第二百十六話 遺された蝶の洞窟


 蝶と兎。可憐な花を金襴文様に絡ませても、異なる感情いろかさねる女同士は、阿修羅のように瞋恚しんいを向けるのか。美峰みねらんの対立は、私の立つ大地が薄氷で出来ていたみたいで恐ろしかった。罅割れた眼下の、青き深淵は底無しなのだろう。私は『宮本家』の水底を知らないが、氷花しがを溶かす水面の煌めきに惹かれてしまった。煉に、祇流きりゅう。そして都峨路つがろにも、私は親しみを覚え始めてしまったのだ。繋いだ手を美峰みねに引かれる私は、彼らを憎悪する彼女と同じ道を歩めていけるのだろうか。

  

「ごめんね、千里ちゃん。騒がしくしちゃって。紅音達にも謝らなきゃね。せっかくお祭りに来てくれたのに。私ってば、堪え性が無いんだから」


 黒髪と青い巫女装束を翻し、美峰は振り向く。可憐な短眉を下げて、儚く自嘲した。雪肌せっきの顏に羽ばたくは、濃藍こいあいに艶めく睫毛。黒鏡の棗眼が、私と空色を映してくれている。


「美峰が私に見せたい物は、この先にあるの? 」

  

「そうだよ。千里ちゃんは、本殿の隣の蔵には入ったことが無かったよね」


 私が頷くと、立ち止まった美峰は蔵戸に手を触れる。


「この蔵には、青ノ鬼が打ち負かした妖を封じた札や、妖狩人達の術式の札があるの。徒人の私は弱さを補いたくて、よく引っ張り出してきてたんだ。その中には、羽衣石ういし家の『滅びの蝶』が封じられた札もあったの。『隠世 猫屋敷』の時には、綾人を救う切り札になったんだよ。青ノ鬼が言うには、十一年前の『桜下の惨劇』でのから得たモノらしいけど」

 

 光の鱗粉に、道は開かれた。私は『過去夢』が塗り変えた『現代いま』を知る。青ノ鬼が『過去夢』内で青ノ巫女姫に託した戦利品が、『滅びの蝶』の群れの長たる『女王蝶』なのだろう。『女王蝶』から得た『滅びの蝶』は、美峰が使った切り札になったらしい。以前の過去と、入手経路は異なるはずだ。『滅びの蝶』の存在は、私が焦がれた蜃気楼を掻き乱す。絵の中の葉櫻の傍に立つ女性は、もう二度と振り返らないのに。


「良く知ってるよ。羽衣石ういし 那桜なおは……私の乳母だったから」


 美峰は、苦い哀悼に微笑んだ。

 

「そっか……千里ちゃんは、『メツ』の術士だった彼女と共に過ごしてきたんだね」 


 蔵の最奥に辿り着くと、青牡丹と蝶が描かれた石壁の祭壇が存在した。石壁には、段々に掘られて奥へ狭まっていく縦形の凹みがある。しかし、『滅びの蝶』の札があったはずの凹みはからだ。美峰は蝶が止まる壁画に触れ、細工をスライドさせる。蝶が次の華へと止まれば、縦形の凹みは穴となり、陽光を垣間見せた。祭壇が縦に割れ、とどろきに開いていく。 


 淡い金の木漏れ日を夢心地に浴びる中……森の中の斜面には、百合にも似た橙色の花達が咲いていた。キツネ剃刀カミソリの群生か。見上げれば、注連しめ縄が巻かれた巨岩!二つの岩に支えられ、岩窟の天井を果たしているが、あまりの神威におののいてしまう。


「あの岩……墜ちてきたら、絶対に無事じゃ済まないよね」


 勇気を出して、苔した粗い石段を登り始めたが動悸が止まらない。


「その為にあるんだよ。巨岩の下に居るが私の制御を外れてしまったら、青ノ鬼が落としてくれる約束なの。私が下に居る時に、が暴走してしまえば……青ノ鬼と心中する事になるね」

 

