第二百十四話 焼け落ちた朝
約束の一日は、もうすぐ終わる。案内役の黎映と共に、私が帰ってきた街は田園都市だったらしい。街外れには、工場跡や田舎道が交錯する。狭い高架下を抜ければ、空き地の
私達は、智太郎達が夜を過ごすというシャター街を目指している。直接問う事が叶うというのに、鼓動が痛いくらいに空振って、会うのが怖くなってきてしまう。私が祈るように組んだ手を、黎映は深緋の右眼で静かに一瞥した。
「何故、貴方の元に帰らないのか……私も正確には知らないのです。鴉が『千里を頼む』と掛けてきた電話越しに、私が無責任だと怒りに問えば、ようやく智太郎の短い答えが聞けたのです。あの二人が狩りに苦戦するようには思えません」
「智太郎が
「なら、鴉だけでも帰るとは思いませんか? 鴉が智太郎を独りにしないのは、きっと貴方が理由なのですよ。貴方が待つ彼を、惨めな野良猫にさせない為に」
私が見開いた瞳に清涼な輝きが戻ると、黎映は寂寞を隠せずに苦笑した。黎映の望みとは相反するだろうに、口当たりの良い優しさを与えてくれるなんて。迷いなく歩めるようになったのは、黎映のおかげだ。素直に笑みを返そうとした時。
―― 翻った白菫色の髪は、幽霊なんかじゃない。
「こんな時間に、何で『あの子』が」
「千里!? 」
薄群青が灯るような丸いスカートを纏う少女を追いかけ、衝動的に駆け出した私の
「待って! 」
「千里お姉ちゃん……? 」
寂れた踏切を前に、幼気な彼女は振り返った。白菫色のボブに、高めの小さなツインテール。
「やっぱり、
「夢……? 」
やはり、夢は夢にしかすぎなかったのか。小首を傾げた沙亞耶は、何も知らないみたいだ。
「何でこんな時間に独りで居るの? お家に帰らないと、危ないよ」
「帰りたく…なかったの。『あの子』に、虐められてる、なんて…『しょうちゃん』に話しちゃ、駄目…なのに。甘えたく……なっちゃう、から」
我慢するようにスカートを握るも、沙亞耶は耐えきれずに
「お姫様だった、お姉ちゃんみたいに…なりたくて。上手に…話したくて、頑張ったけど、どうにも…ならないの。ちっぽけな沙亞耶じゃ、みんなの、期待にはっ……応えられない。だから……」
沙亞耶は後ろに下がった。寂れた踏切内は、舗装から
【 金花姫の居ない、花祭り。金の鳳凰が
涙伝う白頬と小さな唇が
子供一人轢かれても、誰かの液晶越しに遠い悲劇は響かないんだろう。いや、死んだりなんかしてないはずだ。黒と黄の警告色を上げていく遮断桿に息を呑んだが、線路に恐れていた跡は存在しなかったのだから。
「突然走り出すものだから、驚きました」
深緋と白の双眸を揺るがす黎映は、厳しい表情をしている。冷静さを欠いていた自分に気がついた。
「黎映にも……彼女の事が見えてたよね? 」
「ええ。貴方が追いかけた気配は、私を見た瞬間に過ぎ去ったようです。だから、止めました。今は誰も居ませんよ」
なら、沙亞耶の命は救えたはずだ。だけど……真の救いには届かない。ほんの少し掠めた【過去夢】では、曖昧な憶測を結ぶには頼りないが、これだけは分かる。沙亞耶が苦しんでいるのは、
「私が知らされた、彼らの居場所はあちらです」
黎映が指し示す先に、塗装が錆びたアーケードの入口が見える。シャッター街に入ると、先を歩む女性が居た。こんな夜に寂れた場所を目指す人が、私達以外にも居るなんて。地元の人間なのかとも思ったが、何処か足取りは頼りない。自然と後を追うと、路地裏から女性を招く手があった。虚ろな女性は、誘われるがままに
―― 甘い香りが、強まった。
逆らう意志に反し、私の足が進んでしまう。私の慾を掻き乱すモノなんて嫌という程に知っているから、凍えた動悸が伴った。
硝子割れた
智太郎が使っていたのは、間違いなく【魅了】の欠片だ。
「這ってでも、口にしろ。お前が牙を穿った彼女の血は、悪戯に吐き捨てていいようなものじゃない! 」
項垂れた智太郎に怒号を浴びせたのは、黒曜だった。
「随分、荒れていらっしゃるのですね。私達を疎外してまで選んだ、貴方達の狩りは遂げられましたか? 」
