episode.7

 血液を宝石に変えて平然と丸呑みしてしまったテオの姿を見て、ユアンの視界はくらりと傾いた。目の前が暗くなったかと思えば足元がふらつき、立っていることもできずにカウンターに両手を付いてその場にしゃがみ込んだ。

 

「ユアン! 大丈夫?」

 

 すかさず駆け寄って来たリアが心配そうに顔を覗き込んでくるが、ユアンは薄っすらと笑みを返すのでやっとだった。

 

「リア、手当てしてあげるといいよ。血を止めて傷付いた血管は治しておいたけど、傷口自体はそのままだから」

 

 何でもないことのように言いながらテオは床に落ちたナイフを拾い上げると、刃に付着している血液を舐めとった。

 

「ついでにキミの特性ドリンクでも飲ませてあげてよ。少し血を吸い上げたから、貧血なんだろう」

 

「うん、分かった」

 

 力強く頷くリアに笑みを見せ、テオは手にしていたナイフを出した時と同じように一瞬で消してしまった。

 最早驚くのも馬鹿らしいとユアンが疲れ切った溜め息を溢している間に、今度は黒いスーツの上着がテオの手に握られているのを目にして唖然とした。

 その場になかったものを瞬きしている間に手にしてしまうのだから、便利すぎる“魔法”というものに驚きを通り越して羨ましさすら覚える。

 

「それじゃあリア、ちょっと行ってくるから留守番は任せたよ」

 

「気を付けてね」

 

「ああ。ユアン、キミも少し休んだら早く帰るといいよ。キルケニーに着く頃には日が暮れてしまうからね」

 

 さっと羽織った皺ひとつないスーツの上着に袖を通すと、テオは美しい顔で微笑した。悔しいことに、程よく引き締まった体に長い手足の彼には、漆黒のスーツがよく似合う。

 

「先払い分の働きはしないとね」

 

 軽い調子でそう言うと、磨き抜かれた艶めく黒の革靴で一歩足を踏み出し、靴底が床に付く瞬間には、もうテオの姿は忽然と消え去っていた。

 

「待った、どこに行ったんだっ……」

 

 目の前からテオが消えたことに驚いたユアンは、力の入らない足で慌てて立ち上がる。くらくらとする視界で店内を見渡しても彼の姿はどこにもなく、動揺してふらつくユアンの体をリアが支えた。

 

「ユアン、落ち着いて。テオは貴方の妹さんを助けに行ったのよ」

 

「助けに……って……まさか、妹にもなにか……っ」

 

「大丈夫。ユアンから対価をもらっているんだから、妹さんに酷いことなんてしないわ。テオを信じて」

 

 新緑の瞳と見つめ合ったユアンは、なんとか自分を落ち着かせようと深く息を吐き出した。

 あの人間離れした魔法使いを信じるというのは難しいが、この純粋な美しい瞳を持つ少女のことは、不思議と信じることができてしまうのだ。

 

「椅子に座って休んでいて。あんまり辛いようなら、ベッドで横になった方がいいかも」

 

「いや……大丈夫。ありがとう」

 

 リアに促されるままカウンターの椅子に腰掛けると、彼女は安心したように優しく微笑んだ。「少し待っていて」と言葉を告げ、置いてあったティーポットとカップを手に、リアは奥のドアへと姿を消した。

 

 

 

 

「傷口が結構深いから、帰ったらきちんと病院で診てもらってね」

 

 暫くして救急箱と怪しげな飲み物を手に戻って来たリアは、向き合うようにユアンの隣の椅子に座り、手首の傷に一通りの消毒を終えてから言った。

 

「どうせなら傷もきれいに治してくれたらよかったのに。これだと少し痕が残るかもしれない」

 

 ガーゼの後に慣れた手付きでくるくると包帯を巻き付け、リアは不満そうに唇を尖らせた。

 どうやらこの場にはいないテオへの文句を言っているらしい。

 

「戒め……のようなものだと思う。忘れないように」

 

 巻き終えた包帯をハサミでカットし、固定テープで止めているリアの手元を見つめてユアンは呟く。

 傷が残れば、見る度に今日のことを思い出すだろう。

 

「彼は……本当に妹のところに行ったの? 俺は、場所も何も話していないのに」

 

 救急箱に包帯や消毒液をしまっていたリアは、ユアンの質問に手を止めた。考えるような素振りで首を傾け、「うーん」と小さく唸る。

 

「多分、テオと握手をした時に最近の記憶を読まれたんだと思う」

 

