第106話 『クリフハンガーの破壊者』

『これは……アンゴルモアじゃない。人間だ!』

「え?」

「こんな場所に、人が——?」


 侵攻前ならまだしも、アンゴルモアの庭と化した今の北部に、人がいるなどとは思えない。

 誰もが耳を疑い、目を向ける。


「あれ、は……」


 閉じた天の窓ポータルの直下。

 買い物帰りにたまたま立ち寄った、とでも言いたげな自然さで、窪地のふちに黒衣の男が立っていた。

 近くにいるクイーンが、その男に気が付く。

 あまねくアンゴルモアには、人類虐殺の命令が刻まれている。よってその両手剣ツヴァイハンダーを備えたクイーンは、男の姿を認めると同時に、一切の躊躇なくその巨大な得物を振り上げた。

 王冠狩りたちが警告を発する間もなく、男を真っ二つにせんと黒く巨大な刃が、さながらギロチンのように迫る。


「——」


 男は小さく息を吐き、黒い処刑者を一瞥する。

 それだけでクイーンの胴体は真っ二つに切断され、両手剣もろとも消滅した。

 距離を隔てた窪地のふちで。男の左眼が——その威容を示すように、赤い輝きをほのかに放つ。


「——レツェリ!!」


 ソニアを支える体勢のまま、イドラはその名を叫ぶ。

 宿敵は遠く、声が届いたのは定かではなかったが、確かにレツェリはイドラたちの方をちらと見た。だがすぐにレツェリは視線を外す。

 同胞を殺され、クイーンたちの標的は既にレツェリへと移っていた。

 あるいはその男が持つギフトの危険性を感じたのか。方舟の狩人たちを襲いかけていたクイーンも、引き返してレツェリの方へ殺到する。

 あっという間に、レツェリは黒い彫刻に囲まれた。


「あいつは何者だ? 方舟の制服じゃないが、クイーンを殺した……イドラ、お前らの知り合いか?」

「ああ。あれは……レツェリ。ギフトは、見たものを切断する眼球だ」


 イドラとソニアに同じく、地底世界から転移してきた異邦人。

 その目と手首には、固い拘束があったはずだが、それらは影も形もない。なんらかの方法で外したようだった。

 イドラの妙に苦々しい言い方に疑問を抱いたのか、カナヒトは重ねて訊く。


「敵か? 味方か?」

「——敵だ」


 迷わず即答する。

 イドラにとって、またソニアにとって——

 あれは、敵以外にはなり得ない。

 一時的に肩を並べて旅路をともにし、同じ船に乗ったことはあったが、それでも仲間などでは断じてない。


「そうかよ。なら、安心するにはまだ早そうだな」


 カナヒトは間近の嵐を見つめるような目で、その光景を眺めていた。

 事実、それは厄災に相違なかった。クイーンはそのアンゴルモア統率能力を互いに使い合っているのか、訓練された人間、あるいはそれ以上の連携力でレツェリに襲いかかっていく。

 問題は、その厄災が難なく捌かれていることだった。

 剣を突き出すその黒いかいなを両断し、曲刀を振るう体の胴を切断し、構える槍もろともに女王の肉体を寸断する。

 規格外の天恵。

 レツェリに近づこうとするクイーンは、端からその眼で捉えられ、切り刻まれていた。


女王核コアを砕いてすらいねえ。あのクイーンを、そこらのハウンドとかと同じように殺してやがる……」


 あの暴威が、次はこちらに向かうかもしれない。カナヒトが緊張を含んだ面持ちなのは、そのせいもあるだろう。

 まさしく不可視の嵐、見えない箱の境界面に巻き込まれ、クイーンの体が勢いよく断たれていく。黒い彫刻じみた手指てゆびが、腕が、足先が、大腿が、胴体が、首が、レツェリの視線一つでちぎれ飛ぶ。

 部品パーツを失った肉体が、踊るような足取りでふらつく、あるいは地面に倒れこむ。さらに寸断され、おおむね手足の総本数が半分を切ると、クイーンは限界を迎えて消滅していった。

 そうして、二十八の女王は、五分足らずで鏖殺おうさつされたのだった。


(あの眼は……僕のマイナスナイフみたいに、変化したりはしてないのか?)