振り返った黒曜は、私に気づくと動揺を隠せずに俯いた。だが秀眉を寄せ、黎映を睨み付ける。
「見ての通り、智太郎の飢餓が進行している。無理矢理にでも狩りで食い止めなければ、死ぬだろう。拒絶の理由は心的要因だろうが、智太郎はどうしても語ろうとしなかった」
『死』という言葉に、視界が恐ろしく冴え渡り、私は歩を進めていた。血の拒絶を解かねば、私が望む朝は来ないから。黒曜が立ち塞がるように漆黒の翼を広げたのは、私を守る為なんだと分かってる。
「駄目だ、千里。今は危険だから、来ては行けない」
「お願い、黒曜。危なくてもいいから、智太郎と二人で話をさせて欲しいの。今話せなかったら、足掻けなかった事を……ずっと後悔してしまうから」
私が上手く微笑めなくても、黒曜の瞳は揺らぐ。黎映は硬質な白に髪を靡かせ、幽かに微笑んでくれた。
「なんで……千里がここに……」
智太郎の意識が醒め、驚愕に変わる。私を完全に捉える前に、智太郎は己の双眸を右手で塞ぎ、俯いた。
「危険だから夜は絶対に出歩くなって、俺は言ったよな。約束を破ってまで、黎映を隣に連れて! どうして、会いに来たんだ……!! 」
牙を剥く唸り声に、嫉妬の気配がした。逆撫でられた私は感情の鋒を、智太郎に向ける!
「何言ってるの? 自分だって、朝帰りすらも出来ない約束破りのくせして。黎映に下手くそな伝言なんてして隠れないで、無事な姿で帰って来てよ! 心配だから会いたいっていうのが、そんなに悪いことなの!? 」
両拳を握り、私は弱くなんかないと示したいのに。潤む視界で捉えた足元が、ぐらついてしまう。
「
「……違う。そんな
表情を失った私は、冷気に体内を昇り這われて総毛立つ。その嫌悪が、『血の拒絶』に繋がっている気がした。桂花宮家に居た頃から、智太郎は
「本当はそんな風に思ってたの? 黎映に救われた私を、蔑んでたんだね。意地なんて張らないで、智太郎だって誰かと
下らない嫉妬なんかより、互いの命が大切なはずなのに……どうして私達は利口な選択が出来ないんだろう? 私達の心が妖に成りきれない、人だからなのか。
「千里を蔑んでる訳じゃない。有象無象の奴らの血肉でお前の牙が穢されるより、黎映とだけ契約した方が遥かにマシだ。おぞましいのは、
智太郎が、顏を覆った手を解き始める。小指が伝う、ほの嗤う唇を認識した途端。ズキズキと頭痛が明滅し始めた。鮮やかに濡れた牙の鋭さを、
「どんなにおぞましくても、甘やかして全部許されると思ってしまうから……お前に会いたくなかった」
あれは、私が踏み切れぬ警報灯だ。雪華の睫毛が、帳を暁に上げた。
会いたくなかったと口にしたくせに、私の魂を【魅了】で陵辱しようというの? 意思が殺される前に俯けば、私の両手首が智太郎に片手で掴まれた! 硬い掌から熱く昂る脈動が、髄まで伝わってしまう。陶酔に望洋と微笑む智太郎は、
―― 牙からは逃げられない。
眼前で、灼熱の鋭痛が深く埋まる! 悲鳴を上げかけた私の反応を、一片も逃さぬように瞳孔が閃く。爛々と瞬かない緋色の流し目が、見上げていた。【魅了】が侵入し、私の鼓動を業火で弄ぶ。熟れた果肉の果てにされゆくように、痺れた痛みが伝う血に溶けていく……。焦らすようにゆっくりと、咬傷を舐められる魔の刺激に脳圧が緩んでも、 眼下の獣を煽る甘い息を零さないように堪えた。涙に濡れても、慾に溺れたくなんか無いの。
堕ちない私を、智太郎は深淵から睨んだ。手首を片手で捕まえられたまま、震える肩にしなだりかかられ、脈動する首筋が艶めかしく這われていく。気怠い吐息が甘やかに煙る――
―― 俺達は
きっと
「自分が泣いてる事くらい、気づいてよ……馬鹿! 」
荒い呼吸で踵を返す最中、掌で鼓動を確かめた。まだ胸の内には、温かさが生きている。可愛がりたいのは、小さな心臓なんかじゃない。智太郎から貰った『雛鳥のような優しい愛情』を殺されたくなくて、私は逃げ出してしまった。
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