第4話 弾む夜
「でもそれ、寝不足なのってわたしのせいだよね? ごめん、ハルさん。わたしに構うせいでお母さんと喧嘩しちゃって……寝てるのは友達いないからだと思ってたけど、本当に寝てたんだね。ほんとごめん」
知らぬところでぼっち特有の寝たふりを疑われていた。
ああいうのは、後ろめたい孤独がさせることだ。僕の中にあるのは肯定的な孤独。誰に恥じるつもりもない。
「いいよ。僕の自己管理がなってなかっただけだ。母さんに言い返したのも、頭が冷えた今なら間違いだってわかる」
母さんは悪くない。
機能不全家族——そんなことを考え、その思いを口にまで出してしまった。
なんてばかなことを。確かに、この家は静かで、家族で話す機会も乏しい。
けれど口にするべきではなかった。なぜって、母さんはよくやっている。父さんがいなくなった時点で、もうこの家の在りようが変わることは避けられなかった。
僕がこうして自分の部屋を持ち、無事に学校へ通えるのが誰のおかげなのか。わかっていればあんな言葉は口をつかなかったに違いない。
「僕は、とんだ親不孝者だ」
「ハルさん……」
「ああもう本当になにやってんだ……! くそ、しかも時間を置いた分謝りづらいし……なにもしないとまた昼夜のすれ違いでタイミングを逃す……! あー、もう! ああああーっ!」
「わ。おかしくなっちゃった」
自己嫌悪で叫びたくなり、床でじたばたする。
分担とはいえ家事もこなし、毎晩仕事に向かい、女手ひとつで僕を育ててくれている母さん。多大な感謝こそすれ、責めることなど許されるはずがない。
だったら——
母さんは悪くない。
だったら。悪いのは、誰だ?
「……」
「あ、落ち着いた」
悪いのは。家族が、氷のようになる原因を作ったのは。
母さんが身を粉にして働かなきゃならないようになる、引き金を引いたのは。僕たちを、そのままの僕たちでいられなくしたのは。
わかっている。誰もが悪く言う。責任も非も咎も、なにもかも彼にある。
それでも。顔さえおぼろげになってしまったけれど、頭をなでてくれたあの大きな手の感触を覚えている。
父さんのことをどうしても僕は、僕だけは、非難したくない。
「天使はさ」
「なに? どうしたの、いきなり」
「親はいるのか」
「さあ。天使は天使。わたしに求められるのはメッセンジャーとしての役割だけ。それ以外のことは、なにも知らない」
「……純粋さを損なうからか?」
「うん」
無知が美徳だとでも?
天使は僕なんかよりもずっと恵まれない境遇なのではないか。なにせ、僕は片方残ったが、天使は両方いないらしい。
天使のいるところは、どんな場所なのだろう。雲の向こうにあるのは天国ではなく無窮なる宇宙空間なのだから、どうやって行けばいいのかも僕にはさっぱりだ。
「ねえ。ハルさん、お母さんと仲直りすべきじゃない?」
「それは、そうだ。でも簡単じゃないよ」
「なんで」
「……天使なら、誰かに言いふらすこともないだろうから、正直に言うんだけど」
「そりゃあ話す相手、ハルさん以外にいないからね」
「怖いんだ。母さんと、腹を割って話すのが」
「怖い? どうして」
箱の中身は、開けてみないとわからない。蓋を開けなければ、中身を見なくても済む。
そういう話。
「僕は母さんの子どもだけど、母さんだけの子どもじゃない。父さんの子どもでもある。……きっと知らないだけで、天使もそうなんだよ。生まれた以上母と父がいる。僕らはそういうもののはずだろ」
「まあ、アブラムシとかでなければ」
「……ミョーなことばかり知ってるよな、きみは」
天使の生体なんて知らないが、ヒト型なのだし、まさか単為生殖ではないと思う。
「母さんが僕を育てているのは、愛ゆえなのか? 本当はそんなものはとっくに枯渇していて、ただの義務として僕を大人になるまで助けてくれてるんじゃないか。そんな風に、どうしても思ってしまう」
決して人には言えない疑念だ。だけど、この疑念はいつの間にか胸に生まれて、日に日に無視できないものになっていく。父さんが周囲に罵られ、そして母さんがふとした言葉の節々に恨みをにじませるたびに。
なにせ。この心臓には、父と同じ血が流れている。
血を分けている。それだけで、母さんが僕を厭う理由には足りるのではないだろうか?
「こんなことは訊けるはずもない。でも言葉がないと、不安に感じてしまうんだ。母さんは僕を愛してなんかいないんじゃないかって」
「直接訊けば——っていうのは、無理なんだよね。わたしもちょっとずつ、わかってきたよ」
「そうだ。友達になろうって面と向かって言えないのと同じだ。いや、それより危ない。危険な行為だ」
疑うというのは、ただそれだけで関係に対する裏切りとなる。
愛しているか? などと相手に対して訊くのは、愛情の存在を否定しているのと同じことだ。心の中で訝しむだけならば誰になにも言われまいが、それを口に出してしまえば、関係に亀裂が入る。感情が揺らされる。もとのままの形ではいられなくなるかもしれない。
「そっか。なら、でも、安心していいよ。お母さんはハルさんを愛してる」
「……なんで、きみにわかるのさ」
「天使は愛が視えるもの。わたしは、ハルさんと同じようにハルさんのお母さんが愛情を持って接してること、わかってるよ。心配しないで」
「愛が……視える」
「うん。信じてくれる?」
「そうだなぁ。うーん……天使なんて、もともと僕からすればデタラメなんだ。このさい信じるよ」
もう五日も経って、すっかり受け入れた光景ではあるが。こんなに綺麗で、おまけに翼まで生えた女の子と同じ部屋にいるのは、改めて意識すると落ち着かなくなりそうだ。
それにここ何日かで印象も変わった。柔らかくなったと言うべきか。初めてあった頃に比べると、会話もスムーズになった気がする。
「とは言っても、母さんには謝らないとなあ。はあ、どうしよう。気が重いや。それにタイミングもなぁ、生活リズムが違いすぎて」
「ハルさんは言葉がないとっていうけれど、わたし思うの。言葉以外にも、気持ちを伝える手段はあるよ」
「天使はなにか考えがあるのか?」
「プレゼントとか、どう? お詫びの品として菓子折りを渡すのがデキる社会人のマナーだって聞いたよ!」
「きみ、本当によくわからないことばっか詳しいな……」
しかし——菓子折り。菓子。お菓子か。
遠い、遠い記憶の底で、引っかかるものがあった。
「……よし。やってみるか」
「お。なんか思いついたの?」
「ああ。夜が明けるまでまだ七時間くらいはある。天使、手伝ってくれるか?」
開けっぱなしの押し入れの縁に座って足をぶらぶらさせていた、青い目の少女に問う。
彼女は僕の顔を見ると、当然だとばかりに頷いた。石になっている時よりも、ずっと魅力的な笑顔で。
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