第5話 きみと、ひと時を重ねて

「むー、やっと帰ってきた。退屈だったんだよ」

「仕方ないだろ。ついてくるか聞いたじゃないか」

「それはそうだけど」


 両手にビニール袋を引っ提げて帰ってくると、天使はリビングで待機中だった。テレビを見ていたようで、夜中のバラエティでも見ているのかと思えば、世界の大自然的なものを紹介する教養番組が流れていた。

 画面の中では、どこかの大きな山の断崖から、飛沫を立ててとてつもない量の水流が流れ落ちている。滝だ。こんな町には到底ない、巨大な瀑布。雨が降ったあとみたいに虹の橋が架かっている。


「……面白いのか? そのテレビ」

「うーん。どうなんだろ」


 要領を得ない回答をしつつ、天使はテレビを消してとてとてと近寄ってくる。その視線は僕の持つビニール袋に向けられており、なにを買ってきたのか興味津々といった風だ。

 夜中に自転車をこいで向かった先は、二十四時間営業のスーパーだった。こんな時間でもこうして材料を買えるのだから、便利なものだ。


「ね。なにするの? わたしにも手伝って、なんて言ってたけど」

「今から、朝までにケーキを作る。天使は味見役」

「ケーキ?」

「知らないか?」

「ううん、知ってはいる。あの、誕生日っていう日に食べるやつ。ハルさん、それかお母さん誕生日なの?」

「別に誕生日限定に食べるものでもないよ。……今はそんな暇なくてめっきりだけど、昔の母さんはお菓子作りが趣味みたいだった。あの時のこと、天使の言葉で思い出したんだ」


 まだ家族が三人だった頃。テーブルを囲んで笑いあった日がいくつか、確かにあった。あの日に戻れるわけではないけれど、母さんだって忘れてはいないはずだ。


「料理は僕も作るけど、お菓子作りは初心者だ。でもパウンドケーキならそこまで難しくないって聞くし、小さい型をいくつか用意して焼けば、味見で形が崩れる心配もいらない」

「むむ、これはひょっとしてわたし、役得の予感」

「どうだろうな。僕のお菓子センスがなければ最悪の毒見になるぞ」

「えっ」


 青い目を丸くする天使。しかし僕の顔を見て、冗談だとわかると頬を膨らませた。

 夜明け——天使が石像になるまで、五時間程度。

 僕の記憶では、母さんは一時間もかからないくらいで作ってたはずだ。試行錯誤を込みにしても時間はたっぷりある。 

 お菓子作りの経験はないが、これでも母さんと分担でご飯を作ることだって多い。パウンドケーキの一つや二つ、簡単に作ってみせる……!



