。棚の中には、濃淡の差はあれど、同じように黒い本がずらりと並んでいた。
来店時とは打って変わって明るい笑顔で出て行った客を見送り、溜め息をつく。
「過去を忘れるのと失うのは……違うんだけどな」
その呟きは、店内の静けさに溶けて消えた。
* * *
嫌な記憶は忘れて、幸せだった思い出だけを抱えて。そんな事を繰り返す内に、何か足りない気がして来た。
何が足りないのか、はっきりとは分からない。しかし、嫌な記憶として手放した中に大切な物もあったのかも知れない。
掠れ欠けた記憶の道を辿り、探し出した不思議な店。
「いらっしゃいませ」
扉を開け、出迎えてくれたのは青年。この店の唯一の店員にして店長。
そんなこと、どうして知ってるの? 以前にも来たから。
掠れた記憶しかないのに断言できる? こうでもしないと記憶と一緒に存在まで消えてしまいそうだから。
ここにいる。存在している。心の中で自分に言い聞かせながら、店主に尋ねる。
「以前、過去を売った……はずなのですが、あれは買い戻す事はでき、ますか?」
店主は静かに首を振る。「ここには、ございません」と。
そんなはずない。店の奥の棚に仕舞ったのを見たんだと主張して奥へ進むが、黒い本の入っている棚なんてなかった。
「本をお探しなら、紹介しますよ」
店主の手にはメモ用紙。丁寧な字で住所と地図が書かれていた。
返して欲しいのはあの人の記憶。だけど、それが誰かも分からない。
メモを受け取り、ドアノブに手をかけた。
「またのご来店が無きよう、願ってますよ」
帰り際にかけられたのは、どこの店でも言われることはない言葉。しかし客の事を思ってだということは分かる。
さあ、過去を探しに行こう。
終
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