 戦慄の中、イドラはレツェリのギフト——万物停滞アンチパンタレイの性能にこれといった変化が見られないことに気づく。

 少なくとも外から見た限り、その能力は同じだった。

 視界に捉えたものを断裂させる。

 これこそまさに、神をも恐れぬ悪魔の力だ。転がる女王核コアを踏み砕き、窪地のふちから改めてこちらを見据えるレツェリをにらみ返しながら、イドラはそう再認識した。


「た、戦う……んでしょうか」

「わからない。そもそも、なんであいつ、こんな場所に来てるんだ……?」


 目的がわからない。だが、イドラたちを助けに来たというのはありえない。

 さながら暴風が過ぎ去るのを待つように、ソニアのことを起こそうとしたままの体勢で止まっていたイドラは、思い出したようにようやくソニアを立たせてやる。

 まるきり危機が去ったとは言い難い状況ではあるが、ソニアも少し落ち着いたようだ。


(戦闘になったとして……勝ち目はいかほどだろう)


 地底世界にて。あのデーグラムの聖堂で、一度イドラたちはレツェリを打倒した。

 しかしあの時と違い、イドラはマイナスナイフを失っている。

 あの恐るべき眼球の天敵とも言える、マイナスナイフの能力——空間の膨張による移動は、コンペンセイターとなった今ではまったく使えない。

 人数ならこちらが勝るとはいえ、頭数だけでなんとかできる相手でないというのは、今さっきの光景を見れば明らかすぎるほどに明らかだ。

 と、そこまで考え——イドラは、自身のギフトの順化について、まだレツェリに知られていない可能性に思い至った。


「あいつから見れば、僕のギフトはまだ、マイナスナイフのままかもしれないのか」


 レツェリのギフトは、変わっていなかった。

 ならばあの男も、イドラのギフトが変わっていないと考えるのが自然ではなかろうか?

 そんなか細い憶測のもと、イドラはあえてコンペンセイターを腰のケースから引き抜かず、臨戦態勢に入らなかった。

 その選択に意味があったのかは定かでないが、レツェリはイドラの方を眺めながらも、交戦の気配はない。


「あっ——イドラさんっ、あれ! レツェリさんの、隣……!」

「え?」


 ソニアが今日何度目かわからない、驚きの声を上げる。

 視力では相変わらずソニアに及ばず、遅れてイドラも、その人影に気が付く。

 そう——元々、ウラシマがコミュニケーターで伝えた生体反応は二つあった。

 さっきまで、クイーンとの戦闘に巻き込まれないように離れていたのか。見慣れない黒いジャケットの裾を風になびかせながら、レツェリの隣に女性が現れる。

 だがそれは確かに、イドラが知る少女だった。

 表情こそ窺えないが、遠目でもわかる、夕焼けの色にも染まらない浅葱色の髪。修道服は地底世界に置いてきたため、この世界の衣服を羽織っている。

 イドラの仲間でありながら、行方知れずだったその少女は——


「ベル、チャーナ……? どうして」


——ベルチャーナは、レツェリと一言、二言程度のやり取りを交わしながら。

 深い雪に覆われた凍土のように、ひどく冷えた瞳で、ソニアの方を見据えていた。

 かくして、鮮やかなまでの夕焼けの下、地底より昇ってきた異界の四者が集う。

 終末の使者が最後の侵攻を始め、星の摂理が搔き消え、あらゆる秩序が崩れ落ちるのは——

 そう、遠くない未来のことだった。



第二部一章 『躍る大王たち』 了

第二部二章 『堕落戦線』 へ続く

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