第6話 無辜の鎹
「——っ? まず……母さんが帰ってきた!」
「うそっ、もう!? 早くない!?」
「早い、早いけど……理由はわからない、母さんじゃなけりゃ泥棒だよ! 天使、ちょっと先に部屋戻っててくれ!」
「わわっ、ハルさん押さないで……って、このまま廊下に出たって鉢合わせるんじゃないの?」
「た、確かに……! ヤバい、気が動転してきた!」
玄関からリビングに続く廊下の途中に、自室のある二階に続く階段がある。無策で天使を階段に向かわせれば、母さんと遭遇するのは間違いない。
家に天使を連れ込んだと知られればどうなってしまうんだろう。
……本当にどうなるんだ!? 僕ではなく、これ以上身内から犯罪者が出れば母さんの方がいよいよショックでどうにかなってしまうかもしれない。
「僕が足止めをする。うまいことタイミングを見て、隠れながら二階へ向かってくれ」
「うわ今日イチの無茶ぶりが来た……! ハルさんわかってる? わたしただの天使で、スネークでもジェームズ・ボンドでもないんだよ?」
「本当その知識の偏りマジでどうなってんの?」
とにかくやるしかなかった。
まず僕がリビングを出て玄関へ向かう。そこにいたのは紛れもない母親であり、とりあえず深夜に入ってきた物取りではないようだった。
母さんはちょうどドアを開けて中へ入り、靴を脱いでいる途中。僕は出来るだけ自然な表情を装いつつ近づき、リビングの方の視線を遮れる位置に立つ。
「おかえり母さん、今日はずいぶん早いね」
「ハルくん? あなたなんて時間まで起きてるのよ。……ハルくんがまだ家に戻ってなかったらどうしようと思って、早めに上がらせてもらったの。でも杞憂みたいね」
そういうことだったのか。今朝つい母さんに言い返して家を出て、わざと入れ違うようにして家に帰ったために、母さんに心配をかけていたらしい。詰まるところ、想定の狂いは僕のせいだった。
「実はちょっと、母さんに見せたいものがあって……」
後ろ手に、指先で合図を送る。
サインを決める時間などあろうはずもなく、咄嗟にそれが合図だとわかりやすいような形を模索した結果、ハワイの人がよくやってる親指と小指を立てた謎のハンドサインを作った。意味は知らない。
今なら、僕の体で母さんにリビングの方は見えないはず。リビングのドアはわざと開けっ放しにしているから、こそっと天使が階段まで移動すれば、ギリギリばれない。
おそらく。たぶん。
……いや普通に無理か? ドアを出て廊下を少し進まなきゃいけないし、天使自体は小柄だが翼もある。
「見せたいもの? こんな時間になによ。お母さん、もうお仕事で疲れてるんだから、あんまりそういうのは」
「疲れはむしろ取れると思う。その、食欲があればだけど」
「食欲……? そういえば、なんだか甘い匂いがするわね。なにか買ってきたの?」
「あっ」
匂いにつられ、母さんがリビングの方を見ようと体を傾ける。
まずい。このままでは廊下に出ようとしているであろう天使を視認してしまう。
——そうはさせるか!
「せいやァッ!」
「ハルくんッ!?」
咄嗟に両腕を伸ばし、母さんの目を覆う。もうほとんど両眼球に
「えッなんで!? ハルくんどうして!?」
「えーっと、サプライズ。そう、サプライズだよ。このまま目隠しした状態でリビングに向かってもらおうかと。見せたいものがあるって言ったでしょ?」
「この状況が既にサプライズなんだけど!?」
苦しい説明をしつつ、母さんの目を手で覆ったまま背後を振り返る。とんでもないものを見た、と驚愕を浮かべる天使がこちらを凝視していた。
今のうちに行かせるしかない! 声を出すわけにもいかないので、天使に向かって口だけを動かして意思を伝える。
い! け!
