春の雪
兎舞
春の雪
『昨日、東京の桜が開花しました。例年より一週間早い開花です』
寝ぼけ眼をこすりつつつけたテレビでは、二つ三つ咲いた桜がアップで映し出されていた。この神社は、桜の開花時と真夏の記念日だけニュースになる。
俺はそのまま顔を洗いに洗面所へ向かった。
「先輩、はよーっす」
「おう」
「またオサレなもん持ってますね」
「……ただのコーヒーだろ」
「女子が噂してましたよ。先輩がいつもそこのコーヒー飲んでて格好いいって。俺も真似しようかな」
「アホか」
会社の最寄り駅で下りると、改札の目の前に外国のコーヒーチェーン店がある。どうやら日本ではここにしか出店していないらしいが、俺にとっては通勤途中にあるという理由で選んでいるだけだった。
それをいちいちチェックされていると知ると、むしろ嫌悪感が沸いてくる。
当然のようにエレベーターの列に並ぶ後輩を置いて、俺は階段でフロアへ向かった。
「昨日頼んだアレ、どうした?」
「もう出来てます。少し見直ししてメールします」
「助かるわ。いつも仕事早いな、お前」
「……いえ」
褒めてもらったのか嫌味を言われたのか分からず、あいまいな返事をする。自分としては毎年この時期になると作らされる資料を更新するだけなので、時間がかかるはずがない作業だった。
「ついでと言っちゃ申し訳ないが、花見のセッティングしてくれるか? ほら、桜の開花宣言出ただろ」
「……俺がですか?」
「いやー、去年は普通の居酒屋だったろ、あとからジジ臭いってクレーム来たらしくてな。お前ならどこかいい店知ってるだろ。仕事も早いし」
仕事の早さは関係ないだろう、と突っ込みたかった。その上、花見の幹事など、自分程似合わない人間もいないだろう。
「でも……」
「若い奴ら適当に使ってさ、来週末あたりで頼むわ、じゃ」
言い逃げするように、ポン、と肩を叩いて上司は席へ戻っていった。見られないようにそっと触れられた肩を払う。上司が嫌いなわけではない、無闇矢鱈と他人に触れられることが嫌なのだ。
(花見って……。そんなイベントやろうって言いだすこと自体おっさんの発想なんだよ)
しかし、一々抗議しに行くのも面倒だった。俺は件の資料の修正を終わらせ、メールで提出してから、昼休みまでの十数分を使って店の検索を始めた。
「せーんぱい! 花見の幹事やるんすね」
「本当に耳が早いな」
朝の後輩が、昼休みに隣の席を陣取ってきた。ガサゴソとコンビニの袋を広げ、取り出したのは特大サイズの焼きそばだった。自分にもソースの匂いがつきそうで、少しだけ顔を顰める。
「んー、腹減ったー。ね、ね、どんな店っすか? やっぱ肉いいっすよね、肉!」
「お前も課長と発想が同じだな」
「えー? それはちょっと勘弁っすね」
俺はサンドイッチ片手に、開いていたグルメサイトをスクロールする。時期が時期だけに週末は予約が埋まり始めている。部員は十五人。宴会としてはそこそこの規模になる。今から予約できるだろうか。
次、次、とページをジャンプしていくと、ふと目に留まった店名があった。
『春の雪』
まるで昭和の文豪の小説のような店名は、あの時から変わっていないらしい。大人数で大騒ぎするような店ではないから、今回の目的には合わないだろう。
しかし俺は、そのページから動くことが出来ずにいた。
◇◆◇
「……嘘だろ?」
咄嗟に出てきた言葉は、あまりに間が抜けていたと、後から後悔した。しかしその時の俺は、頭の中が真っ白だった。
目の前の彼女は、黙って首を振った。
「ごめんなさい、言わなきゃいけないって、ずっと思ってた……」
俺の反応も間抜けだが、彼女の返答もまたテンプレだった。衝撃の大きさと比べて、交わす言葉は平凡過ぎた。
いや、問題そのものもよくある話なのかもしれない。
お互い独身だと思って付き合っていた彼女が、実は人妻だった、なんて。
旦那の海外赴任に同行するからもう会えなくなる、という彼女の言葉は、その時はただの言い訳だと思った。要するに俺と別れるための口実なのだろう。人妻だということも、真実かどうかわからない。戸籍を見たわけではないし、旦那から抗議を受けたわけでもない。
しかし、真実がどうなのかなど、どうでも良かった。
つまり、俺はフラれたわけだ。
今日こそプロポーズしようと、意気込んで指輪まで買ってきたバカな自分を、自分と宝飾店の店員しか知らないことだけが、唯一の救いだった。
彼女が店から出る時、小雪が舞っているのが見えたが、呼び止めることは無かった。
その数日後、成田発の海外エアラインが海上で墜落したというニュースを見たが、邦人乗客の名簿など見るはずはなかった。
◇◆◇
「うわ、かっけーっすね、その店。そこですか? 花見」
ぼんやり回想にふけっていると、後輩のバカ明るい声にハッと我に返る。奴は俺からマウスを取って、勝手に画面をスクロールし始めた。
「場所もいいっすね、名所のすぐ近くだし、会社からも歩いていけますよ、ここなら。さすがっすね!」
「なになにー、お花見するの?」
気が付けば、他の社員もわらわらと集まってきていた。
いや、ここは、と言いかけるが、既に決定事項と勘違いした社員たちは、メニュー情報を見て盛り上がってる。
「予約取れたんすか?」
「いや、それはまだ……」
「じゃあ俺電話しちゃいますね!」
ちょっと待て、と言おうとしたが、この後輩が止まるはずはなかった。気が付けば先方と繋がっていた。
◇◆◇
「私、夜桜って初めてかもー」
「思ってたより暖かいね、夜なのに」
「飲み物追加する人、いるー?」
花見といえど、やることはただの飲み会だ。一部の女性社員は桜も見て写真を撮ったりしているが、ほとんどが飲み食いとおしゃべりに夢中だった。
俺はトイレに行くふりをして外へ出て、空を見上げた。
羽田発の機か、ほとんど星の見えない東京の夜空を、明滅する光が横切っていく。
『飛行機って、世界一安全な乗り物なのよ』
耳元で彼女の声が甦る。それは本当らしい。言われてみれば交通事故などと比べると、飛行機事故のニュースは格段に少ない。操縦しているのもプロだ。少しの故障でも離陸が遅れる。
それでも、あの時、事故は起きた。
自分が引き留めれば、彼女は行かなかっただろうか。
一日でも引き延ばせば、あの事故には遭わなかったのだろうか。
それでも俺はフラれて、彼女の未来も変わることはなかったのだろうか。
同じ堂々巡りを、もう何度も繰り返していた。
ここ数年は忘れていたのに。
「せんぱーい、何してんすかー、風邪ひくっすよ」
「おー、今行く」
頭を軽く振って、答えの出ない問答を中断する。一瞬吹いた風で、桜の花びらが舞い散る。あの時の雪に見えて咄嗟に振り向くが、そんなはずはなかった。
あの指輪は、もう捨てたほうがいいかもしれない。
春の雪 兎舞 @frauwest
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます