第二百十四話 焼け落ちた朝

 

 約束の一日は、もうすぐ終わる。案内役の黎映と共に、私が帰ってきた街は田園都市だったらしい。街外れには、工場跡や田舎道が交錯する。狭い高架下を抜ければ、空き地のくさむらで鳴いているのは螻蛄オケラだろうか。尾灯テールランプと信号機の赤と青が、振り返った夏夜かやに遠く浮かんでいた。


 私達は、智太郎達が夜を過ごすというシャター街を目指している。直接問う事が叶うというのに、鼓動が痛いくらいに空振って、会うのが怖くなってきてしまう。私が祈るように組んだ手を、黎映は深緋の右眼で静かに一瞥した。


「何故、貴方の元に帰らないのか……私も正確には知らないのです。鴉が『千里を頼む』と掛けてきた電話越しに、私が無責任だと怒りに問えば、ようやく智太郎の短い答えが聞けたのです。あの二人が狩りに苦戦するようには思えません」


「智太郎がえさと契約したから……戻る必要を感じなくなったんじゃないかな」


「なら、鴉だけでも帰るとは思いませんか? 鴉が智太郎を独りにしないのは、きっと貴方が理由なのですよ。貴方が待つ彼を、惨めな野良猫にさせない為に」


 私が見開いた瞳に清涼な輝きが戻ると、黎映は寂寞を隠せずに苦笑した。黎映の望みとは相反するだろうに、口当たりの良い優しさを与えてくれるなんて。迷いなく歩めるようになったのは、黎映のおかげだ。素直に笑みを返そうとした時。


 ―― 翻った白菫色の髪は、幽霊なんかじゃない。


「こんな時間に、何で『あの子』が」


「千里!? 」 

 

 薄群青が灯るような丸いスカートを纏う少女を追いかけ、衝動的に駆け出した私のは正しいと思えた。空きビルが向かい合う角を曲がれば、合わせ鏡のような硝子へ、泳ぐ幽玄が二重に映る。


「待って! 」


「千里お姉ちゃん……? 」


 寂れた踏切を前に、幼気な彼女は振り返った。白菫色のボブに、高めの小さなツインテール。紫苑しおんの中に深く煌めく紫水晶アメジストの瞳は、躊躇いに揺らぐ。妖精のように可愛らしい顔立ちなのに、長い睫毛には憂いが宿る。柔らかなはずの頬が青白く見えるのは、宵闇のせいだけではないだろう。

  

「やっぱり、沙亞耶 サァヤちゃんだったのね。おかしな夢を見た時から、会える気がしてた」


「夢……? 」


 やはり、夢は夢にしかすぎなかったのか。小首を傾げた沙亞耶は、何も知らないみたいだ。


「何でこんな時間に独りで居るの? お家に帰らないと、危ないよ」


「帰りたく…なかったの。『あの子』に、虐められてる、なんて…『しょうちゃん』に話しちゃ、駄目…なのに。甘えたく……なっちゃう、から」


 我慢するようにスカートを握るも、沙亞耶は耐えきれずにしゃくり泣き始めてしまう。仕草すら可愛らしいのに、伝う涙は私の鳩尾を焼いていく。孤独を恐れてきた幼い頃の私と、どこか似ているからだろうか。

  

「お姫様だった、お姉ちゃんみたいに…なりたくて。上手に…話したくて、頑張ったけど、どうにも…ならないの。ちっぽけな沙亞耶じゃ、みんなの、期待にはっ……応えられない。だから……」  

 

 沙亞耶は後ろに下がった。寂れた踏切内は、舗装から砂利バラストへ境が深く窪む。沙亞耶は驚愕し、アスファルトの崖を踏み外した! 警報機がふいに鳴る。沙亞耶の手を現世こちらへと引いた瞬間――襲い来る強烈な前照灯ヘッドライトに【過去夢】の金の瞬きが重なった。


【 金花姫の居ない、花祭り。金の鳳凰が御座おわ天冠てんがんは、幼い頭には重い。垂れる瓔珞ようらくをしゃなりと鳴らすも、袴の裾を踏んだ彼女は柄杓ひしゃくを手にしたまま、転んでしまう。いかめしい妖狩人共と稚児行列は幻滅し、零れた甘茶と彼女を嘲笑う。遠ざかる桜下おうかの底に、花冷えるのは独りだけ 】

 

 涙伝う白頬と小さな唇が! 柔い掌がすり抜けて、血の気が引く。紫電纏う拳を振り上げて ❪非常停止ボタン❫ を押そうとしたのに、誰かに手首を掴まれた! 無慈悲に掠めていく風圧は、赤い電車だった。どうして止めるの! と黎映に叫んだ声すら、凶暴な通過音に掻き消されてしまう!