 手を繋ぐ少女は、恐ろしい事を淡々と語る。先に登る美峰を思わず仰いだが、逆光で表情は分からない。青墨の翅の蝶が飛来した時に、ようやく横顔の花唇が見えたくらいだ。

 

「不思議だけど、毎日同じ時間と道で墨流蝶スミナガシチョウを見掛けるんだ。境内の神聖な空気が好きなのかも。花を尋ねる彼らみたいに、私も無心になりたいけれど……心の底が荒れていて、無理かな」


 ふいに、繋ぐ手の力が強まった。

  

「千里ちゃんは覚えてるよね。私達が同じ中学校に通っていた時に、転校生が来た事を。同じクラスの強気な女の子……『宮下さん』のグループと合わなくて、転校生に対するいじめが始まった」


「うん、覚えてるよ。転校生の女の子は『二木さん』だったよね」


 石段の積み石は古く歪で、次の足場を探して登るのに私は苦労した。

 

「影で衝動的に踏み躙られた体操着は、誤魔化せない。私は体育の授業寸前に、泣いてる二木さんを慰めていた千里ちゃんを見掛けたの。二木さんと体操着を交換して、千里ちゃんは汚れた体育着で授業に出たよね。千里ちゃんが着ていても、足跡で汚れた『二木』の名札で、目尻が赤い二木さんに何かがあった事は歴然で。千里ちゃんは誰の名前も言わなかったけれど、先生も含めて授業の空気は冷えきった。二木さんが授業に出るとは思わず、呆然と青ざめたいじめっ子に向き合って、千里ちゃんは真っ直ぐに微笑んで言ったよね」


 陽光柔らかく、美峰は振り向いた。清らかに微笑んだのに、目尻に残る仄かな幼さで泣きそうに見える。私を見下ろす美峰の髪筋が、蜘蛛の糸みたいに煌めく。


「『宮下さんは優しい人だよね。学校を早退しがちな私が勉強で困っていたら、笑顔でノートを貸してくれたから。あの時みたいに、二木さんを助けてあげてくれないかな? の代わりに』って。その後、千里ちゃんは家業の為に学校に来れなくなってしまったけれど……いじめは無くなったんだよ。千里ちゃんに庇われて良心を思い出した、いじめっ子も救われたからね。千里ちゃんは『自分の事なんて、同級生は覚えてないよ』って言ってたけれど、みんな忘れられないと思う。繋いだ橋で敵の概念をまっさらにしてくれた千里ちゃんを、私も忘れられなかったから」

 

 今の私が繋ぎたいのは、弐混神社と宮本家なんだと気づく。宮本家を受け入れられない美峰が、中立の立場に立つ私へ、『あの時みたいに助けて欲しい』と不器用に告げているようにも思えた。

  

「千里ちゃんと違って、弱くて勇気が無い私は何も出来なかった。少しは勇気を出せるようになったけれど、奇跡は二度起こらない。再び戦いの中で、青ノ鬼の妖力が尽きて顕現出来なくなれば、弱い私は誰も守れなくなってしまう。宮本家の人達が深淵で何を考えているのか、私には分からない。先々代の青ノ君が唐突に殺されたように……綾人の【異能】を狙って殺しに来るかもしれない。守りたい人を亡くしてから無力を悟るなんて、嫌なの」

  

 蝶のみぞ知る道の果て……岩窟を背に、美峰が懐から取り出したのは小刀だった。荘厳な儀式のように睫毛を伏せ、青ノ巫女姫は自らの掌に刃を滑らす。


「ごめんね。千里ちゃんを守る為に、私と混ぜた血をに覚えさせないといけないから。……掌を出してくれる? 」


 私が差し出した掌にも、刃がすっと引かれて目を固く瞑った。痛みに滲む血より、見たくないのは化け物である証だ。私達は同い年の少女なのに……人である美峰を置いて、ながい生を得た私だけが癒えてしまうから。


「まだ目を瞑っててね? 楽しみはこれからなんだから」


「楽しみ……? 」

 

 異なる血を重ねた掌に引かれ、湿った岩窟内へ進む。繋いだ手を伸ばすと、血は滴り落ちた。深く反響する硝子のような音色は……水琴窟すいきんくつなのだろうか?


