第二百十六話 遺された蝶の洞窟
蝶と兎。可憐な花を金襴文様に絡ませても、異なる
「ごめんね、千里ちゃん。騒がしくしちゃって。紅音達にも謝らなきゃね。せっかくお祭りに来てくれたのに。私ってば、堪え性が無いんだから」
黒髪と青い巫女装束を翻し、美峰は振り向く。可憐な短眉を下げて、儚く自嘲した。
「美峰が私に見せたい物は、この先にあるの? 」
「そうだよ。千里ちゃんは、本殿の隣の蔵には入ったことが無かったよね」
私が頷くと、立ち止まった美峰は蔵戸に手を触れる。
「この蔵には、青ノ鬼が打ち負かした妖を封じた札や、妖狩人達の術式の札があるの。徒人の私は弱さを補いたくて、よく引っ張り出してきてたんだ。その中には、
光の鱗粉に、道は開かれた。私は『過去夢』が塗り変えた『
「良く知ってるよ。
美峰は、苦い哀悼に微笑んだ。
「そっか……千里ちゃんは、『
蔵の最奥に辿り着くと、青牡丹と蝶が描かれた石壁の祭壇が存在した。石壁には、段々に掘られて奥へ狭まっていく縦形の凹みがある。しかし、『滅びの蝶』の札があったはずの凹みは
淡い金の木漏れ日を夢心地に浴びる中……森の中の斜面には、百合にも似た橙色の花達が咲いていた。
「あの岩……墜ちてきたら、絶対に無事じゃ済まないよね」
勇気を出して、苔
「その為にあるんだよ。巨岩の下に居る
手を繋ぐ少女は、恐ろしい事を淡々と語る。先に登る美峰を思わず仰いだが、逆光で表情は分からない。青墨の翅の蝶が飛来した時に、ようやく横顔の花唇が見えたくらいだ。
「不思議だけど、毎日同じ時間と道で
ふいに、繋ぐ手の力が強まった。
「千里ちゃんは覚えてるよね。私達が同じ中学校に通っていた時に、転校生が来た事を。同じクラスの強気な女の子……『宮下さん』のグループと合わなくて、転校生に対するいじめが始まった」
「うん、覚えてるよ。転校生の女の子は『二木さん』だったよね」
石段の積み石は古く歪で、次の足場を探して登るのに私は苦労した。
「影で衝動的に踏み躙られた体操着は、誤魔化せない。私は体育の授業寸前に、泣いてる二木さんを慰めていた千里ちゃんを見掛けたの。二木さんと体操着を交換して、千里ちゃんは汚れた体育着で授業に出たよね。千里ちゃんが着ていても、足跡で汚れた『二木』の名札で、目尻が赤い二木さんに何かがあった事は歴然で。千里ちゃんは誰の名前も言わなかったけれど、先生も含めて授業の空気は冷えきった。二木さんが授業に出るとは思わず、呆然と青ざめたいじめっ子に向き合って、千里ちゃんは真っ直ぐに微笑んで言ったよね」
陽光柔らかく、美峰は振り向いた。清らかに微笑んだのに、目尻に残る仄かな幼さで泣きそうに見える。私を見下ろす美峰の髪筋が、蜘蛛の糸みたいに煌めく。
「『宮下さんは優しい人だよね。学校を早退しがちな私が勉強で困っていたら、笑顔でノートを貸してくれたから。あの時みたいに、二木さんを助けてあげてくれないかな?
今の私が繋ぎたいのは、弐混神社と宮本家なんだと気づく。宮本家を受け入れられない美峰が、中立の立場に立つ私へ、『あの時みたいに助けて欲しい』と不器用に告げているようにも思えた。
「千里ちゃんと違って、弱くて勇気が無い私は何も出来なかった。少しは勇気を出せるようになったけれど、奇跡は二度起こらない。再び戦いの中で、青ノ鬼の妖力が尽きて顕現出来なくなれば、弱い私は誰も守れなくなってしまう。宮本家の人達が深淵で何を考えているのか、私には分からない。先々代の青ノ君が唐突に殺されたように……綾人の【異能】を狙って殺しに来るかもしれない。守りたい人を亡くしてから無力を悟るなんて、嫌なの」
蝶のみぞ知る道の果て……岩窟を背に、美峰が懐から取り出したのは小刀だった。荘厳な儀式のように睫毛を伏せ、青ノ巫女姫は自らの掌に刃を滑らす。
「ごめんね。千里ちゃんを守る為に、私と混ぜた血を
私が差し出した掌にも、刃がすっと引かれて目を固く瞑った。痛みに滲む血より、見たくないのは化け物である証だ。私達は同い年の少女なのに……人である美峰を置いて、
「まだ目を瞑っててね? 楽しみはこれからなんだから」
「楽しみ……? 」
異なる血を重ねた掌に引かれ、湿った岩窟内へ進む。繋いだ手を伸ばすと、血は滴り落ちた。深く反響する硝子のような音色は……
「草履と足袋は脱いでおいた方が良いから、取って揃えといてあげるよ。あちらへ旅立つ時は、土足厳禁だからね」
「自殺の礼儀みたいな響きがあるんだけど……気のせいだよね? 」
小首を傾げつつも、私は目瞑りで導かれる。裸足で踏み出した瞬間――私は逆巻く墜落に叫んでいた! 開眼すれば、円く切り取られた地上が急激に遠ざかっていく! 風鳴りで袖が荒ぶるのに、美峰の笑顔がキラキラと弾けたのは何故か!?
