私のヒーロー

直木美久

第1話

 ちーちゃんは、僕が苦手だ。

 わかっている。一歳までは一緒に暮らしていたけれど、ちょうどとことこ歩けるようになって、さぁこれから一緒にたくさん外で遊んでやるぞという時期に、僕はフィリピンに転勤になった。

 治安がいいとも言えないので、僕はすぐに単身で行くことを決めた。

 そんなに遠いわけじゃないから、ちょくちょく帰ってくるよと言っていたのに、コロナの影響で殆ど一時帰国なんてできず、ほぼ三年ぶりに我が家に帰ってきたのだ。それが一か月前。

 ビデオ通話はしていたけれど、実物を目の前にするとまた違うんだろう。

 ちーちゃんは僕がリビングにいれば和室に移動してしまうし、和室に行って話しかければうつむいたままいくつか小さく返事をして、ぱっと台所の妻のところに行ってしまう。

「俺、怖がられてんなぁ」

「まだ照れくさいだけよ。あなたがいない時は、結構『パパ、今お仕事?』『早く帰ってこないかな』とか言うのよ」

 正直、妻が僕に気を遣って嘘を付いているのではないかと思っている。

 すぐに逃げられるから、ぐっすり眠っているちーちゃんの顔だけはじっと見られる。ビデオ電話では見ることのできなかった顔に、僕はちょっと感動する。

「まだまだ先は長いんだから、これから、これから」

 妻はそう、ちーちゃんの向こうで布団をかぶった。

 かわいい姿を見逃してしまったと思う一方、一緒にいた一歳までの期間、こんな風にじっくりそばにいて、顔を見て、慈しんだかと言われれば、そういう訳ではないと思う。仕事が忙しく、夜、ちーちゃんが泣くから、僕は和室で一人寝ていたし、土日も疲れてどこに出かけるということもなかった。

 仕方ないだろうと思いながら、同時に罰が当たった気もする。

 ちーちゃんのぷくぷくしたほっぺたを指で押す。弾力があって、肌も柔らかく、自分とは全く違う生き物だと思う。

 僕は布団にくるまり、今度の土曜日はどこかちーちゃんの好きなところへ連れて行ってやろうと思う。


 土曜日、僕は家族を連れて近くにある大きな公園にやってきた。見渡す限り広い芝生のエリアがあり、その周りをぐるりと遊歩道が囲んでいる。

 散歩をする老夫婦、キャッチボールをする親子、自転車で遊んでいる子供たち。

 誰もが楽しそうにしている。

 日本に帰ってきてから三日間のホテル待機、その後七日の自宅待機で最初の十日は潰れ、その間を取り返すように仕事で忙殺されていたからこんな風に週末のんびり出かけるのは、帰国以来初めてのことだった。

 ちーちゃんは入り口を入ると妻の手を引き、走り出す。僕はベンチに陣取り、二人が走り回るのを見ていた。彼女が疲れたら、僕がちーちゃんと走り回ろうとタイミングを見計らう。

 十分ちょっとで、妻が息荒く、体をくの字に曲げる。

 僕は立ち上がり、二人のところに行こうとすると、突然自転車が僕の視界に飛び込んだ。僕はびっくりして後ろに倒れ、ベンチの角に腰をぶつけた。

 小学生三人がこちらを見下ろしている。遊歩道から芝生のエリアにそのまま突っ込んできたらしい。小さいから余計見えなかった。

「あぶねーよ」

 僕にぶつかりそうになった男の子が荒っぽく言った。

 なんだこのちび暴走族は。僕は腰をさすりながら、立ち上がろうとしたが、痛みでなかなかうまくいかない。

 そこに

「パパは悪くない!」

 ちーちゃんが叫んでいる。真ん丸な頬を真っ赤にさせて。ちょっと細長い目を吊り上げるようにして。

 びっくりしてみている僕のところへかけてきて、僕と少年の間に入り、僕はちーちゃんの小さな背中、ピンクのロンTしか見えなくなる。

「パパは、悪くない!!」

 ちーちゃんの声がもう一度響き、多分戸惑っているのだろう、子供たちの声が聞こえる。

「もう、行こう」

「悪いことしたらね、ごめんなさいって、いうんだよ!」

 僕は涙ぐみながら、いいんだと小さく言ったが、同時に男の子たちの声がした。

「ごめんなさい」

 僕は起き上がり、ベンチにそのまま腰を掛ける。

「気を付けてね」

「はーい」

 子供たちは芝生に自転車で入っていった。


 結局僕は今日もまた、ちーちゃんと遊んでやることもできずに、家に帰ってきた。

 妻とちーちゃんはお医者さんごっこをしながら僕の背中に湿布を貼ってくれる。

 それからちーちゃんはぱたぱたとどこかへ行ってしまった。

「大丈夫?」

「うん、大したことないよ。ちょっと打っただけ」

 ゆっくり起き上がり、胡坐を組んで、僕は心配そうな妻の顔を見つめた。

「それよりもびっくりしたよ。ちーちゃん、うちだといつも大人しいから」

「すごかったね」

 と妻も笑う。

「嬉しくてちょっと泣けた」

「私はハラハラしちゃった。女の子だからさ」

「そうだね。結構男勝りなところがあるんだね」

 そこにちーちゃんがやってくる。

 後ろ手に何か隠している。

「どうしたの?」

「これ、パパに」

「え?何?お手紙?」

 青い、少し大きめの封筒は分厚い紙が入っているらしく、少し重みがあった。

「うん、ママと作ったの。開けて、開けて」

「なにかなー」

 開いてみると、中から出てきたのは水色の表紙。「ぱぱへ」の文字。二つに折られたその手紙を開くと、中からスーパーマンのイラストが飛び出してきた。ちーちゃんが色を塗ったのだろう。髪の黒がはみ出し、顔の半分は黒かった。服もパンツも全部赤で、胸のマークは星のつもりだったのだろう。うにのようにとがっている。

「PAPA You are my HERO」

 ああ、そうか。父の日だ。

 僕はまた涙を目にためながら、両手を広げる。ちーちゃんがはにかみながら近づいてきた。

 抱きしめると、ラムネの甘い香りがする、僕のヒーロー。

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