第二百十二話 月星日を尊ぶ隠世


 私は憧れた電線上を歩み、ひばちはらわたから燃え盛る高揚感を味わう。眼下には、京緋色の海。吹き荒れる潮風が、肌を爽快に撫で上げた。電柱を蹴って、わたしの理性ごと逆さに吹き飛ばしてみる。袖に顕現した紫電の翼と両手を広げれば、白い落陽が青紫のうすぎぬを透かし、血潮が呼応に煌めく。夕空を割いた翼の影絵シルエットから、私が眠るうつつの夜を垣間見たが、翼先は頭上に過ぎていく。夢にかがやく白い魂は、 果てなき海をさざなみの息吹で荒らす水平線へと堕ちていくのだろう。あの愛しき太陽を、私はよく知っているような気がした。


 電柱だけが奇妙に生える海は、生き物が死滅した世界みたい……。望洋と着地した瞬間、自分自身が小さくなってしまうような恐怖が襲う。夜の狩りに向かう智太郎達を「いってらっしゃい」と、無理矢理整えた笑顔で見送ったはずなのに……私はどうして孤独な夢の中に居るの? 智太郎が去り際に返したのは、哀艶あいえんが霞む微笑みだったから……?

 

 起きれない夢なんて、暑苦しい金縛りと同じだ。うつつに届くように呼び声を叫んだが、隣宅の紅音達だって、夜は【魅了】で招いたえさ達と狂宴の中だろう。黒曜の流儀に従い、彼らを喰い殺さない静けさで。


「やっと、軽くなった貴方を夢で見つけた」


 自暴自棄に進んだ最後……沈みゆく電柱に止まる、幼い少女が居た。白菫色のボブに、高めの小さなツインテール。女郎花おみなえしのウィングスリーブボレロと、白菫色に薄群青が灯るような丸いスカートを纏うのは――

 

沙亞耶 サァヤちゃん……? 」


 沙亞耶は振り向いたのに。モニターがバグったようなRGBの引っ掻き傷で、表情は掻き消され、足元から顔を上げられなくなった。彼女の白いバレエシューズが、幽霊のように透けている。


「桂花宮 千里。貴方じゃなきゃ、駄目らしい。『私』は泣き虫なのに、意地っ張りで。早く約束を果たしてくれないか? 『自分』には……話そうとしないから」


 他人事みたいに自分を語る割には、柔らかい哀の声だな。


「『太陽』と『妖精』を救済に進めよ。道が分からないなら、迎えに行く。幾重にも渦巻く再会の為に」


 両手を水平に広げた少女が、血潮の海へと墜ちていく。かがやく白い太陽が砕け、沙亞耶に手を伸ばした瞬間……私は金縛りから目覚めた。寝苦しさに、奇妙な夢を見てしまったのか。


 朝陽は優しく差していたのに……静かすぎる。ざわつく胸騒ぎのままに早支度をして一階へ降りたが、智太郎達が居ない。跫音きょうおんの反響が深く抉る心臓は、がらんどう。血潮通う内壁が荒れている。


「嘘つき……夜明けには戻るって、言ってたくせに。心配かけてるのは、そっちじゃない」

 

 消えた優しい朝を思うと、呼吸が辛くなった。散々、嘘を塗り重ねてきて、責められた義理じゃないくせに。夢にかがやいた白き落陽と、智太郎の哀艶あいえんが霞む微笑みが合致してしまう。


 私は、あの続きを知らない……!


 膝から崩れ落ち、椅子に縋る事すら叶わず。こめかみに爪を立て、脈動を喰い荒らす『空白』に耐えた時―― 明るいチャイムが反響し、希望が沸く! 約束を信じ続ける子供みたいに、地を蹴った! だが走る途中、私の根源しんぞうとドアの向こうを繋ぐ、若葉色の生力の光に気づいてしまう。鍵を持つ智太郎達は、チャイムなんか鳴らさない。


「おはようございます、千里」

 

 ドアを開けば……鼻筋がすっと通る端正な顔立ちをした、白皙肌の青年が振り向く。白茅チガヤのように柔いのに、白銅の如き玲瓏が舞った。旋毛つむじの黒から白へ変化するショートヘアは、女性的だ。両耳を晒す髪質は真っ直ぐで、首筋を撫でる襟足は軽やか。白鼠色の着物の袖がさらりと靡き、灰味の薄黄である蒸栗色の細衿が見えた。赤紫に味わい深い葡萄えび色の角帯は、。菱文様が籠のように透かし編まれた先に、フリンジが揺れる。