「記憶……? そんなこともできるのか?」

 

「テオは、ちょっと変だから」

 

「ちょっとって……」

 

 リアとの感覚の違いに苦笑いを浮かべたユアンは、ふとテオと握手を交わした時の彼の含み笑いを思い出した。あの僅かな時間で記憶を読まれたのだとしたら、なんて恐ろしい魔法使いなんだと身震いする。

 

「魔法使いは、みんなテオのような感じなの?」

 

「まさか! わたしの知ってる他の魔法使いは、みんなもっと常識的よ。テオは特殊なのよ」

 

 ぶんぶんと首を横に振って三つ編みを揺らしながら、暗にテオを非常識だと言っているリアの姿にユアンはなんとなく安心した。あれがリアの中でも普通なのだとしたら、色々と心配になってくる。

 

「あのさ、気を悪くしないでほしいんだけど……テオって本当に人間なの? なんて言うか、その……言動が人間離れしてるっていうか。実は悪魔の洞窟オエンナガットから来たって言われても、驚かないというか……。キミが彼と一緒にいても大丈夫なのか、少し心配で……」

 

 最後の方は聞き取れないぐらい小さくなったユアンの言葉に、リアはきょとんとした顔で瞬いた。気まずい思いで目を伏せて首の後ろを摩っていると、目の前のリアがぷっと吹き出す。

 

「やだ、ユアンったら! わたしもテオは魔法使いより、悪魔の洞窟オエンナガットから来たって言われた方がしっくりくるわ」

 

 楽しそうに笑いながらリアが答えたのを見て、ユアンはほっと胸を撫でおろす。

 『地獄への門』と呼ばれる悪魔の洞窟オエンナガットは、悪魔が暮らす地下世界の入り口だと言われているのだから、一歩間違えればリアを不快な気持ちにさせていただろう。

 一緒に暮らしているリアにまでしっくりくると言われるテオという人物は、本当に何者なのか、ますます気になってくる。

 

「テオがなんなのかはわたしにも分からないけれど、ユアンの言う通り、きっと“人”ではないんだと思う。わたしと暮らし始めて10年は経つけど、見た目もずっと変わらないし。知っての通り、人の身体の一部を宝石に変えて食べてしまうしね」

 

 ふふっと笑ってリアは言うと、木製の救急箱の蓋をそっと閉じた。金属製の留め具の音が、カチッと鳴る。

 

「……怖くないの? 人を食べる悪魔や妖精かもしれないのに」

 

 離れた方がいい。そう言おうとして、ユアンは口を噤んだ。

 リアがあまりに幸せそうに、微笑んで見せたからだ。

 

「テオが何者かなんて、関係ないの。悪魔でも妖精でも、なんでもいいの。わたしにとって、テオはテオなの」


 きっぱりとそう言い切ったリアを見て、ユアンは自分の質問の愚かさに気が付いた。

 ユアンにとって両親や妹がかけがえのない大切な存在であるように、リアにとってのそれが、テオという存在なのだ。


「ごめん……俺……」


「はい、ユアン!」


 申し訳ない気持ちで謝罪するユアンを遮るように、リアは満面の笑みでマグカップをずいっと目の前に差し出してきた。

 ほんわかとした愛くるしい黒猫のイラストが描かれたマグカップからは想像もできない、どろりとした濁った緑色の液体がたっぷりとカップには満たされている。


「いや、リア、待った。俺はもう大丈夫だから。かなり元気になったよ」


「だめよ。あんなに血が出てたんだから。薬草学が得意なアシュリンに教えてもらった治療薬だから、きっと元気になるわ」


 リアがカップを手に戻って来た時から嫌な予感はしていたが、彼女の笑みを見る限りとても断れる雰囲気ではない。

 ユアンは何が入っているかも分からない怪しげな飲み物を受け取ると、恐る恐るリアに視線を向けた。


「ちなみにこれ、何が入ってるか訊いてもいい……?」


「えーっと、ネトルでしょ、コモチカナヘビのしっ」


「待って待って! やっぱりいいや……」


「え? いいの?」


「うん……」


 訊かなければよかったと後悔したユアンは、手にしているカップに視線を落とした。


 とてもいい香りとは言えない緑色の液体を見つめ、ごくりと喉を鳴らす。期待に溢れた瞳を向けるリアをちらりと確認し、ふうっと一度深呼吸。そうして数秒の躊躇いののち、ユアンはカップを傾け液体を一気に飲み干した。


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