「草履と足袋は脱いでおいた方が良いから、取って揃えといてあげるよ。あちらへ旅立つ時は、土足厳禁だからね」


「自殺の礼儀みたいな響きがあるんだけど……気のせいだよね? 」 


 小首を傾げつつも、私は目瞑りで導かれる。裸足で踏み出した瞬間――私は逆巻く墜落に叫んでいた! 開眼すれば、円く切り取られた地上が急激に遠ざかっていく! 風鳴りで袖が荒ぶるのに、美峰の笑顔がキラキラと弾けたのは何故か!?


「ドッキリ大成功だね! 洞窟の底は涼しいから、体温が下がって丁度良いよ! 」


「みみみ美峰っ、何で笑ってるの!? 真っ逆さまに墜ちてるけど、心中相手は私なの!? 」

 

「翅があるから死なないよ、千里ちゃん! 例え世界がに喰いつくされても、私達だけは生き残るんだから! 」


 紫電の翼を顕現する前に、新たな『蝶』を見た。先程の墨流蝶とは違い、瑪瑙にも似た翅が発光している。空色と白のせせらぎに、金青きんせいが絡むのだ。川の水面に色墨を落とし、揺蕩う流れを写したような模様には、心を吸い込む力がある。私達に纏わりつくのは、青白磁色の『滅びの蝶』では無いらしい。


「凄い……ここは『蝶』の巣なんだね」


 空色の燐光の翅達が、宇宙に舞うよう。鏡鉄鉱ヘマタイトの岩肌を磨いたような、鏡の洞窟だ。ゆっくりと着水すれば、ひんやりと足先が浸されて心地よい。湧水のように澄み切った水鏡に、滴る音が反響する。光の梯子が差せば、金剛瑠璃の天地あめつちへ変わりゆく。『蝶』の群れが織り成す鏡の世界は、反射が瞬く間に変化していくのか。美峰が小指から順に拳を花開けば、手品のように『蝶』が現れた。


「正直、虫は苦手だったけどね。渦を巻く口吻こうふんに血を乞われ、這わられる時もゾッとした。でもね、諦めて受け入れたんだ。蝶から感じさせる忌まわしさすらも、意のままに操る為にね。ふっと自我が解けた時から……翅先すら、私の一部になった」


 私を捉えた瑠璃の複眼には、意思を感じるような。胸の柔毛が白獅子のように誇り高く、金の触角と脚をしなやかに晒す。氷と硝子が鳴るような音色が眼前で響き、蝶の鳴き声なのだと知る。美峰は茫洋と、空色の燐光を雪肌へ浴びていた。

  

「彼らは、『流魂蝶るこんちょう』。群れの長たる『女王蝶』を巫女わたしの意識で禊がれ、『滅びの蝶』から変貌したモノ。墨流しは、滅びという穢れさえ清い模様に変えられる。二つ巴とは異なり、川のように流れゆく新たな混沌なの。生力を喰らう『女王蝶』と、妖力を喰らう『群れ』の特性を継いだ彼らは、人も妖も喰らえる。宿主である私と、私の一部と認識した者以外を選んでね。私に『流魂蝶』が従う内は、世界は滅ばないよ」


 都峨路と私に遺された、那桜の形見である『滅びの蝶』は生まれ変わった。未来に『滅』の術式を継承するという那桜の願いは、新たな形で成し遂げられたのだ。美峰が青ノ鬼から身体うつわの権利を取り戻し、彼を征した時もそうだが、美峰には妖を従える天賦の才があるのかもしれない。ただ無気力に、寄生されるのとは違う。静かにほとりへ引き寄せ、水底で彼らを従える意志がある。妖に蝕まれているようで、彼らを清めているのは美峰なのだ。


