第二百十三話 薄曇りに、白鰭の水辺

 

 ほんのりと露草色に薄曇り、漏れ出る白光があった。薄まる体温で現実を曖昧に感じられる、良い日和だ。あの太陽が居なければ、白茅チガヤの野は『真白』に輝けない。靡く穂波を撫でるのは、白猫を可愛がっているようで心地良かった。立ち枯れた木が後光を浴び、背骨の化石へ変貌しようとする。山の碧緑を地続きにするように、浅く広い鏡池が澄み切っていた。森厳しんげんに囲われた、神域だ。


 ―― 彼が飛び石で水を切り、白鯉を波紋で退ける。

 

 白茅の野に座る黎映りえいは、白銅のように反照する髪を風に任せていた。睫毛が透かす深緋こきひの右眼で、逃げる白鰭を捉えたままだ。

 

「青ノ鬼とも話し合いましたが……【未来四感】で妖を人に化す可能性に干渉するには、影響を探る必要がありそうです。人が原初の妖となり、生力が妖力に化すことわりはありますが……妖力を生力に化すのは、死を生に変える程の新たな理で、古き理を凌駕する必要があるのです」


「前に炎陽えんようも、原初の妖は『人』として死んだ生き物だって言ってた。死すらも半分喪ったから、半不死なんだと。『人の残滓』を心に抱く原初の妖わたしたちの半分は……生でも死でも無い『中空』で出来ているのかもね。死者と近しい『妖』を人へ蘇らせるなんて、禁忌なのかな」


「妖は生力を得る為に人を喰らいますが……真逆の風向きを創ってしまえば、人が妖を喰らう……そんな恐ろしい世界になってしまうかもしれません。改変する禁忌を認めても、 対価の可能性は、私一人の代償では済まないかもしれない」


 黎映は冷静な横顔を伏せ、己の首筋を撫でて語る。漠然と感じていた不安が、輪郭を帯びてきてしまった。


「『人』に戻る願いを叶える為に、黎映を犠牲にする選択肢なんて避けたいの。手段は多い方がいいし、『第二の方法』も探してみようと思う」


 青ノ鬼や私達以外にも、『可能性』や『人と妖の化生けしょう』に詳しい人物が居れば、新たな道を開けるのに。【過去夢】に伴う金の光……黄昏として、時の流れである『天鵞絨ビロードの大河』を認識し始めた私では、力添えに足りない気がした。


「黎映は、この『隠世 大ノ蛇栄螺堂』で夢が形に成り始めてるのに……私の夢はまだまだだね。鳥籠の外でも、人と妖が共に飛べる世にしたいのに」


「夢への道程が遠くとも、千里が今出来る一歩を進めば良いのですよ」


 黎映が救い主のような微笑みで振り返ると、道が見えてくる気がするから不思議だ。素直に夢を語れる同志だからなのか。

 

「まだ曖昧だけど……今何をすればいいかは分かった気がする。『人も妖も隔てなく、大切なひと達と桂花宮家に帰ること』かな」


 膝を抱えた私に、黎映は少々惚ける。

 

「笑わないで。今の私が考えた精一杯なんだから」 


「笑いません、素敵な夢だと思いますよ。千里の『大切なひと達』に、私も含まれていたら……なお嬉しいです」


 黎映は私の真似をして、悪戯っ子のように膝を抱えた。双眸を輝かせて窺う黎映に、私は幼子みたいに笑みを返して頷いた。

 

「黎映達以外にも大切なひとが居るんだけど……再会したい彼女……咲雪さゆきが眠る竜口家の場所は分かったのに、招待状が無ければ入れないんだって。運良く協力関係を結べた、宮本家の都峨路つがろさんも分からないみたいだし……手詰まりかも。黎映は、竜口家について何か知らない?」


 『過去夢』を思い返せば、黎映達の亡き父である伊月家の前当主……伊月いづき 弥禄みろくは、竜口たつぐち さえと交流があったようだった。黎映なら、冴について詳しいかもしれない。


「竜口家ですか……。父上は、度々訪れる冴さんとは親しげでしたね。陰湿な父上は妖の研究以外興味が無く、母上も含めて誰に対しても素っ気無いのに、冴さんとは親しげに話すものだから、神経質な母上は苛立ってました。高飛車な妖狩人である冴さんに、臆病な徒人にしかすぎない母上は何も言えない様子でしたが。正直……冴さんは父上の愛人なんじゃないかと、兄さんと私は幼心に疑ってました」


 他人事のように、黎映はニッコリと語る。人ならざる魔眼と呪うべき苦痛を与えた弥禄には、情愛など無いだろうから当たり前か。冴が弥禄の妖しき愛人だったかどうかは個人的に気になるが、 ヒントにはならなそうだ。

  

