第3話 軋む昼

 天使が来てから五日が経った。

 なにも特別なことはない。天使は日中ずっと押し入れの中で石になって微笑み、夜にだけ目を覚ます。最初こそ押し入れにぶーぶーと文句を垂れていたが、最近では慣れると狭くて案外落ち着くと好評だった。

 母さんが休みの日は、動き回らないよう天使に念入りに釘を刺した。だから母さんと天使が鉢合わせることもない。

 ただ、夜に少しだけ騒がしい話し相手ができただけで、その騒がしさが無性に嬉しかった。


 その分、寝不足になってしまったけれど。学校ではどうせひとりだから、ずっと机で寝ていたって困らない。

 夜な夜な天使と話をした。天使は、色んなことを聞いてきた。

 石像として遠くで眺めるだけではわからない、局所的で実際的なことだ。それは国語の教科書に書かれた言葉の話であったり、どうしてトイレットペーパーには一枚のものと二枚重ねのものがあるのかという疑問であったり、電子レンジの使い方だったりした。


 天使は、僕と出会ったあの夜以外に、外を歩き回ったことはないようだった。

 しかし外界への憧憬はありありと見て取れた。天界の生活がどんなものだか知らないが、僕らの街に興味を抱いているのは一目瞭然だった。

 だから何度か、僕は訊いてみる。


「どこか、行ってみるか?」


 それは言うほど不可能なことでもないはずだった。

 もちろん、ありのままの姿を晒せば大問題だ。よくできたコスプレで済めばいいが、そうならなければ翌日の新聞の見出しは『天使発見!』で決まりだろう。

 だから隠す。穢れを知らぬ、白い翼を。

 できなくはない。翼さえなければこの天使もただの可憐な少女だ。シルエットに多少ならざる不自然さは残るだろうが、ゆったりした上着でも着ればまさかその下に翼が生えているとは思われない見た目にできる。どうせ日も落ちた夜の間なのだし。

 ……そのくらい、僕だって協力するのはやぶさかではない。だが天使は、僕が提案を口にするたびにゆっくりと首を横に振った。そして一様に言うのだ。


「純粋さを損なうから」


 その困ったような微笑みが、諦めたような表情が、石のようで嫌だった。

 純粋さとはなんだろう?

 固執するべきものなのか。僕にはわからない。

 たとえば僕が、好きになれない自分の本名を未だに天使に告げていないのと同じで、周囲にとっては些細でも当人にとっては意味のあるものなのかもしれない。

 それでも、天使の諦念に近づきたいと思った。気づけば一日中そのことを考えた。授業中もまるで手が付かず、答えのない疑問は眠気をすぐに連れてくるタチの悪い友人だった。


 その報いはすぐに訪れる。

 ある日、まだ日の上りきらない早朝に母さんに起こされた時、僕はなにがあったのかまったく理解が追いついていなかった。

 泥のような眠気が、まだ夢に留まれと意識を誘う。しかしそれを許さない、夜勤明けの怒りっぽい声が僕を無理やりに現実へと引き上げた。


「早く起きなさい! 昨日の夕方、学校から電話があったわよ!」

「え……?」


 ぼんやりと目を開く。窓の外は白々とした薄明るさで、仕事から帰ってきた母さんはそのまますぐ僕の部屋にやってきたようだった。

 僕の方はと言えば、昨日も夜中まで天使のやつと話していた。

 まだ学校の時間よりもずっと早く、寝不足の頭では母さんの言葉を一息に理解できない。そんな僕のぼんやりした様子を見て、母さんはさらに語気を強める。


「ハルくん——あんた、最近学校で寝てばかりのようね!? 先生が仰ってたわ、朝から寝っぱなしだって! 授業くらいはちゃんと受けなさい!」


 母さんは半ばヒステリーを起こしていた。手のひらで壁を叩き、顔を紅潮させてまくし立てる。

 いつからだろう。常に穏やかだった母の気性が荒くなってしまったのは。

 明確な記憶はないが、きっとそれも父がいなくなってからだったのだろう。


「学校って」

「とぼけても無駄よ。先生に心配かけて、一日中寝てるなんてなんのために学校に行ってるつもり!? クラスメイトにも迷惑でしょ!」

「待ってよ。確かに最近ちょっと不真面目だったかもしれないけど、でも成績には——」

「言い訳しない! 別にテストでいい点取れなんて言わないから、授業くらい普通に受けなさい!!」

「——っ、なにを……」


 僕が認識しているよりも、僕の授業態度は問題視されていたのかもしれない。それさえ気が付かなかった。どうせクラスに馴染めていないのだから、向こうも放っておいてくれればいいのに。

 母さんもだ。いつも顔さえ合わせる機会も少ないのに、放っておかれているも同然なのに、こんな時だけ怒り散らしにくるなんて。


「なにを……いまさら! まともぶったことを言うんだよ!」


——とっくに機能不全家族のくせに!

 クラスメイトのことまで持ちだして。普通じゃない家庭で育てられているのに、周囲と同じであることを強要されるなんておかしい。おかしいはずだ!


「くっ」

「あ……ハルくん! 待ちなさい!」


 母さんを押しのけ、僕は逃げるように部屋を出た。



 そして夜が来た。

 こんな一言で済ませるには、朝の一件からあまりに長い十数時間の隔たりがあり、その猶予は頭を冷やすには充分すぎた。


「で、それでどうしたわけ?」

「家にもいづらくて、母さんが仕事に行く夕方まで外に出てた」

「学校?」

「いや……寝巻にしてた部屋着のまんまだったから、公園とか行って半日潰した……」

「うわー、無為。とてつもなく無為な一日だよそれ」


 その通りなだけに、反駁の気も起きない。

 僕は日が暮れると同時におめおめと家に帰ってきて、夜になった途端こうして天使に相談することしかできない。

 家の鍵は開いていた。先日の、僕が鍵を忘れた一件もあってか、気を遣って閉めずに仕事へ向かってくれたらしい。

 あんな行き違いの後だというのに、そんな優しさを施されたことが、また無性に感情を刺激した。

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