「私達に仇なすのは、妖ばかりじゃないからね。私は人からも、『大切なひと達』を守りたいの。千里ちゃんは、弱い私の羽化を見守っていてくれるよね? 」


 左頬に止まった『流魂蝶』が羽ばたくのに、美峰は瞳すら瞬かない。左眼を翅に隠された美峰が朽ちゆく人形に見え、心音が軋んだ。美峰の両頬へ衝動的に触れ、私は暖かい柔さを確かめていた。『流魂蝶』は薄闇へ去る。空色の生気が灯った黒鏡の双眸が揺らぎ、私は安堵した。

  

「美峰が遠いところに行ってしまうようで、少し怖いよ。美峰が自分を犠牲にするくらいなら、私は傍観者では居られない」 


「綾人を追いかけた時も、青ノ巫女姫になった時も……自分の意思で選んできたの。『流魂蝶』を選んだのも私なのに、翅に包まれると自分が遠い気がする」


「意志を流れに任せても、必ず戻ってきてね。美峰が強い自分に羽化出来なくたって、私は待ってるから」

 

「やっぱり……眩しい千里ちゃんは、私の道標になってくれるんだね。だから、私は千里ちゃんを裏切れない」


 美峰が潤う瞳でみを思い出した時……振動したのは、私のスマホ? 神域に、マナー違反だったか。ビデオ通話を掛けて来たのは……紅の猫耳を立てて、ぷりぷりと頬を膨らました紅音あかねだ。彼女の肩に触れ、ひょっこりと翠音みおが覗いている。


『ちょっと! 何処に行ったのよ、貴方達!こっちは探し回ったっていうのに!』 


「ごめんごめん、紅音。そいえば何も言わずに、置いてきちゃったもんね」

  

「紅音達からの電話なの、千里ちゃん? 丁度いいや、紅音と翠音も後で血を頂戴……? 二人も、私の仲間いちぶだからね」


 スマホ越しでも、淡く微笑む美峰に小刀を見せられるのは怖いだろう。流石の双子も青ざめ、猫耳を伏せてドン引いた!


『清い笑顔で何言ってるんですか、美峰!? 翠音わたし、ヤバい子と親友になってしまったのですか!? 』


 私は慌てて、きょとんとする美峰から小刀を取り上げて弁解する!


「ご、誤解だよ、二人共! 後で『流魂蝶』の事は説明するから、通話を切るのを早まらないで!! 」 


『千里こそ小刀をぶん回すのを止めなさい!! 色んな意味で、紅音わたしの話を落ち着いて聞くのよ。貴方が綾人から返してもらった紫黒色しこくしょくの着物から、一緒に入ってたコレがひらりと落ちてきたんだけど、怪しくない? 』


 ニヤリと紅音が見せるは、絹布けんぷに押された朱印。それは織物工業組合の朱印では無く、人魚の家紋だ! 咲雪さゆきと再会する為に、私が探し求めていた『竜宮城への招待状』ではないか!


「竜口家の家紋!? なんで翔星とうさまからの誕生日プレゼントの着物に……? 」


 私は『過去夢』を思い出す。竜口たつぐち さえ翔星かいせいと、『シン』の術式の契約を結んでいたはずだ。互いへの従属を誓う契約を冴と交わした父様が、私の誕生日プレゼントを彼女に相談する機会があったのかもしれない。そう仮定すれば、密かに彼女が私への『招待状』を仕込むことが出来る。冴の髪色は、着物と同じ艶やかな紫黒色だ。


『貴方の元に招待状がある理由が分からずとも、舞い込んだ魚は逃がせないわよ。即、行動あるのみ! この私が待っててあげるんだから、速攻で飛んで来なさい! 』


 可憐にウィンクした紅音は、意気揚々と通話を切った。

 

「いってらっしゃい。私も、千里ちゃんが帰ってくるのを待ってるから」 


「いってきます。美峰に良い土産話を持って来れるように、頑張るね」

  

 彼女と笑みを交わした私は、水鏡の底から飛び立つ為に紫電の翼を顕現する。光の梯子を注ぐ天を見上げれば、鼓動が玉響の滴りに高鳴った。

 

 

 

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