 子供一人轢かれても、誰かの液晶越しに遠い悲劇は響かないんだろう。いや、死んだりなんかしてないはずだ。黒と黄の警告色を上げていく遮断桿に息を呑んだが、線路に恐れていた跡は存在しなかったのだから。


「突然走り出すものだから、驚きました」 


 深緋と白の双眸を揺るがす黎映は、厳しい表情をしている。冷静さを欠いていた自分に気がついた。


「黎映にも……彼女の事が見えてたよね? 」


「ええ。貴方が追いかけた気配は、私を見た瞬間に過ぎ去ったようです。だから、止めました。今は誰も居ませんよ」


 なら、沙亞耶の命は救えたはずだ。だけど……真の救いには届かない。ほんの少し掠めた【過去夢】では、曖昧な憶測を結ぶには頼りないが、これだけは分かる。沙亞耶が苦しんでいるのは、金花姫わたしのせいだ。私が追わねばならないのは、咲雪と智太郎だけじゃない。私は覚悟を決めて、静かな踏切を渡った。


「私が知らされた、彼らの居場所はあちらです」

 

 黎映が指し示す先に、塗装が錆びたアーケードの入口が見える。シャッター街に入ると、先を歩む女性が居た。こんな夜に寂れた場所を目指す人が、私達以外にも居るなんて。地元の人間なのかとも思ったが、何処か足取りは頼りない。自然と後を追うと、路地裏から女性を招く手があった。虚ろな女性は、誘われるがままにあおぐろい闇へと消える。


 ―― 甘い香りが、強まった。


 逆らう意志に反し、私の足が進んでしまう。私の慾を掻き乱すモノなんて嫌という程に知っているから、凍えた動悸が伴った。


 硝子割れたたかき窓から月光は差し、緋色の瞳を伏せる少年を照らし出す。白銀の柔らかい髪もケモノ耳も、白夜月のように透き通る肌にも衝動的に触れたくなるのに……智太郎ちたろうが抱く女性に取り上げられてしまう。虚ろな眼の女性は、血濡れた首筋へ恐ろしい牙を埋められているのに。切なく痛む渦雷が、私の血道を指先まで喰い荒らす。一番見たくなかったのは、私だけに優しい貴方が、知らない誰かに牙を穿つ所だったんだ。

 

  智太郎が使っていたのは、間違いなく【魅了】の欠片だ。えさを色で誘い、堕とす。それが黒曜と智太郎が私に隠し続けていた、夜の狩りの真実か。狩りを果たしたというのに、虚ろな智太郎は女性を手放す。緋色の双眸を見開くと喉を抑え、拒絶反応に喀血した!


「這ってでも、口にしろ。お前が牙を穿った彼女の血は、悪戯に吐き捨てていいようなものじゃない! 」


 項垂れた智太郎に怒号を浴びせたのは、黒曜だった。己穂わたしとの約束を守り続けてくれている黒曜は、人の命の重さを知っているんだ。けれど智太郎は、自分の命すら取りこぼそうとしていた。何も言えない私の代わりに、黎映は冷たく言い放つ。


「随分、荒れていらっしゃるのですね。私達を疎外してまで選んだ、貴方達の狩りは遂げられましたか? 」


 振り返った黒曜は、私に気づくと動揺を隠せずに俯いた。だが秀眉を寄せ、黎映を睨み付ける。

 

「見ての通り、智太郎の飢餓が進行している。無理矢理にでも狩りで食い止めなければ、死ぬだろう。拒絶の理由は心的要因だろうが、智太郎はどうしても語ろうとしなかった」


 『死』という言葉に、視界が恐ろしく冴え渡り、私は歩を進めていた。血の拒絶を解かねば、私が望む朝は来ないから。黒曜が立ち塞がるように漆黒の翼を広げたのは、私を守る為なんだと分かってる。

 

「駄目だ、千里。今は危険だから、来ては行けない」


「お願い、黒曜。危なくてもいいから、智太郎と二人で話をさせて欲しいの。今話せなかったら、足掻けなかった事を……ずっと後悔してしまうから」


 私が上手く微笑めなくても、黒曜の瞳は揺らぐ。黎映は硬質な白に髪を靡かせ、幽かに微笑んでくれた。白黒モノクロの彼らは、愚かな私が辿り着く先を見届けてくれるだろう。漆黒の翼先が、月下に幕を上げた。


「なんで……千里がここに……」


 智太郎の意識が醒め、驚愕に変わる。私を完全に捉える前に、智太郎は己の双眸を右手で塞ぎ、俯いた。


「危険だから夜は絶対に出歩くなって、俺は言ったよな。約束を破ってまで、黎映を隣に連れて! どうして、会いに来たんだ……!! 」


 牙を剥く唸り声に、嫉妬の気配がした。逆撫でられた私は感情の鋒を、智太郎に向ける!