「なんで、黎映りえいが……」


 繊細な睫毛を瞬き、黎映は柔和に微笑んだ。切り揃えられた前髪は眉を隠し、切れ長の双眸を強調する。白く光を失った左眼より、深緋こきひの右眼が金纏う黒針の瞳孔で異端を示す。


「貴方の待ち人から伝言です。今は戻れない、そうですよ。理由は言いたくない、だなんて……酷いですね」


「智太郎は無事、なのね」


 苦く微笑む黎映が頷けば、夢で感じた不安が少し軽くなった。だけど、何故智太郎はこんな伝言を残して約束を破ったのか……のが、胸を憂慮で掻き乱す。


「智太郎が戻れない理由を、教えてくれる? 付き添う黒曜すら戻れない訳を」


 睫毛を伏せた黎映は、薄い唇を閉ざして首を横に振る。伝言を盾に、私へ明かす気は無いらしい。

 

「私が鴉に呼ばれた理由なら……二つの内、一つだけ先に明かします。自分勝手な寂寞で【未来四感】が発動してしまう前に、千里に会いに来たのです。貴方の可能性を、もう奪いたくないから。今日一日だけ……私に頂けるなら、貴方の『太陽』の元へ案内しましょう」


 手を伸ばす黎映の冀求ききゅうは、絶対的に有利だ。私の安寧は、えさとして契約を交わした黎映の生力いのちという犠牲の上に成り立っているから。それに……妖が人に戻れる可能性に干渉出来る【未来四感】を宿すのは黎映だけだ。人の形を成した希望を、手離すべきでは無い。私が虚ろに手を重ねれば、黎映は弾けるように綺麗に笑った。

 

「良かった。千里の内を荒らす嵐の痛みを、首の呪痕で感じていましたから。……私の血潮なら、貴方の飢えを満たしてあげられます。形無い生力では限界があるでしょう? 」


 手ごと引き寄せられ、清謐せいひつな声で翼耳に囁かれた私は眼を見開く。それが、二つ目の理由か。笑みを引き、深緋の右眼に艶を底光らせる黎映を、私は小さく睨んだ。


「無理なんてしてないから、要らない」


「貴方が、自分の声に気づく事を願っております。せっかくだから、今日は私達の隠世にご招待したいのです。私達が安寧の地を得られたのは、千里のおかげですから」

 

 純粋な微笑みに惑うが……私の右手は黎映に綱引かれたままだ。外へ連れ出されると、銀の車に寄り掛かる男が居た。縦皺の麻が特徴的な小千谷縮おじやちぢみの着物を纏い、鉄紺てつこんの角帯を巻く。


 私達に気づいた彼が、黒灰色こくかいしょくから白へ傾く袖の下で組んだ腕を『妖の色彩の秘匿』と共に解いていく。黎映と良く似た、切れ長の目には滅紫けしむらさきを貫く金の逆三日月の瞳孔。白皙の頬には、薄い鱗。紺青こんじょうの髪を白い組紐で結び、左耳下から肩に流す。中央で分けた前髪の右から、白筋は後頭部を通り、束ねた髪へ這う蛇の如し。

 

 『大蛇』との後天的半妖であるまことが、挨拶代わりにズイッとクマのキーホルダーを無表情で突きつけてきた。リボンが結んであるということは……私にくれるということ? 前にも菓子を貰ったけれど、私には味が分からないと伝えたからか、とぼけたクマに変わったらしい。小首を傾げながらも、受け取る事にした。 

 

「あり、がと……? 」


 私達は一度殺し合った仲なのに、私を下手くそに懐柔しようとしているのかな? 彼らの『隠世 大ノ蛇栄螺堂おおのへびさざえどう』の結界を保つ根源しんぞうの欠片を与えた私は、間接的なあるじにあたるから?


