episode.6

「テオ! お願い、やめて!」

 

 握っていたユアンの手を離して駆け出したリアは、カウンター内にいるテオの元まで行きがっしりと右腕にしがみついた。

 呆気に取られているユアンとは違い、テオは彼女の行動を予想していたかのように冷静な様子で、視線だけをリアに向ける。

 

「リア、僕の仕事の邪魔はしないって約束だろう」

 

「ユアンはわたしのお客さんなの」

 

「おかしいね。彼は最初から僕を求めてここに来たようだけど」

 

「わたしの淹れたハーブティーを飲んだもの」

 

 真剣な顔で一歩も引かないリアに対して、テオはやれやれと溜め息混じりに言葉を漏らした。しがみついているリアを引き剥がすでもなく、困ったと言いたげな顔で灰青色アッシュブルーの髪を掻き上げる。

 

「リア、僕の仕事は慈善事業じゃないんだ。対価無しに望みは叶えられない」

 

 子どもをあやすような柔らかい口調でテオは言う。リアと話す時の彼は、どうやらユアンを含め他の人物と話す時とは表情からして少し違うようだった。

 金色の左目に、温かみを感じる。

 

 180㎝を超えているであろうテオを上目でちらりと見上げ、リアはしがみついている腕に頬を擦り寄せた。

 

「分かってる……分かってるけど……嫌なの」

 

「キミは人間の欲深さを知らないからそんなことが言える。ひとつ叶えばまたひとつ、欲望っていうのは、次から次へと湧き出てくるものなんだよ」

 

 テオの表情が、一瞬にして冷ややかなものに変わった。ありとあらゆる欲の果てを知り尽くしたような瞳でユアンを見る。

 

生温なまぬるい対価で本来叶うはずのない望みが叶えば、彼はキミの優しさにつけ込むかもしれない。人間とはそういう生物なんだよ」

 

 唐突に向けられた侮蔑の眼差しに、ユアンは顔を顰めた。

 『人間』と一括りにされ、ひどく不愉快なことを言われたのだと気付いて腹が立った。自分はどうなんだと問い詰めてやりたいところを、ぐっと堪えて拳を握る。

 

「そんなことはしない。妹を助けてもらえれば、それでいいんだ。約束通り右目は渡すよ」

 

 不安げにこちらを見ているリアに笑みを返し、ユアンは宥めるように言った。

 

「リア、俺は大丈夫だから。ありがとう」

 

「でも──」

 

「彼は受け入れているんだから、もういいだろう?」

 

 食い下がろうとするリアを遮るように言葉を被せたテオは、彼女の頭にぽんと手を置き、額にかかる赤茶色の髪を優しく掻き分けた。

 髪と同じ色をしている眉を垂れ下げたリアの顔を覗き込み、薄い笑みを浮かべる。

 

「リア、彼の覚悟を無駄にしちゃいけないよ」

 

 もっともらしいことを言って丸め込もうとしているのは見え見えだが、当のリアは納得のいっていない表情でぶんぶんと首を左右に振った。

 

「だめ……だめなの……」

 

「リア」

 

「だめ……っ。目が覚めた時、ユアンの右目がないと分かったら……妹さんが悲しむわ」

 

 震えるリアの声に、ユアンはハッとした。

 ただ自分の一部を犠牲にすれば、すべてが上手くいくのだと思っていた。

 そこにあるはずの妹の気持ちなど置き去りにして。

 重荷を背負うのは果たして自分なのか。妹なのか。

 

「──本当に、うちのお姫様には困ったものだね」

 

 ユアンが困惑して頭を働かせていると、緊張感漂うこの場には似つかわしくないテオの明るい声が響いた。


「今日初めて会った相手のことを、そこまで考えられるなんて理解に苦しむ」


 テオは顔を上に向けて左手で目元を覆い、本当に理解できないといった口調でわざとらしく大きな溜め息を吐き出す。

 

「だから子どもは得意じゃないんだ」

 