「ドッキリ大成功だね! 洞窟の底は涼しいから、体温が下がって丁度良いよ! 」
「みみみ美峰っ、何で笑ってるの!? 真っ逆さまに墜ちてるけど、心中相手は私なの!? 」
「翅があるから死なないよ、千里ちゃん! 例え世界が
紫電の翼を顕現する前に、新たな『蝶』を見た。先程の墨流蝶とは違い、瑪瑙にも似た翅が発光している。空色と白の
「凄い……ここは『蝶』の巣なんだね」
空色の燐光の翅達が、宇宙に舞うよう。
「正直、虫は苦手だったけどね。渦を巻く
私を捉えた瑠璃の複眼には、意思を感じるような。胸の柔毛が白獅子のように誇り高く、金の触角と脚をしなやかに晒す。氷と硝子が鳴るような音色が眼前で響き、蝶の鳴き声なのだと知る。美峰は茫洋と、空色の燐光を雪肌へ浴びていた。
「彼らは、『
都峨路と私に遺された、那桜の形見である『滅びの蝶』は生まれ変わった。未来に『滅』の術式を継承するという那桜の願いは、新たな形で成し遂げられたのだ。美峰が青ノ鬼から
「私達に仇なすのは、妖ばかりじゃないからね。私は人からも、『大切なひと達』を守りたいの。千里ちゃんは、弱い私の羽化を見守っていてくれるよね? 」
左頬に止まった『流魂蝶』が羽ばたくのに、美峰は瞳すら瞬かない。左眼を翅に隠された美峰が朽ちゆく人形に見え、心音が軋んだ。美峰の両頬へ衝動的に触れ、私は暖かい柔さを確かめていた。『流魂蝶』は薄闇へ去る。空色の生気が灯った黒鏡の双眸が揺らぎ、私は安堵した。
「美峰が遠いところに行ってしまうようで、少し怖いよ。美峰が自分を犠牲にするくらいなら、私は傍観者では居られない」
「綾人を追いかけた時も、青ノ巫女姫になった時も……自分の意思で選んできたの。『流魂蝶』を選んだのも私なのに、翅に包まれると自分が遠い気がする」
「意志を流れに任せても、必ず戻ってきてね。美峰が強い自分に羽化出来なくたって、私は待ってるから」
「やっぱり……眩しい千里ちゃんは、私の道標になってくれるんだね。だから、私は千里ちゃんを裏切れない」
美峰が潤う瞳で
『ちょっと! 何処に行ったのよ、貴方達!こっちは探し回ったっていうのに!』
「ごめんごめん、紅音。そいえば何も言わずに、置いてきちゃったもんね」
「紅音達からの電話なの、千里ちゃん? 丁度いいや、紅音と翠音も後で血を頂戴……? 二人も、私の
スマホ越しでも、淡く微笑む美峰に小刀を見せられるのは怖いだろう。流石の双子も青ざめ、猫耳を伏せてドン引いた!
『清い笑顔で何言ってるんですか、美峰!?
私は慌てて、きょとんとする美峰から小刀を取り上げて弁解する!
「ご、誤解だよ、二人共! 後で『流魂蝶』の事は説明するから、通話を切るのを早まらないで!! 」
『千里こそ小刀をぶん回すのを止めなさい!! 色んな意味で、
ニヤリと紅音が見せるは、
「竜口家の家紋!? なんで
私は『過去夢』を思い出す。
『貴方の元に招待状がある理由が分からずとも、舞い込んだ魚は逃がせないわよ。即、行動あるのみ! この私が待っててあげるんだから、速攻で飛んで来なさい! 』
可憐にウィンクした紅音は、意気揚々と通話を切った。
「いってらっしゃい。私も、千里ちゃんが帰ってくるのを待ってるから」
「いってきます。美峰に良い土産話を持って来れるように、頑張るね」
彼女と笑みを交わした私は、水鏡の底から飛び立つ為に紫電の翼を顕現する。光の梯子を注ぐ天を見上げれば、鼓動が玉響の滴りに高鳴った。
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