第105話 『躍る大王たち』

「イドラさん、その……さっきは、ごめんなさい」


 気持ちを切り替えられないイドラに、ソニアは泣き腫らした目で近づいてきて、律儀に頭を下げる。

 さっき、というのがどれを指すのかイドラにはわからなかった。

 クイーンの環首刀に斬られた腕を『補整』したことだろうか。それとも、トウヤにコンペンセイターを使おうとするのを、強引に引き留めてくれたことだろうか。

 わからなかったが、どちらにせよ謝らずともいい。イドラは「構わない」とだけ言ってソニアの頬に手を伸ばし、戦闘の激しい動きで張り付いたであろう一本の髪を払ってやる。


「それより、体は平気か?」

「はい、だいじょ……あっ」


 言ったそばから、ソニアの体がふらつく。倒れる前に、イドラは肩をつかんで支えた。


「やっぱり。すまん、無理させてるな……」

「そんなっ、イドラさんが謝ることじゃないです。わたしが——わたしが、力不足なだけで」


 イドラの胸に頭をあずけるような格好で、ソニアは言う。その体勢のせいで表情は窺えなかったが、声には悲痛な悔しさがありありとにじんでいた。

 イドラは内心、やってしまったと思う。謝ったことで、ソニアはかえって萎縮してしまったように見える。

 この胸の中の少女を安心させるためには、なんと言葉をかけるべきか。だがイドラの方も、肉体と精神に苛烈なほどの疲労が溜まり、うまく頭が働いてくれない。

 考えているうちに、先にソニアが平衡感覚を取り戻した。イドラの胸から、すっと頭を離す。

 疲れや悲しみ、後悔といったない交ぜの感情の上から、無理やりいつもの顔を被せる。そんな表情だった。


「ありがとうございます、ちょっとだけ、楽になりました」


 嘘だとわかっていても、イドラはうなずくしかない。


「帰ったら、しばらく休ませてもらおう。休暇の申請方法なんて知らないけど」

「あはは……ですね。また誰かに訊いて————え?」


 ソニアは唐突に、信じられない、と目を見開く。


「ソニア?」


 一体どうしたというのだろう? もう、周囲のアンゴルモアは一掃したはず——

 疑問が湧くと、それと同じだけ、イドラの胸に暗雲めいた嫌な予感が満ちていく。

 ソニアが驚愕とともに見つめているのは、イドラではなく、その肩越しに見えるものだった。イドラは振り返り、橙色の瞳の先にあるものを追う。

 じわりじわりと、夕焼けの赤に浸食される空。

 まるで終末の使者に地上を奪われた、今の人類を表すような空模様。

 そこに。黒い門が、突如として浮かんでいた。


『——ポータルの発生を確認!!』


 瞬間、コミュニケーターから、ウラシマの切迫した声が飛ぶ。


「なん……だとッ?」


 死人へ別れを告げていたセリカも、それが終わるのを静かに待っていたカナヒトも——

 チーム『鳴箭めいせん』、『寒厳かんがん』、『巻雲まきぐも』、すべてのチームの生存者が、弾かれたように頭上を見上げる。

 ソニアも含め、コミュニケーターの通信を受けるより先に空を見ていた者たちが、早々にその天の窓ポータルの存在を周囲に伝え喚起しなかったのは、現実を受け入れがたかったからかもしれない。

 その存在を、認めたくなかったからかもしれない。

 だが確かに空中には、天の門ポータルが——当然先のクイーンが武器を出現させるのに用いたような極小のものではなく、アンゴルモア自体を地上へ送り出すための、黒々とした巨大なあなが浮かんでいる。


『数、種類ともに不明! 総員、警戒を——』


 そこから、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つと、次々に真っ黒い影が落下する。

 止まない。止まらない。影はいくつもいくつも止むことなく、この窪地のすぐ周囲へと落ちてくる。

 そして、そのどれもが——精巧な彫刻を思わせる、黒い女性の人型。


「……くそったれが。ふざけやがって……ふざけやがって!」


 カナヒトの手から、黒いコンパウンドボウが滑り落ちる。

 その横顔には、怒りが満ちていた。

 現実への怒り。どこまでも理不尽な、世界すべてへの。

 カナヒトが怒りとともに悪態をつき、周囲の王冠狩りたちが嘆き、呆然と立ち尽くし、諦めたように膝を折り、涸れたかに思われた涙を流し、目に映るものを否定するようにうずくまり、混乱から叫び出し、乾いた笑いを漏らし、恐怖に顔を引きつらせる間にも、アンゴルモアは次々と天の門ポータルから送られ続ける。