 愚痴をこぼすように続けて呟いたかと思うと、目元から離れたテオの左手に、一瞬のうちに刃の剥き出しになったナイフがふっと出現した。まるで手品のように突然彼の手に握られたナイフを器用にくるりと回し、ハンドルをユアンに向ける形でカウンターに置く。

 

「リアに免じて、右目は諦めるよ。代わりに、キミの血をもらおうか」

 

 これ以上の譲歩はするつもりがないといった笑みを見せるテオと数秒の間目を合わせたユアンは、カウンターに置かれたナイフに視線を向けた。

 テオの言わんとしていることを汲み取り、意を決してずんずんとカウンター前まで足を進める。

 

 試されているのだ。本気を。

 右目を差し出すことに比べれば、血を流すことなど最早怖くはない。


 テオの腕にしがみついたまま視線を寄越すリアとは目を合わせずにユアンはナイフを手に取ると、なんの躊躇いもなく鋭い刃を手首に滑らせた。

 

 切れ味抜群のナイフはいとも簡単にユアンの肌をぱっくりと切り裂き、ぷしゅっと鮮血が勢いよく飛び散る。

 

「きゃあっ!」

 

 リアの短い悲鳴が響き渡り、思いのほか深く切れた手首からぼたぼたと血が溢れ出すと、ユアンは「うっ」と小さく呻いて腕を握った。

 カウンターに広がる血が床にまで滴り落ち、手から離れたナイフがごとっと重苦しい音を立てて転がる。


 熱をもった手首からじわじわと痛みが広がり、ユアンの額に冷や汗が滲んだ。

 

「テオ! 血を止めてっ!」

 

「──素晴らしいね。若いっていうのは、勢いがいい」

 

 リアの叫びが聞こえているのかいないのか、テオはユアンの流れ出る血を見つめながら愉快そうに笑うと、──パチン! と軽快に指を鳴らした。

 

 テオの合図を境に、ユアンから流れ出た血がカウンターや床の上で生き物みたく蠢き始めた。

 床の表面を撥水コーティングされているかのように血液が球体となって弾かれ、互いに吸い付き合いながらひとつひとつの小さな塊となっていく。

 そうしてみるみるうちにユアンの血は、液体から固形物へと姿を変えていった。


 手首から溢れ出る血はすうっと宙に浮き上がって真っ赤な血の塊になると、電球の光を浴びてきらきらと美しく輝いた。


「なにが、起こってるんだ……」


 痛みも忘れて宙に浮く血を目で追うユアンの前で、血液だったものは次第に眩い光を放つ深紅の宝石へと変化した。


「ガーネットか。美しいね」


 いくつもの小さな宝石となったユアンの血液は、テオの手のひらへと引き寄せられるようにして集まっていく。カウンターや床に転がっていた真っ赤な宝石までもがすべて彼の手のひらの上に集まり、こんもりとした小さな山が出来上がった。


「ああ、まさにザクロの種子のように美味しそうだね」


 恍惚とした表情で果実の種子を思わせる深紅のガーネットを見つめ、テオは僅かに声を弾ませて言った。


 異様な光景と『魔法』の存在を目の当たりにして呆然としていたユアンは、テオの発した言葉の意味に気付かなかった。

 というよりも、ただの言葉の例えだと思っていたのだ。


 宝石となったユアンの血液を数秒間鑑賞していたテオは、突如大きく口を開いた。


「えっ──」


 驚くユアンを他所に舌の上に転がすようにして手のひらにある無数のガーネットをざらっと口内に流し込み、そのままごくりと喉を鳴らす。


 テオは満足げにぺろりと唇を舐め、金色の左目を三日月型に細めた。


「ごちそうさま」


 ひとつも残らずテオの口の中へと消えていった深紅の宝石は、刹那的な美しいまたたきをユアンの目に焼き付けて失われた。


 手首から溢れていた血は、いつの間にか止まっていた。

 

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