「あの」


 一時間半後。第一弾として完成したものを皿に載せ、着席した天使の前にそっと差し出す。

 幸い、材料を買いに出かける前に確認したところ、昔母さんが使っていたステンレス製の型はまだ残ってくれていた。なので記憶を頼りに、母さんの手順をなぞる形で再現した。


「なんで?」

「……………………わかんない」


 結果、皿の上には焦げた暗黒色の直方体が乗っかっていた。


「召し上がれ」

「食べられるわけないよぉっ!?」


 フォークを投げつけてきそうな勢いで天使は抗議する。楽しみにしてくれていただけに、期待を裏切る形なってしまったのは申し訳なかった。

 いや、まだ第一弾だし。挽回はできる。失敗の理由は……シンプルに焼きすぎたか。一から十まで記憶だよりというのは、そもそも無理があったかもしれない。


「まあでも、ほら、見た目じゃわからないことってあるじゃん。人と同じだよ。見た目や名前だけじゃ人間性までは判別できないっていうか」

「こんな消し炭のインゴットみたいなの食べたらいくら天使でもお腹壊すって」

「そっかぁ」


 言いくるめられなかった。失敗作は残念ながらゴミ箱行きだ。

 とはいえ一度の失敗は織り込み済み、材料はまだまだある。これ以上食べ物を粗末にしないためにも、次こそ成功しなくては——

 そう考えていたところで、天使はフォークを置いて立ち上がる。


「わたしも手伝うよ」

「え。天使が? できるのか」

「だって、ハルさんに任せてたら食べ物が出てくるか不安だし……」

「……はい」


 さんざんな言いようだった。

 二人でケーキ作りをするにあたり、まずレシピをまともに参照することに決まった。幼少期の記憶などあてにならない。少なくとも、手順においては。

 でも、味はしっかりと覚えている。だから、一度ネットで検索したレシピ通りに作り、それを母さんの味に少しずつ近づけていく方向性に変えたのだ。


「ハルさん、バター温め終わった。もうボウルに入れちゃうね」

「あ、ああ。こっちも計量は終わってる」

「だったらわたしが混ぜちゃうよー。ふふん、これ楽しそうだからやってみたかったんだ」


 想像以上に天使の手際はよく、先日ねだられて教えたレンジの使い方もばっちりできていた。

 こうしていると、ただのよく笑う女の子だ。背中でぴょこぴょこする翼さえなければ、だが。

 夢中でキッチンを巡り、二人で作業を進める。今度はレシピ通りに進めたことで、きちんとふんわり焼き上がった。フルーツもなにも入っていない、プレーンのシンプルなパウンドケーキだ。


「今度はうまくいってよかった……。二つあるから、うちひとつを二人で味見してみよう」

「わぁっ。いい匂いだね~」


 本当は冷ましてからの方がしっとりとしておいしくなるのだろうが、あくまで大方の出来栄えを確認するための味見だ。型から外し、二つに切り分けて小さなブロックとなったケーキを二人で食べてみる。


「……っ! おいしい! ふわっとしてて、とってもおいしいよハルさん!」

「ああ、おいしい。でも……甘さが強いし、ふんわりもしすぎてる」

「ダメなの?」

「ダメってことはないけど、そうだな。次は砂糖をちょっと減らして、バターも混ぜすぎないようにしてみよう」


 ひょっとすると味自体は、このレシピ通りの方がおいしいのかもしれない。けれど、僕が今作りたいのは、昔家族三人で食べたあの味だ。

 作り直しが決まったので、もう一つの型の方は冷蔵庫に入れておくことにした。……後で天使にでもやればいい。

 今度は手順そのものの大筋は変えず、細かいところにだけ少し手を加える。

 三度目ともなると僕たちの息も合い、作業時間のほとんどは焼き上がりを待つだけだ。


「楽しいなあ。……でもハルさんはお母さんに謝るためにやってるんだから、こんなことを思うのは不純だよね」


 そんな時、天使はふと物憂げにそんなことを呟いた。

 天使はよく笑う。だけど、こういう顔が、一番本心な気がする。


「純粋さがどうとか、今くらいは気にしなくたっていいじゃないか。僕だって楽しいよ」

「そう、なの? だけどわたし、あんまり役に立ってないよ。ハルさんのお母さんの味も知らないし……わたし、別にいなくてもよかったんじゃ」

「いいんだよ。僕が、きみと作りたかったんだ」


 ケーキを作るってアイデア自体、天使が与えてくれたものだ。だからいっしょにそれをするくらい、誰にも咎めさせはしない。

 ピロリロリー、と無駄に陽気な電子音が鳴り響く。オーブンレンジの音だ。働き者が仕事を終えてくれたらしい。


「さ、今度こそうまくいったかな。今は……三時前か。まだ余裕はあるけど、こりゃ結局明日も学校で寝ちゃいそうだな」


 本末転倒かもしれない。でもどうせ、学校生活なんて長いんだ。天使がいる間だけ、昼間は不真面目でも許してくれないだろうか。


「天使、皿を脇にどけといてくれるか。トレイそっち持ってく」

「……うんっ」


 さっきと同じように、ひとつを型から外す。見た目は変わっていないが——

 切り分け、まだ温かなそれを口に運ぶ。


「んっ、さっきとちょっと違うけど、これもおいしい」

「——これだ」

「ほんと!?」


 頷きを返す。出来立てだから舌触りに差はあるが、味はおおむね記憶の中のものと一致する。

 これなら、完成でいいだろう。ここが限界という気さえする。


「よし。もう一つの型の方を冷やして、その間に後片付けだ」

「あ、わたしも洗い物してみたい」


 ちゃんと食器や器具を洗って、キッチンも綺麗な状態に戻すまでが料理なのだと、昔から母さんはよく話していた。

 二人で取り組んだおかげで十五分もかからず、後はメモに今朝のことを謝る一文を添えて、朝方に仕事を終えて帰ってくる母さんに向けて置いておけばいい。

 やり終えてみると、思い出したかのように眠気が来た。三時ちょうど。とうに日は沈みきり、あと一時間もすれば再び昇る。その時、天使も石像になって彼女なりの仕事に戻るだろう。


「片付け忘れもないな……じゃあ、今日はもう寝るか。ありがとうな、てん——」


 玄関から鍵を開ける音が響いたのは、その時だった。

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