「兄さんは、千里を妹みたいに思っているんですよ。私が小さい頃も、似たようにお土産を貰いました」


 黎映はクスクスと笑うが、なんと誠は否定しない! 私は絶句するしかなかった。いつかの青ノ鬼あおのかみの推測は当たっていたという事か……。誠は咳払いをして、チラと私を見た。

 

「ところで……綾女あやめさんは元気だろうか? 」


 誰だっけ……と思案し、月白輝く黒の長髪ウィッグと紫黒色の着物にて、綾人あやとが女装した姿を思い出す。綾人の姉、という設定をふざけながら語っていたような。もしかして、とぼけたクマは紹介料込みの賄賂だったのだろうか。

  

「ああ……ゲンキだと思うよ。今度会ったら、伝えとく」


  全く……綾人はどうやって、誠を誤魔化すつもりなのだろう。秘匿に命が懸かっているというのに。下手したら、美峰みねと誠に挟まれられるのは間違いない。ご愁傷様、と私は薄らと微笑んだ。

  

 大ノ蛇栄螺堂へと誠の車で向かうのは、秋以来二回目だな……と車窓越しに蒼滴る峡谷を眺めた。野山の錦を共に観た、智太郎の事を考えてしまう。駄目押しでLINEも送ってみたけれど、既読もつかない。今何を見て、何処で苦しんでいるのかも分からないんだ。味方なのに、何もしてあげられない自分が腹立たしい。私が智太郎の立場だったら、とうに嫌気が差していたんじゃないだろうか。愚鈍で卑怯な私より、ずっと素直で器用に生きれる人だもん。


 もしも……智太郎が新たなえさと契約をして、戻って来ないのだとしたら。

 

 えさとして、智太郎を救えなかったわたしは不良品になったのかも。飢餓から私を救えなかった黒曜も、同じように辛かったのかな。滲みそうになる涙に、瞬きで必死に抗っていると。私の手の内から、とぼけたクマが攫われ、ぷにっと右頬へ押し付けられた!


「『今だけでも、解けない心配ごとなんて忘れてくれたまえ! 』……とクマが言っております」

 

 手を振るクマを自身の口元に寄せ、黎映は上目遣いに悪戯な笑みを覗かせた。小首を傾げた私は下手くそに、はにかんだ。大ノ蛇栄螺堂へ辿り着き、久しぶりの螺旋屋根が垣間見えた途端……無邪気な黎映に引っ張られてしまう!


「来てください、千里! 」


 輝きと石段を駆け登る最中……車のトランクを開けた誠と、荷降ろしを手伝う女性二人を顧みた。そういえば誠が車内で、米や塩を煉経由で黒曜から貰ったと話していたはず。彼らを守護したい私の望みを、代わりに黒曜が果たしてくれているみたいだ。誠達と和やかに談笑する、赤銅色の瞳の彼女は見覚えがあるような。


「隠世に居るけど、あの二人は『徒人』だよね? 」


「二人は、『隠世 猫屋敷』から救済したえさです。『人の世』から『隠世 猫屋敷』へ、彼女達を連れ去った兄さんを赦してくれました。『隠世 猫屋敷』で虐げられた日々よりも、己を傷つける日常が有った『人の世』へ帰らない事を選択したのです。来訪する妖達を受け入れて、『隠世 大ノ蛇栄螺堂』に楽園を望んでくれるなら、私は庇護で応えようと思うのです」

 

 前を向く黎映は、凛とした声音で答えた。鳥籠の内で夢見た『妖と人との対立を終焉へ導く世界』は、翼を成し始めていた。大ノ蛇栄螺堂を過ぎて、私の手を引く黎映は森の中へ駆けていく。木漏れ日の中を渡る私達は、薫風になったみたいだ。心の底を浄化してくれるみたいで、心地良かった。

  

「鳥籠から巣立った私達は、同じ夢を追う者でしょう? 貴方と共に語るには、綺麗に真白い野がぴったりだと思いまして」


 森が明けた。『真白』は陽光の反射かと思ったけど、違う。浅く広い池と野を見下ろすのは、木天蓼マタタビの白混じりの葉か。反射を葉に焼き付けて、留めたみたいだった。


「夏なのに、雪原の中に居るみたいだね」

 

 白茅チガヤの野と同じ柔い髪筋と、白鼠色の袖が旗めく。立ち止まった姿は、『真白』から精霊として生まれたみたいだった。振り返った黎映は、自分が褒められたかのように、綺麗な笑みを輝かせた。


 

 

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