 

「何言ってるの? 自分だって、朝帰りすらも出来ない約束破りのくせして。黎映に下手くそな伝言なんてして隠れないで、無事な姿で帰って来てよ! 心配だから会いたいっていうのが、そんなに悪いことなの!? 」

 

 両拳を握り、私は弱くなんかないと示したいのに。潤む視界で捉えた足元が、ぐらついてしまう。


えさと契約をしたから、戻って来ないのかと思ってたんだよ。寂しいけれど、智太郎が誰かに救われているのなら仕方ないって……思おうとしていたのに」


「……違う。そんな、俺には出来ない」


 表情を失った私は、冷気に体内を昇り這われて総毛立つ。その嫌悪が、『血の拒絶』に繋がっている気がした。桂花宮家に居た頃から、智太郎はえさを与えられてきたはずなのに、なぜ今は受け付けないのか。私には分からない。

 

「本当はそんな風に思ってたの? 黎映に救われた私を、蔑んでたんだね。意地なんて張らないで、智太郎だって誰かとえさの契約をすればいいじゃない。そうすれば、互いの血塗れた夜を見ない振りして、また朝に笑えるんだから」


 下らない嫉妬なんかより、互いの命が大切なはずなのに……どうして私達は利口な選択が出来ないんだろう? 私達の心が妖に成りきれない、人だからなのか。


「千里を蔑んでる訳じゃない。有象無象の奴らの血肉でお前の牙が穢されるより、黎映とだけ契約した方が遥かにマシだ。おぞましいのは、なんだ」


 智太郎が、顏を覆った手を解き始める。小指が伝う、ほの嗤う唇を認識した途端。ズキズキと頭痛が明滅し始めた。鮮やかに濡れた牙の鋭さを、わたしの本能が忌諱しているのか。

  

「どんなにおぞましくても、甘やかして全部許されると思ってしまうから……お前に会いたくなかった」


 あれは、私が踏み切れぬ警報灯だ。雪華の睫毛が、帳を暁に上げた。極光オーロラの金箔を閃き、日長石サンストーンの虹彩が緋色あけいろに燃える! 正気を切り裂く瞳孔に、白熱する怖気が血を遡った。


 会いたくなかったと口にしたくせに、私の魂を【魅了】で陵辱しようというの? 意思が殺される前に俯けば、私の両手首が智太郎に片手で掴まれた! 硬い掌から熱く昂る脈動が、髄まで伝わってしまう。陶酔に望洋と微笑む智太郎は、くらく愉しんでる……。引き寄せられ、白銀の猫っ毛が肌を擽った。私の白腕に吐息を残すように頬と唇を擦り寄せ、柔い肌の香に酩酊しているようだった。肌の下に在るモノを求め、血色艶やかな唇が猟奇的に開かれた!


 ―― 牙からは逃げられない。


 眼前で、灼熱の鋭痛が深く埋まる! 悲鳴を上げかけた私の反応を、一片も逃さぬように瞳孔が閃く。爛々と瞬かない緋色の流し目が、見上げていた。【魅了】が侵入し、私の鼓動を業火で弄ぶ。熟れた果肉の果てにされゆくように、痺れた痛みが伝う血に溶けていく……。焦らすようにゆっくりと、咬傷を舐められる魔の刺激に脳圧が緩んでも、 眼下の獣を煽る甘い息を零さないように堪えた。涙に濡れても、慾に溺れたくなんか無いの。


 堕ちない私を、智太郎は深淵から睨んだ。手首を片手で捕まえられたまま、震える肩にしなだりかかられ、脈動する首筋が艶めかしく這われていく。気怠い吐息が甘やかに煙る――

  

 ―― 俺達はツガイの妖だ。どうせ癒えるなら、お前を犯̸҉̷̷̵̴̶̵̴̵̴̶̶̸̧̠̜̖͔̠̅̄͝҈̷̣.̶҉.して喰い千̷҈̷̷̷̷̷̷̷̢̘̫̿͂̕したって。何をしたって悦いだろ?

 

 雑音ノイズ混じりの囁きが、私の理性を試す。焦がれた体温を明瞭に感じても、応えてはいけない。逃げ腰のまま足を引けば、生気の無いえさの肌に触れた。眠る彼女が味わった恐怖も……受け取った想いも同じなのか? 私はいやいやと首を振り、智太郎を突き飛ばした!炸裂した紫電の残羽が、智太郎の青白い顏を照らし出す。透明な花火が弾け、苦痛混じりの哀しみが浮かんだように思えた。


 きっとなら、智太郎は私をこんな風に望まない。本当の意思なんかじゃないはずだ! 飢餓に堕ちた私が、私を満たせなかった黒曜の血を前に狂ってしまったように。

  

「自分が泣いてる事くらい、気づいてよ……馬鹿! 」 


 荒い呼吸で踵を返す最中、掌で鼓動を確かめた。まだ胸の内には、温かさが生きている。可愛がりたいのは、小さな心臓なんかじゃない。智太郎から貰った『雛鳥のような優しい愛情』を殺されたくなくて、私は逃げ出してしまった。 


 

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