 長いぬばたまの髪を翻し——空中へ。

 恐怖の大王アンゴルモアたちが身を躍らせる。

 そのどれもがクイーンで、手には既に、刀剣の類を始めとする、戦斧や槍といった武具がにぎられていた。


「イドラ、さん——」

「ソニア……っ」


 互いに名を呼び合うことしかできない。

 続々と、クイーンたちは着地を果たし——

 総勢二十八体もの個体が、窪地の周囲に投下される。

 どんな悪夢よりも悲惨な現実が、人類の目前に身を横たえていた。


「リ、リーダー……これ、もう」

「……諦めるな。奮闘することこそ、俺たちの責務だ」


 動揺するセリカにカナヒトは返答するも、自身もまた、そこには死を覚悟するような凄絶な雰囲気を漂わせている。

 数だけなら、さっきの群れより小規模だ。そう笑い飛ばすことができれば、どれだけ楽になれるだろうか。

 武装したクイーンは、個の力が低いという欠点を完全に克服していた。

 いくらソニアの力が落ちているとはいっても、不死の残滓が完全に抜けきったわけではない。その身体能力は、そこいらの一般人と比べればまだ上だ。

 そんなソニアが一瞬で腕を落とされ、カナヒトも単独では守勢に回るのがやっと。

 三人で協力し、ぎりぎりのところでようやく倒せた相手。

 それが——二十八。

 たった四つのチームで、それも二割ほどの人員を欠いた状態で、二十八体!


(やるしかない、が——)


 イドラとて、諦めることはしない。いみじくもカナヒトが言った通り、生き残ったイドラたちは諦めてはならない。

 しかし、生き残るすべはまるで頭に浮かばなかった。ソニアひとりを生かす方法すら。この死の具現のような軍勢からは、蟻の一匹だって逃げ切れまい。

 ウラシマとスドウの話では、アンゴルモアとは、星の意志によって遣わされているそうだった。

 ならば今、天の門ポータルを開き、この悪夢を体現させたのも、星の意志とやらの意向なのだろうか?

 イドラの中に、あのコピーギフト抽出室で抱いた問いが再びよぎる。

——星の摂理に逆らうのと、神に仇なすのにどれほどの違いがあるというのか?

 この悪夢を切り裂くには、あまりに強大な力が必要だった。

 それこそ、神をも殺しうるような——


「来る……!」


 開戦の合図とばかりに、戦斧を手にしたクイーンの一体が窪地の中へと突進する。

 迎え撃つカナヒトの刀を跳躍して軽々と避け、空中で身をよじり、ソニアのすぐそばに着地。


「——っ!?」


 軽業のような身のこなしに驚く間もなく、横薙ぎに振るわれる戦斧がソニアを襲った。


「ソニアッ!」

「うっ——、きゃあっ!?」


 咄嗟にワダツミで受けるソニアだったが、もはやその力は拮抗さえしなかった。

 ソニアの体は簡単に吹き飛ばされ、地面に背中を強打する。


「無事か!」

「は、はい。……でも、これは……こんなの、どうやっても——」


 イドラは倒れたソニアに駆け寄り、首と背を支えて起こそうとする。

 その時ソニアと目が合い、少女の心が今まさにくじけかけていると気が付いた。


「ソニア……」


 橙色の瞳に浮かぶ、明確な恐れ。

 今の一合で、勝てない、と悟ってしまったのだ。

 あのクイーンの力は、完全にソニアを凌駕している。そして、そんな相手があと二十七体いる。他のチームもあるとはいえ、どう分担しても、あと五体は同時に相手をしなければならない。

 これ以上ない死地。それが明々白々だからこそ、イドラは安易に、折れかけたソニアの心を励ますことができない。

 そして前方で、ゆっくり、ゆっくりと、クイーンたちが歩みを進めてくる。

 死が。終末の使者が、終わりを告げにやってくる。


『——周囲に反応を確認』


 そこへ、駄目押しとばかりに、ウラシマが通信越しに硬い声で言う。

 まだアンゴルモアが増えるのか、と戦場にさらなる緊張が満ちる。今やハウンドの一匹とて、彼らには対処の余地などない。


『十一時の方角に——生体反応が、二つ?』


 しかしウラシマの声は、どこか困惑を孕んでいた。

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