「招待状に関しては、お力になれず口惜しいですが……関わる人の遺品や頂き物から探してみてはどうでしょう? 何か出てくるかもしれませんよ」


「母様達の雪華の髪留め以外、桂花宮家に有るの。私と同じく、桂花宮家から追われる身の黎映達も、伊月家の本邸には戻れないもんね……」


 妖達の古の封印である『ばく』の術式を保つ、伊月家兄弟が『妖』を選んだ事は、妖狩人達からすれば『人』への裏切り行為。特に術式の根源たる妖を握られている、擬似妖力由来術式家門は許さないだろう。竜口家の『人魚』は『縛』の術式に縛られていないようだが、黎映達に対する竜口 冴の真意は分からない。


「そうですね……父上の遺品が忌まわしくとも、もう少し見ておくべきだったかもしれません。醜いのは嫌いですが」

 

 が擽ったい気がすると思ったら、脚を横座りに流した黎映が、自身の衿下から首飾りを引っ張り出して弄んでいた。珊瑚色にほの染まる、紅紫色の結晶だ。日没の東空ビーナスベルトの一片を傾かせれば、勿忘草色の幽燭ゆうしよくが揺らぐ。硬質な躑躅ツツジの花弁は、私の欠けた根源しんぞうだった。どうやら感覚が繋がっていたらしい。丁寧に撫でられて見惚れられると、ちょっと恥ずかしいんだけど……。

 

「根源の欠片を頂いてから……ほんの少しですが、千里が通り抜けてきた【過去夢】達が視えたんです」

 

 私は息を呑んだ。根源に異能が宿るのなら……黎映が手にするのは、異能の欠片なのか。炎陽えんようの根源の欠片を継いだ智太郎も、【魅了】の欠片を宿した可能性がある。私の隣で、智太郎達の夜の狩りを語った珠翠しゅすいも知らなかったのだろう。


  

「貴方の前世かこを支配しているのが鴉なら、現代いまに寄り添えるのは智太郎でしょうか。けれど貴方のには……私以外、手を伸ばす事は出来ない」


 

 真白の精霊は、薄い唇で艶やかな弧を描いた。黎映は深緋の右眼で、私を硬質に射抜く。鋭光が、胸の内へ直に刺さるようだった。既に私の欠片は、柔い髪筋を靡かせる彼の掌の内だ。


「私の未来を物にして、弄びたいの? 」


 私はおそれを殺して睨んだのに、しなやかに小首を傾げた黎映は満足気に双眸を細めた。


「ふふっ……貴方に籠絡されてるのは私の方ですよ。妖から人に戻る『第一の方法』を掌握したいなら、貴方は彼らの為に、私を捕らえておくべきではありませんか? 」


 私から『可能性』を奪うと告げておきながら、【未来四感】というおびやかしてみせるのは……私を冀求ききゅうしている証だ。黎映は恋情を棄てた振りをして、未練を新たな欲に変えたのか。

 

「……望みは何? 」


「私を、貴方の唯一のえさにして下さい。私以外、口にしないで欲しいのです。大切な人を傷つける快楽を望まない貴方の牙を抱けるのは、私の血肉だけでしょう? 」


 逡巡は無駄かもしれない。人を傷つける事を恐れる私は、牙を許した黎映以外のえさなんて選べない。まして、智太郎を牙で傷つける事なんて……私には絶対に出来ない。私の心は、どこまでも『人』をやめられないから。


「貴方が慾を清く拒んでも、彼の牙は今……誰かの血肉の中ですよ」


 囁きが恐れていた真実を反響し、私の『空白』を残酷に掻き乱す! ギリギリで保たれていた気丈が決壊し、泣きたくなってしまう……。黎映は共鳴したように睫毛を伏せたのに、底光りする憎悪を隠せなかった。手首を強く引かれ、私は水飛沫を浴びて竦む! 涙を冷たく奪い、ひらりと舞う白鰭を流水に見た。あれは、黎映の絹袖だ。

 

「私は何もしません。千里が私を求めればいいのです。貴方の呪痕しかない私の首には毒なんて無いから……ですよ? 」

 

 水辺へ引き込んだのは、潔白を示すためか。後ろ手をつく黎映の上で、私は彼の肩に触れていた。神秘的な白木蓮ハクモクレンの香が甘やかに、水へ溶けるようだ。互いのうすぎぬは濡れて透けるのに、感じる体温は違うんだろう。私の身体は生温いのに。滴る濡羽色の髪筋が鎖骨を滑っただけで、黎映は儚い顏で辛い吐息を殺したから。磨かれた輪郭から首筋へ、一雫が伝った。

 

 深緋と白の瞳を潤ませる黎映は、バケモノの私がいいらしい。私が忌み嫌う牙に陶酔し、高鳴る鼓動を止められないのだ。遠く離脱した意識のまま呪痕を唇で辿り、白皙の首筋を喰い破った。甘すぎる血の味が溢れ、憂鬱な脳髄を揺さぶられる。私は鈍い苦痛に塗れているのに、自分勝手に悦がる彼が憎ましい。


 真白は簡単に染まるんだな。『私を救いたければ、汚れてみせてよ』と、隠世で私が告げたからか。妖混じりの人として懊悩おうのうしていたはずの黎映の方が、灰色の慾に濡れて……今は酷く妖らしかった。

 

 

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