「……っ」
決死の口パクは不足なく伝わってくれたようで、天使は真剣な表情で小さく頷いた。そしてゆっくり、足音を立てないよう廊下を進み出す。
階段にたどり着くには、廊下の途中で折れなければならない。僕は母さんを誘導して背を向けながらリビングへ向かい、そして天使は階段へ向かってリビングからスローで進行する。
「足元、
「うーん息子に介護されてる気分だわ」
自然に壁際へ寄り、なるべく右側を空ける。背後で、翼を持つ少女が空いた側へ体を寄せる気配がした。
「……? 今、変な音がしなかった?」
訂正。気配というか、音だ。天使は僕と違って翼がある。それが壁に擦れたのだろう。
「気のせいじゃないかな、僕は聞こえなかったよ。っと、無理に動こうとしないで。ゆっくりゆっくり」
「——!」
「あらそう? ま、感覚的にそろそろリビングでしょ。なんのつもりか知らないけれど、なにを見せてくれるのかちょっとずつ楽しみになってきたわ」
ゆっくりと言ったのは、母さんに対してと見せかけ、天使に向けてだ。
翼が邪魔になるなら、無理に動かなくてもいい。階段はすぐそこだ。焦らずとも、もうすぐ僕と母さんは天使のいる地点を横切る。
天使は僕の意図を汲み、なるべく壁にぴったりと体をつけた状態で静止する。息遣いさえ殺して僕たちの通過を待つ。
「あれ……この匂い……もしかして、ハルくん」
すれ違うまであと二歩。
「覚えてる? 今日ちょっと、昔のことを思い出してさ」
あと一歩。
「昔、か。言われてみればそうね、お母さん、そういえばお菓子作りなんて長らくやってない。料理もハルくんに任せることが多くなって」
……ゼロ。
呼吸を止めていなければ吐息が届いてしまうほどの距離。視線だけを交わし、天使のすぐ目前を通過する。
僕は無事、母さんをリビングへ誘導し——天使もまた、僕たちが通過し終えるとすぐ、しかし音は立てないよう慎重に階段へ足を掛けていった。
*
「ああ、懐かしい味。それにしても驚いたわ、よく作り方覚えてたわねハルくんてば」
ケーキを半分ほど食べ終えたところで、フォークを置いて母さんはそう言った。
できればもうしばらく置いて熱を取りきりたかったが、母さんはおいしいと顔をほころばせてくれた。予定とは大きく異なる過程を踏んだが、天使と二人で作ったケーキは母さんに食べてもらうことができたのだ。
「ネットで調べたところがほとんどだよ。最初は記憶だけで作ろうとしたけど、流石に無理だった」
「それでもすごいわ、普段やらないことだもの。ハルは昔から器用よね、母さんと違って」
母さんと、違う。
何気ないつぶやきは、血が違うという意味で言ったのかとも邪推しかけるも、母さんは再びケーキを口に運び、嚥下してから穏やかな口調で続けた。
「本当に懐かしい。こうしてると、あの人がいた時の家を思い出すわ。思えばにぎやかだったわね、あの人がいた頃は。今では静まり返ってしまったけど」
「母さんは……母さんはさ。嫌いなんだよね、父さんのこと」
「そうね。あの人がやったのは許されることじゃないもの」
「それは……うん」
「人を殺して。それに——ハルくんを片親にした」
あくまで子を案じる表情で、母は言う。
ああ、そうか。母さんが父さんを恨む理由の一番は。
「でも、さ。僕は、父さんのことどうしても嫌いになれないんだ。ひどいことをしたのは本当で、父さんがいなくなってから母さんが大変になって……だから薄情なのかもしれないけど、だけど」
「ハルくんはなついてたものね、あの人に。あの人もハルくんの前では良き父親であろうとしてた。結果として道を誤ってしまったとしても、あの人がハルくんを愛してたのは本当よ」
「そうなのかな。父さんは僕のこと、そう思ってくれてたのかな」
「もちろんよ。そこだけは、お母さんたちの想いは常にいっしょだった」
「う……」
思わず目の奥がじんと熱くなる。
子は
この言葉を知った時、自分は鎹になれなかったのだと感じ、そのことを罪だと思った。
そうかもしれない。でも、僕は愛されて生きてきた。
愛されてないだなんて間違いだ。かつて僕は父さんに愛されて、今も母さんに愛されている。それ以上なにを望むというのだろう。
「あ、そうだ。確か、あの辺りに」
「……?」
またしてもフォークを置き、母さんは席を立つ。それから棚の方に向かい、その一番上の段からなにかファイルのようなものを取り出して戻ってきた。
机の上に置かれた黒色のそれを、母さんは割れ物を扱うような手つきでそっと開いた。中には写真がいくつも収められていた。
僕の写真だ。今では覚えていないくらい幼い、二足で立つことのできない頃や、幼稚園に入った頃。そんな僕といっしょに、時折笑顔の母さんや父さんも映り込んでいる。
「アルバムなんて、あったんだ」
「あの人が去ってからは使わなくなったけどね。三人で撮った写真もあるのよ。ほら、これとか」
母さんが開いたページは、アルバムの半ば辺りだった。その右下に収められた写真を指差す。
「これは——」
夜の風景。薄暗い中でフラッシュを焚いて、真ん中に小学校低学年くらいの幼い僕、その両隣に笑顔の両親がアップで映っている。
目つきの悪く不器用そうな笑顔。ああ、父さんの顔は、こんなだったっけ。
「思い出すわねえ。まだ小さかったからハルくんは覚えてないと思うけれど、遊園地に行った日の帰りなのよ。たまたま守護天使像を見つけて、ハルくんを守ってくれますように、って記念撮影したの」
「守護天使像? あ……」
言われて気付く。写真の中、僕と父さんの間に、薄闇の中でぼんやりと白い石像が浮かんでいた。
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