episode.5

 テオの発言を理解するまでに、数秒の時間が必要だった。

 

 身体の一部を、対価に……?

 

 この場から消えてしまったフィンとの会話を思い出し、ユアンの血の気が引いていく。無意識に胸の辺りでシャツを握り締め、唇を震わせた。

 

「それって、まさか……心臓……?」

 

 口に出した途端に現実味を帯び、背筋に冷たい汗がつたう。

 平然とした顔で心臓を「安い」などと言える男なのだ。ユアンに対して同じ要求をしてきてもおかしくはないことに気が付き、恐ろしくなった。

 

 もし心臓を差し出せと言われたら、どうすればいい……。

 

 最悪の状況が頭を過り、ユアンは恐々とテオの様子を窺う。彼は顔を僅かに俯かせ、肩を小刻みに震わせていた。手にしているティーカップまでもが少し震えている。

 

「は……?」

 

「失礼……、キミがあまりに真剣に怯えてくれるものだから、愉快で……」

 

 堪えきれない様子でくっくっと笑いながらテオが言うと、リアが小さく溜め息を吐き出した。

 

「ごめんなさい。テオはちょっと、笑い上戸なところがあるの」

 

「からかってるのか……?」

 

 不快な思いにユアンの声に険が混じると、テオは漸く顔を上げた。相変わらず口元に笑みを浮かべているが、話を再開させる気になったらしく、ティーカップをカウンターに置く。

 

「ごめんごめん。僕にとって恐怖ってものは、スパイスみたいなものなんだよ。死者を蘇らせるわけでもあるまいし、さすがにキミに心臓をよこせとは言わないよ」

 

 他人の恐怖がスパイスなどと悪趣味なことを軽い口調で言った後に、テオは左目を冷たく光らせる。

 

「まあ、くれるって言うのなら、もらっておくけれど」

 

 冷ややかな眼差しに、ぞくりとユアンの肌が粟立つ。冗談で言っている訳じゃないことは、彼の笑みを見て察した。笑っているのに、酷く冷徹な印象を受ける。まるで獲物を前にした野生動物のような慈悲を感じさせないその表情に、ユアンは体を強張らせた。

 

「……心臓は、無理だ。身体のどこを差し出せば、妹を助けてくれる?」

 

「ユアン、だめだったら!」

 

 テオの鋭い視線が、ユアンを射抜く。白手袋をはめた右手がゆっくりと動き出し、つられるようにユアンはその手を目で追いかける。

 眼帯をしている右目の横で人差し指が止まると、テオは唇を歪めた。

 

「対価には、キミの右目をもらおうか。片方だけなら、問題ないだろう?」

 

 さらりと言って退けたテオを見返し、ユアンの表情は険しくなる。

 なぜ彼はこんなにも簡単に、「問題ない」などと言えてしまうのか。

 

「右目……」

 

「そう、右目。二度と目覚めないかもしれない妹を救うのに右目だけでいいなんて、寛大だと思わないかい? これ以上の要求は、リアが許してくれそうにないから」

 

 大袈裟に肩を竦めるテオの言葉に、ユアンはやっと隣に立つリアの存在を思い出して彼女を見た。

 リアは今にも泣きだしそうな顔で、そっとユアンを見上げた。

 

「ユアン……貴方が妹さんを助けたいと言った時から、テオと貴方を会わせたくなかったの。だって……」

 

 言葉を詰まらせるリアが、何を言いたいのかユアンには分かってしまった。

 『二度と目覚めないかもしれない妹を救うのに右目だけでいい』だなんて。なんて、ものだと思ってしまったのだから。

 例え何を要求されたとしても、妹が助かるのなら、もう一度目を開けてくれるのなら、ユアンがテオとの取り引きを受け入れることを、彼女は分かっていたのだ。

 

「本当に……右目を差し出せば、妹を助けてくれるのか?」

 

「もちろん。僕は対価に対する嘘は付かないんだ」

 

 今日一番のテオの穏やかな口調に、ユアンは深く息を吐き出した。

 どんなことをしてでも妹を助けたい。そう思って、存在するかも分からない魔法に縋って今ここに立っているのに。情けないことに、手が震えている。

 

「……分かった。右目は渡すから、妹を助けてほしい」

 

 隣にいるリアが、冷え切ったユアンの手をぎゅっと握った。その温かい体温だけが、嘘のようなこの現実に引き留めてくれる。

 

「素晴らしいね、家族愛ってやつは。僕には理解できそうにないけれど」

 

 感心と薄情さの入り混じった、突き放すような言い方だった。


 正午を過ぎた店内は、東側の出窓から差し込んでいた日が傾き、天井に取り付けられた花の形の照明器具だけが、唯一の明かりになっていた。

 朝は晴れ渡っていた空も、どうやらこの国お馴染みのどんよりとした雲が太陽を覆い始めたらしく、今にも雨が降りそうだ。


 ユアンは窓の外を見つめ、もう二度と同じように映ることのない景色に、感傷的な気分になった。


 強要されているわけではない。

 自分の意志で選んで決めたことだ。


「痛くはないよ。ただそこにあったものが、すっぽりなくなるだけだ」


 慰めているのか脅かしているのかよく分からないことを言って、テオは左手を胸付近まで上げた。


 どんな風に魔法が使われ、どのように身体の一部を奪われるのか。

 知っていてもいなくても、恐ろしいことに変わりはない。


 堪らなくなって瞼をきつく結ぶと、ユアンの手を握り締めていた柔らかな感触が、するりと離れた。


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